キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタントの元信徒が運営するキリスト教批判ブログです

蛇とモーゼとヒゼキヤ

www.thetorah.com

創世記には、人を誑かす悪の象徴として蛇が記されていますが、民数記には人の病を癒す役割を持った蛇が登場します。見てみましょう

民数記 21:4-9

民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。 民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。 そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。 民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。 そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。 モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。

そして、これと対になる記述が列王記下にあるヒゼキヤ王の次の行為です。

列王記下 3-4

 ヒゼキヤはすべて先祖ダビデがおこなったように主の目にかなう事を行い、 高き所を除き、石柱をこわし、アシラ像を切り倒し、モーセの造った青銅のへびを打ち砕いた。イスラエルの人々はこの時までそのへびに向かって香をたいていたからである。人々はこれをネホシタンと呼んだ。 

民数記には、モーセが神の指導に従ってイスラエルの民のために青銅で蛇の像を作った、と記されていますが、列王紀下では、ヒゼキヤ王が、それを偶像崇拝だという理由で破壊した、と記されています。しかしこれでは、ヒゼキヤ王がモーゼや神に反することにならないのでしょうか。直感的には納得できない事柄であるように思います。

これはどういうことなのでしょうか。上記のキャッチアイに貼った、THE TORAH というサイトの Nehushtan, the Copper Serpent: Its Origins and Fate という記事に一つの考え方が示されていますのでみてみましょう。Google Chrome の翻訳機能による日本語でご紹介してみます。

民数記の物語は、ヒゼキヤの改革以前の、この銅の蛇の起源を説明する病因論的な物語であると思われる。[5]民数記の物語の著者は、この像(ネフシュタン)を実際に、あるいは評判で知っていたため、イスラエル人の間に、おそらく神殿自体にさえ、そのような像が存在する理由を説明する必要があると感じた。したがって、人々がそれをどのように扱ったかにかかわらず、彼は銅の蛇が神の表現として意図されたことはなく、治癒のために設計されたと主張した。その建造はヤハウェによって命じられ、モーセのような人物によって実行された。[6]

イスラエルを含むカナン地域には、イスラエル入植の前からの多神教的な土着宗教があり、Nehushtan と呼ばれた蛇神信仰もその一つで、盛んに行われていた痕跡があるようです。

列王紀にはヒゼキヤ王がヤハウエ信仰を国家の宗教と定めよう(ヒゼキヤの宗教改革)とした、ということが記録されています。

上記サイトの説明によれば、従来の土着信仰を排斥するにあたって、実際にはそれらの土着宗教はヤハウエ信仰よりもずっと古い歴史があったのですが、民数記の作者たちは、ヤハウエの権威を高めるためにその事実を隠蔽しようとして、イスラエルの民が拝んでいる青銅の蛇の像は、土着宗教の蛇神ではなくて、ヤハウエの命令によってモーゼが作成したものだったのだと言ったわけです。一方、列王紀の編者は、民数記に書かれているように、ヤハウエの唯一神殿に祀られている青銅の蛇の像は、ヤハウエ信仰に由来し、傷の癒やしを象徴する印のようなものなのだが、次第に民衆の間に間違いが発生し、青銅の蛇が神そのものであるかのように理解して、供え物をささげたり、薫香を奉じたりするようになったので、彼らの誤った信仰を正すために、モーゼによる造形物である青銅の蛇を泣く泣く破壊した、と虚偽の説明をしてしまったのだ、というように理解することができます。実際には、ヤハウエの唯一神殿に於いてもアシェラや蛇神などの神像が祀られていて、それらを拝んでいたからです。

このように、民数記、列王紀ともに、上記のような動機によって脚色された物語が記されたものであろうと推測されるのですが、民数記の成立が紀元前1400年頃、列王紀下が同500年頃であるのですから、少なくともこの間1000年近くの間、蛇神信仰など、土着の多神教が、ヤハウエ信仰を上回る勢力を保持していた、と推測することができると思います。