キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタントの元信徒が運営するキリスト教批判ブログです

教皇制廃止論

courrier.jp

クーリエ・ジャポンのサイトに、『個人崇拝になっている現状を憂う
カトリックで最もリベラルな神学者がいまこそ訴える「教皇制廃止論」』
という記事があります。有料の記事なのですが、無料記事の部分から、要点と思われる箇所を引用してみましょう。

教皇は選出されたその日から神聖視され、地上におけるキリストの代理者となります。カトリックの信者は、子供の頃から「教皇崇拝」を教え込まれます。

シノドスと呼ばれる司教たちの会議は、あくまでも助言機関にとどまるので、教皇は自らの一存で議論の裁定ができてしまうのです。

2019年、アマゾン周辺地域のためのシノドスが開かれ、過半数の司教が、司祭の数が足りていないこの広大な地域に限って、既婚男性の叙階を可能にすべきだと提言しました。しかし、教皇フランシスコは、その提言を受け入れませんでした。

2023~24年に開催されたシノダリティ(教会組織の構造)に関するシノドスでは、ドイツの司教団から、一般信徒や女性の教会における地位について提言がありましたが、教皇フランシスコはそれも無視しました。

要するに、教皇制度は、カトリック教会の改革を妨げる要因になっているのです。それゆえ、教皇制度の改革、あるいはその廃止が急務となっています。

フィリピン人の友人がいますが、彼は教皇のことを「神様のような偉いおじいさん」と表現します。この感覚がすべてのカトリック信者に共通では無いだろうとは思いますが、この記事にある「個人崇拝になっている」という表現も、あながち大げさではないのでは、という気もします。

それにしても教皇制度廃止とは極端な話です。プロテスタント教会に転会したほうが早いのではないでしょうか。

半殺し

www.sazae.co.jp

全然キリスト教に関係のない話で恐縮なのですが、お許しください。

休憩しながらぼんやりユーチューブを眺めていますと、京都ではおはぎのことを「やわやわ」という、ということが紹介されていました。

youtu.be

確かにそう言わないことはないのでしょうが、どちらかというと幼児語というか、あまり一般には言わないのではないかと思います。

おはぎっていろいろな言い方がありますよね。春秋のお彼岸の仏事用のお菓子、ということでもあるのかもしれませんが、春と秋で名前が変わります。春は「ぼたもち」、秋には「おはぎ」と、同じお菓子なのに二通りのの名前がありますよね。牡丹と萩、どちらも花の名前ですね。それに加えて、この「やわやわ」という言い方もあります。

上のYouTubeの動画中でも説明されていますが、京都のおはぎはもち米の形がなくなってしまわないようにあんまりつぶさないようにするのだそうです。関東のおはぎはお米の形がなくなるまでよく潰すのだと説明されているのですが、それだとおはぎではなくてあんころもちになってしまうのではないかと思うのですがどうなのでしょうか。

それで思い出したのですが、京都では、おはぎのことを「半殺し」とも言います。お米をつぶしてしまわないからだと聞いた記憶があります。

ということはやはり京都以外のおはぎはお米の形がないということなんでしょうね。それにしても「半殺し」ってなかなかいいですよね。全部潰してしまうのは「皆殺し」とは言わないのでしょうか。

お菓子屋さんで「半殺し」くださいって言ってみるのは面白そうですね。いやまあやめときますけどね。


追記

t1kさんから、おはぎを「半殺し」と呼ぶのは京都だけではない、とコメントをいただきまして、慌てて検索してみたのですが、ありました。ちゃんとウィキに説明されていました。「みなごろし」という言い方も、実際に存在するようです。

下に貼らせていただきます。記事を書くときは、うろ覚えや思い込みはダメですね。反省します。t1kさん、ご指摘ありがとうございました。

ja.wikipedia.org

「はんごろし」という言い方は日本全国で用いられている[10]。

長野県では、「みなごろし」で作られるおはぎやぼたもちはハレの食だが「はんごろし」はハレの中でもケ(普通の日常的な生活)に近いお祝いの食として食べられている[4]。

徳島県那賀町でつくられるおはぎのような郷土菓子が「はんごろし」と呼ばれている[2][11]。もち米にうるち米を混ぜたごはんで餡を包み、周りにきな粉がまぶされている[11]。おはぎを「はんごろし」と呼んでいるのは旧相生町の一部である[12]。那賀町徳島大学が連携して開いている地域再生塾の特産品事業化の第一弾として相生地域の名物おはぎが選ばれ[13][12]、「草もち」として販売されていたものが学生の提案で再び本来の名称である「はんごろし」と呼ばれるようになった[2][14]。

 

今年も祇園祭

www.leafkyoto.net

梅雨に入りましたね。梅雨入りということはそろそろ祇園祭、ということになります。祇園祭というと、山鉾巡行を思い起こされる方が多いのではないかと思うのですが、実際には7月1日の「吉符入」から、7月31日の「疫神社夏越祭」まで、一ヶ月に渡って行われるお祭りです。

そんな中、今年も長刀鉾の稚児が決まった、という報道がありました。祇園祭といえば、鉾の上の稚児が四条通の御旅所の前に張られたしめ縄を刀で切る場面が映し出されますが、その稚児と、鉾上で稚児の両側に座っている二名の禿が決まったという報せです。短い記事ですので全文引用しておきましょう。

京都三大祭りの一つに数えられ、7月に行われる『祇園祭』。その前祭の山鉾巡行で先頭を行く長刀鉾に乗る「稚児」と補佐役の「禿(かむろ)」が6月2日(月)に発表された。
今年の稚児は同志社小学校3年生の久保 堅斗君(8才)で、禿はノートルダム学院小学校4年生の岡山 登吾君(10才)と岡山 晴汰君(10才)が務める。
堅斗君は[久保商事株式会社]代表取締役・久保 貴裕さんの長男。「長刀鉾のお稚児さんに選ばれて嬉しいです。乗馬としめ縄切りをが楽しみです」と感想を述べた。

禿である登吾君と晴汰君は双子の兄弟で、兄弟で禿を務めるのは昭和31(1956)年以来だという。
「少し緊張しているが、禿として頑張りたいです」と意気込みを語った。

稚児は8~10才ぐらいの男子が選ばれ、祭りに際しては長刀鉾町と養子縁組をし、大安の日に結納が行われる。また、禿に選ばれた2人は行事のすべてで稚児のお供をするのだそう。前祭と後祭で34基ある山鉾のうち、人形ではなく子どもの稚児が乗るのは長刀鉾だけで、しめ縄切りを行い巡行のスタートを告げる大役を果たす。

それぞれ興味のあることについて、堅斗君は今年始めたばかりという野球が好きで「将来は野球選手になりたい」と語った。登吾君も同じく野球が好きで、将来の夢は野球選手だという。一方、晴汰君はものづくりが好きで、「将来はお医者さんになりたい」と口々に話し、緊張が少し解けた。

京都の夏の風物詩がいよいよ始まる。
見どころの一つである山鉾巡行のしめ縄切りに注目して祇園祭を楽しんでみて。

 

稚児になると、男性が調理したものだけを食べるようにもとめられたり、13日の稚児社参から17日の前祭山鉾巡行までの間は地面に足を下ろすことを許されず、社参などで外出が必要の場合は、強力(ごうりき)という役割の成人男性に担がれる、というような不自由な生活を、祭りの間送ることになります。下の動画をご覧下さい。

youtu.be

一体、何にそれほど係るのかわかりませんが、稚児を引き受ける家は2000万必要なのだそうです。だいぶ昔に聞いた話ですので、今はもっと値上がりしているかも分かりません。

ところで、上の記事を読みますと、稚児と2人の禿はいずれもキリスト教系の小学校に通う生徒であるようです。面白いですね。小学校はキリスト教系の学校にやり、一方では神社の祭礼に対して大金を支払って奉仕をさせる。

一見、相反する行動をとっているかのように見えるのですが、実際はこれが日本人の通常の、宗教に対する健康な感覚なのだろうと思います。牛頭天王素戔嗚尊もキリストもみんな同じなのです。とりあえず良い結果を施してくれる。日本人にとって神とはそういう存在なのです。

セイラムの魔女裁判

セイラム魔女裁判では200人以上が魔女として告発された。

www.smithsonianmag.com

 

魔女裁判」というと、ヨーロッパにおけるカトリック教会の行い、と連想しがちなのですが、17世紀終盤、植民地時代のアメリカの、ピューリタン社会にも魔女裁判があったようです。

スミソニアン・マガジンの`A Brief History of the Salem Witch Trials`という記事から、Googleの翻訳機能による翻訳文を引用しましょう。

セイラム魔女裁判は、 1692年初頭から1693年半ばにかけて、植民地時代のマサチューセッツ州で行われました。200人以上が魔術、つまり悪魔の魔術を行ったとして告発され、20人が処刑されました。

ー略ー

1689年、イギリス国王ウィリアムとメアリーはアメリカ植民地でフランスとの戦争を開始しました。植民地の人々の間ではウィリアム王戦争として知られたこの戦争は、ニューヨーク州北部、ノバスコシア州ケベック州を荒廃させ、マサチューセッツ湾植民地のエセックス郡、特にセーラム村に難民を送り込みました。(セーラム村は現在のマサチューセッツ州ダンバースであり、植民地時代のセーラムタウンは現在のセーラムとなりました。)

移住した人々はセーラムの資源に負担をかけ、セーラム港の富にゆかりのある家々と、依然として農業に依存している家々との間の既存の対立を激化させた。また、1689年にセーラム村で初めて牧師に任命され、その厳格なやり方と貪欲な性格ですぐに評判を落としたサミュエル・パリス牧師をめぐる論争も勃発した。ピューリタンの村人たちは、こうした争いはすべて悪魔の仕業だと信じていた。

ー略ー

1693年5月までに、フィップスは魔女裁判で投獄されていたすべての人々を恩赦した。しかし、事態の悪化は既に始まっていた。19人の男女がギャロウズ・ヒルで絞首刑に処されたのだ。マーサの71歳の夫、ジャイルズ・コーリーは、裁判への服従を拒否したため、1692年9月に重い石で押し殺された。被告のうち少なくとも5人が獄死した。動物たちも集団ヒステリーの犠牲となり、アンドーヴァーとセーラム村の入植者たちは悪魔と関わりがあると信じられていた2匹の犬を殺した。

プロテスタント教会という教会は、カトリック教会に含まれる迷信的な要素を払拭し、脱却するために生まれた新しい教会だ、と言えると思うのですが、ジャン・カルヴァンの死後、ほんの一世紀あまり後であるにもかかわらず、プロテスタント精神のエッセンス、真髄であるピューリタン社会の中においてこのような不見識なことが起こるわけです。

宗教とは全て迷信なのです。プロテスタント教会の中には大きなバネがあって、常にカトリックのような強い迷信的状態に戻ろうとする力が働いているのではないか、というふうに思います。

ヘレニズム文化とユダヤ教の関係

マグダラ・アヴィアド・アミタイ の地下水で満たされた浸水プール

www.smithsonianmag.com

今回は、過去記事

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

で取り上げた、スミソニアン・マガジンの「ユダヤ教はこれまで考えられていたよりも新しい宗教なのでしょうか?」という記事の後半を見てみましょう。

googlによる翻訳文から引用します。

アドラーは、当時すでにユダヤ人は「ヘレニズム文化が支配する世界に深く根ざしていた」と記している。ヘレニズム文化とは、ギリシャ語圏を基盤とし、古典的な学問、娯楽、そして高度に発達した神々の集合体を指す。したがって、ユダヤ教アブラハムモーセの天幕からではなく、「ヘレニズムのるつぼ」から生まれたと言える、と彼は主張する。

アドラー氏はさらに、この出現が「過去 2,000 年間にわたる世界史の進路を決定づけるきっかけとなり、おそらく今後数千年とまではいかなくても数世紀にわたるものとなるだろう」と付け加えている。

イスラエルのハイファ大学の聖書学者ガド・バルネア氏は、トーラーの成文化に至る過程の「最も可能性の高いきっかけ」は、紀元前3世紀のアレクサンドリア図書館の建設だったと推測している。この図書館は学問を広め、ユダヤの学者を惹きつけた施設だった。ほぼ同時期に、ヘブライ語聖書が初めてギリシャ語に翻訳され、外国人だけでなく、ヘブライ語ではなくギリシャ語とアラム語を話すユダヤ人にも読めるようになる。しかしバルネア氏は、ユダヤ人が特定の宗教的慣習を広く取り入れるようになったのは、ハスモン朝の統治下で比較的自治権が認められていた時代になってからだと論じている。

スイスのチューリッヒ大学の聖書学者コンラッド・シュミット氏も、「ヘレニズム時代以前」には聖書に関する知識は「エルサレムを中心とする少数の書記官集団に限られていた」という見解に同意している。シュミット氏は、ヘブライ語聖書の規則は法律ではなく、「理想的な共同体を描いた文書」として考えられていた可能性があると推測している。しかし、紀元前2世紀までユダヤ人の大半にとって聖書が難解なままであったかどうかは不明である。

律法は実践ではなくて空論であった、という仮定が述べられています。仮定ではありますが、納得のいく考えだと思います。実践の積み重ねがない、つまり経験をあとづけしようとするので、「律法主義」というような歪が生じるのでは無いかと思います。

ユダヤ教ユダヤ人の宗教として定着するのは、国土を奪われて世界を彷徨い始めると共に、であったのでしょう。

カトリックのミサの行列に含まれる象徴的意味

www.ktotv.com

本ブログをご訪問下さる読者の皆様の中にはカトリックの信者さんもたくさんいらっしゃると思うのですが、次の動画をご覧ください。

www.youtube.com

修復が成った、ノートルダム・ド・パリ教会における、あるミサの様子です。

ミサが始まる前のイントロで、西のファサードから東の至聖所へ向かう列が延々と続いています。奉仕者、副助祭助祭、司祭、司教、司式者、と、非常に長い列ですよね。既にご存知の方々には、部外者が偉そうに説明するようなことで大変恐縮なのですがお許しください。

この行列は、エジプトを出て神の導くままに、東方の、乳と蜜の流れる約束の地ヘ向かうイスラエルの民を表しているのです。

先頭の侍者が奉じる香炉の煙は、昼、イスラエルを導いた密雲を、ろうそくの炎は、夜、イスラエルを導いた火の柱を暗示しています。十字架にかかったイエス様のご像がその間をゆくのは、密雲と火の柱の間に、神が臨在していることを象徴しています。

ダルマチカを着た助祭福音書を掲げているのは、神の言葉(キリスト)によって覚醒した新しいイスラエルの民(キリスト教徒)が、神の言葉に従って新しいエルサレム神の国)へと導かれていくことを象徴しています。

いかがでしょうか、プロテスタント、就中福音派の信者の皆さんは、カトリックに対して偶像崇拝的だの、形骸主義者だのと言って悪評を下す傾向にあるようにお見受けしますが、このように、そのビジュアルやアクションの一つ一つには原理的な意味合いが含まれているように思います。非常に聖書的であると評価すべきであろうとも思います。

出エジプトの密雲と火の柱については、次の過去記事も参考になさってください。

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

殺された教皇・ヨハネ・パウロ一世

ja.wikipedia.org

およそ半世紀ほど前に、在位わずか33日の「ヨハネ・パウロ一世」という教皇がいました。wikiから引用しましょう。

ヨハネ・パウロ1世Ioannes Paulus IGiovanni Paolo I1912年10月17日 - 1978年9月28日)は、ローマ教皇(在位: 1978年8月26日 - 1978年9月28日)、カトリック教会教皇教皇名として初めて「ヨハネ・パウロ」という複合名を採用した。宗教事業協会バチカン銀行)の改革を表明した一方、在位わずか33日の急逝には暗殺説が根強い。

革新的な人でもあったようです。引用を続けましょう。

ヨハネ・パウロ1世は、様々な意味で型破りな教皇であった。複合名を初めて採用したことを皮切りに、虚飾的な事柄に対して非常に改革的に臨み、たとえば教皇演説の中で、それまでの教皇が伝統的に自らを「」と呼んでいたのを初めて「私」に変えたほか、豪華な教皇戴冠式教皇冠も拒否した。教皇用の輿の使用も拒否したが、これは周囲の圧力で使わざるをえなかった。

また、難解な教会用語の平易化、具体的な戦争批判、避妊の容認、バチカン銀行の改革、などを推し進めようとしていた、とあります。最後までは成し遂げられなかったとしても、わずか33日の在位期間にこれだけの業績があるとは驚くべきことだと思います。この人が長生きしたら、カトリック教会はどのように変わっていたのでしょうか。

wikiには、「謀殺」説として、

帰天間もなく不可解な証拠隠滅や情報操作が行われた上に、ヨハネ・パウロ1世によるバチカン銀行の改革と自らの追放を恐れていたマルチンクス大司教が、普段は早朝に起床することがないにもかかわらず、なぜか当日午前6時45分に教皇の寝室近辺にいたこともあり、まもなくヴィヨ国務長官やマルチンクス大司教、そしてマルチンクス大司教と関係の深かった「ロッジP2」のジェッリ代表、さらにこの2人と関係の深いアンブロシアーノ銀行のカルヴィ頭取らによる謀殺説がバチカン内部から囁かれることになった。

とあります。

エス様も、腐った政治と宗教とカネの問題に、正面から切り込んだ結果、殺されてしまいましたが、この人はイエス様の弟子と呼ぶに相応しい人であったのかもしれません。