キリスト教大辞典

キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

席上献金の使いみち

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dustoffthebible.com

日曜礼拝に出席しますと、「説教」の次あたりに「献金」があります。「席上献金」ともいいますが、「月例献金」と区別するためにそう言うようです。

教会には「月例献金」があるのに、その上なぜ「席上献金」を行うのだろうか、と疑問に思われたことがないでしょうか。その他にも、「イースター特別献金」、「クリスマス特別献金」、「感謝祭特別献金」がありますし、教会によってはさらに「聖餐式感謝献金」、「会堂費」、「神学生養成献金」などと言って、様々な名目で献金を要求される場合があるようです。

結局のところ、どの名目で集めた金をどう使うのかは教会の勝手だということに尽きるのですが、元々は、月例献金と席上献金は全く異なる目的で集められていました。

月例献金というのは、教会の運営に必要な経費を賄うためのものであって、教会の会計の収入となるものです。すなわち、教会の光熱費、修繕費、牧師の謝儀などに充てられるものです。

一方、席上献金とは、教会会計には入れず、そのまま寄付金として救護施設や孤児院などに渡すための献金だったのです。

ですので、月例献金はその教会の会員だけが負担し、席上献金はその日教会に集まったすべての参加者が捧げました。

その名残で、何月何日の礼拝席上で集まった献金額はいくらだった、と週報や月報で報告されるのですが、どの施設にいくら寄付できて、具体的にどのようなことに使われたのか、という報告をおこなったのです。

今、月例と席上は区別しなくてはならない、と考えている牧師も役員もいないでしょうし、かつてそうだった、ということを知っている人もいないでしょう。どの献金だろうと区別せず、同じように教会の収入として処理されていると思います。

プロテスタント教会は、かつてのカトリック教会のようにではなく、教会運営は最低限の必要だけで賄い、その他集まった金はすべて貧窮者に寄付します、という清廉な精神を誇りにしていたはずなのですが、いつの間にかカネカネ教になってしまったのはまことに残念なことだと思います。

プロテスタント教会の礼拝は、それすなわち貧窮者を救うための寄付行為そのものであったわけです。今は、赤十字など、慈善事業が充実してきたので、プロテスタント教会がその役割を終えつつあるのだ、ということも理解できるのですが、だからといってなし崩し的に意味が変更されてしまうのは納得できないことですよね。

必要が無くなってしまったというのであれば、もう席上献金はしなくてもよい、ということになって然るべきです。

もともとは聖公会の方針として生まれた考えが全プロテスタントに伝播したものであるようですが、この、そもそも教会に集まる金は困窮者の救いのために用いられるべきである、という方針を現在でも実践し続けている教会は、わずかに「救世軍」だけだと思います。

だからといって救世軍入信をお勧めするわけではありませんが、社会におけるキリスト教の存在意義をよく理解している教会はどこかといえば、そういうことになるでしょうね。

什一献金は律法ではなかった

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バル・ミツワー。ユダヤ教徒の成人式

ja.wikipedia.org

聖書の「五書」を「トーラー」、「成文律法」といいますが、そこに書かれている「命令」と思われるものの全てが律法であるわけではありません。

ユダヤ教徒は伝統的に、律法は613である、と定義して数通りの列挙を試みた、ということですが、Wikiには  マイモニデス というラビがまとめた列挙が紹介されていますので、その中から什一税に関する条文を抜き出してみましょう。

202. 什一税となるはずの果物を食べてはならない レビ22:15
249. 「貧しい者への什一」を分離しなさい 申14:28
253. レビ人は、什一税のうちの彼の什一を取り分けなければならない 民 18:26
254. 適切な方法で分離された初物を什一としてはならない 出22:28
260. 各植えつけの年、それをレビ人に与えるために、マアセール(什一)を取り分けなさい 民18:24
261. 第二の什一(マアセール・シェーニー)を取り分けなさい 申14:22
269. それぞれの四年目と七年目とに、什一の告白を読み上げなさい 申26:13
429. Separate the tithe from animals レビ27:32
430. Not to redeem the tithe レビ27:33

 これだけです。「全国民は什一税を収めなさい」という条文は存在しませんね。むしろ、『249. 「貧しい者への什一」を分離しなさい』とあります。申命記の該当箇所を読んでみましょう。

申命記14:28-29

三年の終りごとに、その年の産物の十分の一を、ことごとく持ち出して、町の内にたくわえ、あなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないレビびと、および町の内におる寄留の他国人と、孤児と、寡婦を呼んで、それを食べさせ、満足させなければならない。

この条文からは「貧しいもの」は什一税を免除されていたであろう、ということが容易に想像できます。つまり、イスラエルの国民の誰も彼もが什一税を納める義務を負っていたわけではなかったのです。経済的余裕がある富裕な者だけが什一税を収めれば国は回ったということです。貧しいものからむしり取るようなことをしては、国勢が衰えてしまいます。考える力があれば苦労せずに理解することができるはずですよね。

さらに、この条文からは、什一税を収める意義は、レビびとと貧者の救済のため、とありますが、前回記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でも説明しましたとおり、プロテスタント教会は「万人祭司」を主張しているのですから、嗣業を持たない祭司職を経済的に支える、という考え方そのものが成立しません。かといって、教会が、集まった献金から貧しい外国人や寡婦、孤児などを経済的に支援する実例を目にしたことはありません。一体何のために献金の率を指定する必要があるのでしょうか。

六法全書も使い方一つで脅迫の武器になるでしょう。しかし、お前はこれをしなければこういう刑罰を科せられてしまうぞ、などと言うことは違法行為になりかねません。

律法も全く同じことです。むしろ、律法には神の憐れみ深い性質が反映されていると見るべきです。次の条文をご覧ください。

239. 貧しい者のために、農地の角を刈り残しなさい(en:Pe'ah) レビ19:10
240. その角を刈り入れてはならない レビ19:9
241. 落穂(en:Gleaning)を残しなさい レビ19:9
242. 落穂を拾い集めてはならない レビ19:9
243. ブドウ園の収穫漏れを残しなさい レビ19:10
244. ブドウ園の収穫漏れをかき集めてはならない レビ19:10
245. 熟していないブドウを残しなさい レビ19:10
246. 熟していないブドウを摘んではならない レビ19:10
247. 農地に忘れてしまった束を残しなさい 申24:19
248. それらを回収してはならない 申24:19

これらは、畑作をすることができない貧しいものたちが取って飢えを凌ぐことができるように、取り尽くしてはいけない、という定めなのです。ミレーの「落ち穂拾い」という絵画は、この律法を元に描かれたものです。

ja.wikipedia.org

 

また、マラキ書を引用して什一献金を強要する牧師がいるようですが、マラキ書とは

ja.wikipedia.org

によれば、

背景
当時、捕囚から帰還した頃は市民権の保証がなく、旱魃や大量発生したイナゴのため凶作が続き、更には周囲に敵意を持つ民族が居住していたため、非常に衰退していた。そのような状態でイスラエルの民は神殿を再建した。しかし、エルサレムはペルシアからも独立出来ず、ハガイ2:2で語られたような約束された栄光を見てはいなかった。

また民の中の資産家はそれを増やす手段を選ばず、軽率な離婚や異邦人との結婚などを行っていた。祭司はそれを止めようともせずにむしろ助長させていた。平気で皆が律法を破るようになっていたのである。

このように祭司の堕落や、軽薄な雑婚・離婚、捧げ物の不履行などが蔓延していた。

上記のようにネヘミヤがエルサレムに不在で人々が混乱に陥っている際にマラキがメッセージを語ったのである。しかし鈍感になっていた民は繰り返される預言に対して「どのように」と繰り返した。(マラ1:2他、多数)その民衆を呼び覚ますために預言者が遣わされたのである。

という特殊な状況下における警鐘として著されたものであって、現代のキリスト教徒に単純に応用できるようなものではない、ということを理解できると思います。

 

上で紹介した前回記事「牧師の地位について」にもかきましたが、牧師というのは信徒が雇用している召使いに過ぎません、ですから、講壇の上から偉そうに金よこせと言い出したら替えドキの目安です。緊張感が薄れて大義名分さえ忘れてしまった証拠ですので、教団に交換を申し出てください。

万一、牧師が教会のオーナー、というような低劣な教会の信徒になってしまっている場合は、迷わず、今すぐ、少しでもマシな組織的教会へ移転してください。

一番良いのは、宗教なんてバカバカしいママゴトだと気づいてやめてしまうことです。

牧師の地位について

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www.biography.com

今回は「牧師の地位」について考えてみましょう。

 

「悩めるクリスチャンの日記」というブログの「教会に行きたくないという気持ち」という記事から引用します。

plaza.rakuten.co.jp

2015.03.17

教会に行きたくないという気もち
カテゴリ:最近思っていること・一般
キリスト教信仰をつづけると、何か大きなつまずき、または、とても不愉快なことが原因で、教会に行きたくなくなるし、中にはクリスチャンをやめたいという人も多いと思います。

最大の問題は3つあり、クリスチャンの人格であり、その他に「聖書中心主義」と「牧師による聖職者独裁制」があります。
「聖書中心主義」というのは、聖書に忠実な生き方をすることです。または聖書の言葉を文字通りに信じることです。でも、いったいどの解釈が正しいのでしょうか。

もう一つは、牧師による独裁的な教会運営、または聖職者制度のことです。これはカトリック教会の悪いところを受け継いだのが原因だと思います。牧師には上司がいない。怠けようが何をしても叱る人がいないというパワハラとは無縁の職業。でも、結果としてでてくるのが献金の金額と日曜礼拝の出席人数なんです。逆に長年、信者として聖職者ではない年長のクリスチャンはさまざまな苦労を知っているので、牧師を叱りたくても叱れないという悩みを抱える場合もあります。

口先だけの謙虚さではなく、本当の謙虚さになるには全ての人が平等の位置にいるのべきなんでしょうか。その意味で聖職者制度には強く反対をしています。

最後にはクリスチャンの人格の問題があり、常に人を見下すことなんです。変な意味での正義感があることです。自分の場合、口下手すぎるのが致命的過ぎるほどの欠陥(短所も見方を変えれば長所となるが)で、つねに誤解され続けていて、それが原因で教会で傷つけられることが良くあります。時には怒鳴り散らしたい気持ちになることもあります。

キリスト教会には本来「会衆制」と「長老制」という制度があり、聖職者制度はカトリック教会のときの名残です。
クリスチャン歴が長く世間でも良く思われ家庭をちゃんと納めている人が長老として運営し、一人一人の意見をちゃんと聞く教会が健全だと思います。

とにかく信頼関係がなければ、または、バカにされていれば何を言っても無駄なんです。人間関係を断ち切る勇気を持つことも大事なんです。リセットして、よく反省し再起動をすることも重要なんだと思います。

自分の居場所がない。一人の人だけが奉仕活動を独占してしまっているなど。気がつかずに迷惑をかけることもたびたびある場合もあります。

とにかく、余計な事を言ってバカにされないためには、無口なほうがいいです。
余分な事を言わないことが無難です。

 ここで、「キリスト教会には本来「会衆制」と「長老制」という制度があり、聖職者制度はカトリック教会のときの名残です。」と述べておられるのですが、正確ではありません。「キリスト教会には」は「プロテスタント教会には」というべきですし、「会衆制」「長老制」というのは教会政治の行い方であって「聖職者制」とは別のものなのですが、そもそもプロテスタント教会には「聖職者」がいませんので「聖職者制度]というものも存在しません。

カトリックには「叙階」というサクラメントがあって、司祭になったり司教になったりすることは神の介在による特別な印、という考えがあるのですが、プロテスタント教会宗教改革によって、この考えを捨ててしまいました。プロテスタント教会における司祭は、信徒各々がそれであって、信徒は司祭を経由せずに、神から直接あらゆる恵みを受ける、と考えるのです。これを「万人祭司」と言って、「聖書のみ」、「信仰義認」に並んで「宗教改革の三大原理」と言います。プロテスタント教会には「司祭」という特別な職制は不必要で存在もしない、という意味ですね。

ですので、カトリック正教会の神父さんに該当するのは、プロテスタントでは牧師さんである、と考えるのは、厳密に言えば間違いなのです。

では牧師とは何なのか、と言いますと、要するに「教会の管理人」だといえばほぼ正確だと思います。牧師は信徒の使用人だということですね。

上記ブログでも言及されている通り、プロテスタント教会は、長老教会や改革教会の「長老制」、バプテスト、組合教会の「会衆制」、また、聖公会やメソジスト、ルター教会などのような「監督制」と言ったような制度を通して、信徒による運営を行うことが正しい状態です。カトリック正教会は、聖職者による教会組織が直接に運営していて、信徒は教会に従属しているという状態ですので、プロテスタントの組織イメージとは全く異なる、ということがおわかりいただけると思います。

プロテスタントの牧師は、信徒の使用人ですので、教会がその収入から給料を支払い、信徒は牧師の給料の額を知っていますが、カトリックの神父は神の使用人であって、給与は神に代わって(教会ではなく)教区が支払っている、ということになります。

同じプロテスタントであっても、教派によって多少牧師の重みに差があるかもしれませんが、「万人祭司」を否定するプロテスタント教会はあり得ません。

例えばナサニエル・ホウソーンの「緋文字」という小説がありますが、これは清教徒の、現代でいえば「組合教会」のお話ですが、お読みいただければ登場する牧師は信徒の言いなりで、権威も説得力も何も無い、という様子がお分かりいただけると思いますが、プロテスタントの牧師というものは、本来そういうものだということなのです。

よく「偶像崇拝」と言ってカトリック教会を非難する場合がありますが、聖人の画像や聖像を安置して礼拝を行うことであるよりは、神父や司教、教皇を絶対視するような行状を指摘して、そのように批判することが本来の意味ではないかと思います。

 

おわかりでしょうか、上記ブログで「逆に長年、信者として聖職者ではない年長のクリスチャンはさまざまな苦労を知っているので、牧師を叱りたくても叱れないという悩みを抱える場合もあります。」と記されていますが、牧師の間違いを指摘できない教会は、プロテスタントとしての本来の機能が失われてしまった状態だと理解するべきです。

牧師が信徒に什一献金を強要することなどはまったく見当違いですよね。 牧師は信徒の召使いです。召使いが主人に自分が受け取る賃金の額の多寡をどうこう言うなどもってのほかだということなのです。

ルーテル教会の古典的礼拝儀礼

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www.flc-boston.org

 

いつも悪口ばかりですので、今回はお口直しに、海外のルーテル教会の礼拝様式のご紹介をさせていただきます。

日本のルーテル教会の場合は、一時日本キリスト教団編入されていたことがありますので、その影響かもしれませんが、礼拝の様式はカルバン教会の礼拝のようにあっさりとした感じで、聖餐式を伴わない場合もあるようです。

しかし、上記写真でもおわかりいただけますように、海外のルーテル教会は、カトリックかと見間違うほどに古典的な礼拝様式が受け継がれている場合があります。

下に貼った動画では、カトリックがやめてしまった、聖餐台に膝まづいて口でパンとぶどう酒を受ける聖餐式を行う様子を見ることができます。

 

The Order of Holy Communion - Healey Willan Setting 2017

 

Fifteenth Sunday after Trinity Divine Service complete/ full

 

Werningshausen: Hochfest der Namensgebung Jesu - Lutherische Messe Teil 1 (Einzug, Kyrie, Gloria)

福音書の普遍性

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www.sharefaith.com

 

福音書にはさまざまなたとえ話があります。たとえば「タラントンのたとえ」

マタイによる福音 25:14-29

また天国は、ある:人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるよう-なものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。

(中略)

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

「タラント」とは、通貨の単位で、数年から数十年の収入にあたる金額、ということですから、数千万円から数億円ほどにもなるでしょう。

しかし一方で、イエス様は金持ちの青年に、すべての財産を捨ててしまいなさい、と言っていて、一見するとそれらは矛盾しているかのようにも思えます。

マタイによる福音 19:21

エスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。

一方はたとえ話であって、もう一方はたとえでは無い、ということですので、矛盾とまでは言えないのかもしれませんが、一貫性に欠ける感じは否めません。

当時、なにか「タラント」という単位にまつわる出来事があり、それが時事ニュースのようになっていて、このような説明を行うことによって、聞く人の理解をより促した、というような事情があったのかもしれません。価値観の一貫性よりも、意味を理解させることを優先しているわけです。

中には、違法行為を容認するかのようなたとえ話もあります

ルカによる福音 16:1-13

「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」

現代社会では考えられないことですが、このたとえ話では、主人は、不正な家令の利口なやり方を褒めた、とあります。宗教テキストとしてこのたとえ方は如何なものかと思わざるを得ませんが、これも書かれた当時の価値観では特別不思議なことでは無かったのでしょう。

聖書とは、いつ、だれが、どこで読んでも、同じ価値観を共有できる、というようなものでは無い、ということですね。言いたいことの大体の意味が理解できるのであれば、多少間違った事柄が含まれていたとしてもいちいち目くじらを立てない、これが常識だったということではないでしょうか。

僕としては、マタイ福音書の最も面白い矛盾点は次の箇所です。

マタイ福音書 22:42-45

「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。すなわち
『主はわが主に仰せになった、
あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、
わたしの右に座していなさい』。
このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。

この箇所で、イエス様は、キリストは必ずしもダビデの子孫である必要はない、と教えていますが、同じ福音書の冒頭には、

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリスト系図
アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。
ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。
バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。

とあって、イエス様がダビデの直系であることを主張しています。

この矛盾は、おそらくイエス様の実際の家系には、ダビデの直系であることを示す証拠が無かった、というよりはダビデの直系ではないことの証拠があったので、ご自身としては、

ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」

と言うしかなかったのでしょう。しかし、これは少なからず苦しい言い訳に聞こえます。たとえ目下の者であれ、子孫であっても、神に選ばれた指導者「キリスト」に対して「わが主」と表現することは正しいことではないでしょうか。イエス様の発言は、聞き苦しい屁理屈、のように思えます。

詩篇第110の冒頭を引用しておきましょう。

ダビデの歌

主はわが主に言われる、
「わたしがあなたのもろもろの敵を
あなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。
主はあなたの力あるつえをシオンから出される。
あなたはもろもろの敵のなかで治めよ。

しかし、福音書の記者としては、キリストはダビデの子孫から出る、と言われているので、イエス様が自分でどう言ったとしても、それには関係なく、ダビデの子孫であったことにしなくてはならない、ということで、マタイの福音書の冒頭には捏造されたダビデの直系であることを示す家系が記されているわけです。

大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか

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www.bungeisha.co.jp

 

当サイトからもリンクさせていただいている、しばやんさんのご著作が文芸社から出版され、紀伊国屋に陳列されるとのことです。

 

著者ご自身によるご記事からご紹介します。

shibayan1954.com

  通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
 読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。 ネットでももちろん購入が可能です。

 

読後感想など(2020/3/9)

著者のしばやんさんのブログ「しばやんの日々」にはときどきお伺いしてキリシタンに関する記事なども拝見していましたので、キリシタン禁教や弾圧、迫害に関する、学校教育では触れられることのない実情について全くの無知識ではなかったのですが、こうやって一冊の書物に書き下ろされたものを一気に読ませていただくと、また感慨もひとしお、という気がします。

まさに今、巷間にはコロナウイルスが蔓延の兆しを見せていて、人みな恐々として日々暮らしている状況ですが、大航海時代の日本も、西欧の強国、西葡蘭英のアジア支配という野望の渦に巻き込まれようとしていたこと、その手法として、キリスト教という病原が用いられて、それが少しずつ日本人の心を蝕んでいった、その有様を知ることが出来たと思います。

キリスト教徒、とりわけカトリック信徒にとっては、このような事実を認識することは辛いことかもしれませんが、実態を知ろうとすることは正しいことだと言えるのではないでしょうか。ぜひご一読をとお勧めします。

映画「ある少年の告白」

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www.boy-erased.jp

「ある少年の告白」という映画を見ました。タイトルを見てなんとなく見始めたのですが、とてもセンセーショナルな内容の映画でした。オフシャルサイトから説明を引用してみましょう。

 

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アメリカの田舎町。牧師の父と母のひとり息子として愛情を受けながら、輝くような青春を送ってきたジャレッド。しかし、”自分は男性のことが好きだ”と気づいたとき、両親に勧められたのは、同性愛を”治す”という危険な矯正セラピーへの参加だった。〈口外禁止〉だという驚くべきプログラム内容。自らを偽って生きることを強いる施設に疑問と憤りを感じ、ジャレッドは遂にある行動を起こす…。原作は、NYタイムズ紙によるベストセラーに選ばれ、全米で大きな反響を呼んだ衝撃の〈実話〉。親と子はなぜ、互いの幸せを願うほどにすれ違ってしまうのか――。本当の自分を見つめた先に、誰にも奪うことはできない真実の愛が浮かび上がる。一筋の希望が胸を震わせる、圧倒的な人間ドラマが誕生した。

セラピーの「矯正」の実態は、人前での罵倒、吊し上げ、嫌がらせ、暴力、隠蔽など、たとえ、同性愛志向が「治療」すべきものであるとしても、それには問題があるとしか思えません。

既に約70万人、そのうち35万人は未成年である人々がこのようなプログラムを受け、今なお、この非科学的な「治療」を受けているい人がいるというのですから驚きです。

これは、同性愛は矯正しなくてはならないもの、という偏った考えを持った一部の人の傾向として描かれているのですが、僕にはキリスト教全体を写す鏡のように見えました。