キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

カオダイ教とキリスト教

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vnexpress.net

カオダイ教という宗教をごぞんじでしょうか。Wikiでは、

ja.wikipedia.org

ホーチミン市から北西約100kmのタイニン省ベトナム語:Tĩnh Tây Ninh/ 省西寧)ホアタイン市社(ベトナム語:Thị xã Hòa Thành/ 市社和城)に総本山がある。信徒数は約100万から300万と言われ、タイニン省の人口の7割あるいは3分の2がカオダイ教の信者だと言われる。カオダイとはベトナム道教最高神玉皇上帝のことであり、総本山教会堂の祭壇中央に信者を見下ろすように設置される目だまは、カオダイの神の目である。これは天眼と呼ばれ「宇宙の原理」「宇宙の至上神」の象徴とする。この目玉はカオダイ教のシンボルマークでもある。

と説明されています。

シンボルマークの目玉は、キリスト教の三位一体を表す図像によく似ているようにも思われます。

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Trinity symbol

www.alamy.com

 

Wikiには、次のような説明もあります。

教義では、キリスト教的な要素、特に聖職者の階級制度を採用していると言われるなどカトリックの側面が見られる一方で、古来からの精霊崇拝の要素も見られる。孔子老子、釈迦、観音菩薩、キリスト、ムハンマド、さらには李白太上老君老子)、ソクラテストルストイヴィクトル・ユーゴーなどを聖人や使徒と仰ぐ。1959年に死んだファン・コン・タックという人物がカオダイの新たな教祖として祀られている。タックはキリスト教徒であったが仏教、儒教、老教、キリスト教神道を束ね世界の救済を行ったとされる。

カオダイは第1回目の人類救済のために釈迦の姿を借り現世へ現れ、第2回目はキリストと老子の姿を借りて現れた。現在、3回目の人類救済のために東西諸宗教を統合したとされる。 

宗教とは、まさに、このようにして歩みだすものと理解することができるでしょう。発足当時の有力な宗教の特徴を取り入れて、それらの教義を脚色することによって新しい宗教を立ち上げるわけです。

キリスト教も同様だったのでしょう。キリスト教は、ユダヤ教ミトラス教ゾロアスター教アラビア神話ギリシャ神話ローマ神話メソポタミア神話エジプト神話といったような様々な宗教から一部の要素を盗み取って成立したのだ、といえるわけです。

キリスト教にとって都合が良かった大きな理由は、その盗み取りを実施した勢力に、ローマ帝国という国家が一枚噛んでいたことです。おかげで盗み取りの痕跡は首尾よく抹消されました。実際、現代のほとんどのキリスト教徒は、イエス様の出現が即ちキリスト教の発生である、と刷り込まれていて、そう信じ込んでいるように見えます。

もう一度Wikiカオダイ教から引用してみましょう。

カオダイ教ベトナム語:Đạo Cao Đài/ 道高臺)は、ベトナム新宗教。1926年、ファム コン タック(ベトナム語: Phạm Công Tắc/  , 1890年- 1959年)[1]とレ・ヴァン・チャウン(ベトナム語:Lê Văn Trung/ 黎文忠, 1876年 - 1934年12月19日)によって唱えられた。五教(儒教道教、仏教、キリスト教イスラム教)の教えを土台にしたことから、カオダイ=高臺(高台)と名付けられた。

自ら、色々な宗教を土台にしていることをのべていますね。キリスト教のように隠蔽しようとはしていません。優れているのはどちらのスタンスでしょうか。

聖書がクリスチャンの道具であること

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dailyverses.net

聖書、とりわけ福音書にあるイエス様の言葉は、クリスチャンの道具として活用されるのを耳目にします。特に次の箇所です。

マタイ 7:1-6

人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 

聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

僕は一度、教会で、「そんなに口汚く人を罵るものではありませんよ」と言ってしまったことがあるのですが、そういったとたん、その人の目が三角形に変形し、つり上がって、頬を紅潮させ、いわゆる「怒髪天」の状態になって「君は私を裁くのか、裁くものは裁かれる。君も裁かれるんだぞ」と、恐怖の大予言を授かってしまったことを覚えています。

しかし、僕はこの人をさばいているでしょうか。さばいているのではなくて、指摘、または提案をおこなっている、と理解すべきだと思うのですがどうでしょうか。

この例の他にも、「裁くな」の箇所を濫用するクリスチャンは多いように思います。「目の梁」についてもも同様でしょう。

「豚に真珠」については、ある牧師が、講壇からいくら良い説教をしても、聞き手が良くなければ無駄なことで、豚に真珠を投げてやるようなものだ。できればそんな馬鹿げた仕事はしたくない、というようなことを大真面目で話するのを聞いたことがあります。

聴衆が豚かどうかより、お前の説教が真珠かどうかのほうが問題なんじゃないのか、と胸の内に思ったことを思い出します。

いかがでしょうか、クリスチャンなどと言う手合は、神の真理に惹かされてそうなったものはほとんどいません。便利な装身具を手に入れておくか、程度の欲得ずくに過ぎないのです。「クリスチャン」というゲーマーにとって「聖書」とは、「キリスト教」というゲームのなかの、ソードやシールドといった「アイテム」に過ぎないのです。

随分高額な料金が必要な糞ゲーだと思いますよ。ちなみに「神学」というのはこのゲーム用のマニュアルとして発展した似非学問です。宇宙一どうでもいい分野だと思います(笑)。

インディアン寄宿学校

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www.history.com

「インディアン寄宿学校」とは何のことか、ごぞんじでしょうか。Wiki

ja.m.wikipedia.org

を見てみましょう。

インディアン寄宿学校(インディアンきしゅくがっこう、Indian boarding school)とは、19世紀後半から20世紀にかけて主としてアメリカ合衆国やカナダで作られたインディアンの若年者を同化教育(Americanization)するための私立施設。

とあります。また、

この施設はアメリカ合衆国における人種的多数派である白人キリスト教徒によって経営され、「Reservation(保留地)」のインディアンの少年少女達を親元から強制的に取り上げ、先祖伝来の宗教、言語を禁止して、「インディアンを殺し、人間を救う」を合言葉に、キリスト教や欧米文化の学習、英語教育などを行っていた。ペンシルベニア州に創設された「カーライル・インディアン工業学校」がその第一号学校として有名である。

と記されています。カナダにおいては、

アメリカよりも早く、1840年代に「インディアン寄宿学校」が発足している。成り立ちや目的は、アメリカと同じく民族浄化のためのもので、カナダ最後の「インディアン寄宿学校」が閉鎖されたのは、1996年になってようやくのことであった。

とあり、1996年(つい、この間)までこの施設があったというのですから驚きです。

どのような教育だったのかといいますと、

聖書の暗記とキリスト教の祈祷が強制され、部族の信仰は弾圧され禁止された。英語以外の言葉で話すことは禁じられ、話せば「汚い」言葉を話した罰として教師に石鹸を食べさせられたり、石鹸で口をゆすがされたり、ビンタを食うなどした。もちろん、彼らの幼い心は深い心的外傷を負った。白人の食べ物しか食べさせられず、インディアンの伝統食は許されなかった。児童生徒たちに許された娯楽はフットボールや野球といった白人の遊びだけで、伝統的な遊びは許されなかった。

とあり、また、

寄宿学校制度の初期には、学校の衛生状態が劣悪だったために、天然痘やその他の白人の病気をうつされた児童が数十人単位で死亡する例も多かった。

という説明があります。また、

強制就学であるにもかかわらず、私立の寄宿学校の年間学費は、1940年代当時で50ドルという高額なものだった。これはインディアン児童の親に対しても多大な経済的負担を強いるものであった。

という記述にも驚かされます。

聖書には事実が淡々と叙述されているとしか読み取ることができないキリスト教徒は、聖書が異教徒の殲滅を教唆していると思い込み、自らの利益と相量り比べた結果、このようにネイティブをコントロールする道を選んだのです。例えば次の記述です。

申命記 20:10-14

一つの町へ進んで行って、それを攻めようとする時は、まず穏やかに降服することを勧めなければならない。もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。もし穏やかに降服せず、戦おうとするならば、あなたはそれを攻めなければならない。そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主が賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。

聖書とは、このような禍々しい差別と憎しみを生み出す暗黒の書であり、悪魔とはそれに踊らされているキリスト教徒のことなんじゃないのか、と言いたくなります。

アメリカは中国の少数民族に対する態度を批判できるのでしょうか。

2000年、BIA副長官ケビン・ガバー(1997~2001年まで就任。 彼はポーニー族である)は、寄宿学校を始めとする施政にまつわる、数十億ドルに上るインディアン基金のBIAによる不正隠匿を認めたうえで、過去百数十年にわたる部族強制移住同化政策の犯罪性を認め、全米のインディアン部族に対し、涙に濡れながら歴史的な謝罪を行った。以下は彼によるその声明である。インディアン部族で満員の会場は、涙と嗚咽、拍手で沸きかえった。

「私達は二度と貴方がたの宗教、言語、儀式、また部族のやり方を攻撃することはありません。私達は二度と、貴方がたの子供を里子に出させ、自分たちを恥ずべきものと教えるつもりはありません。」

大げさな口調で大味な感動を揺さぶり起こして大衆の涙を誘おうとするのはアメリカの常套手段ですが、それにしても結局汚れたカネが絡んでいるのですね(笑).

ディボーション(笑)

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wlpm.or.jp

「マナの使い方」というサイトを見つけました。上記のサイトです。

キリスト教界では日々の生活の中で時間を取り分けて聖書を読み、祈りに専念することを、ディボーションとか、メディテーション、静思の時などと呼んでいます。

とありますが、僕は初耳でした。キリスト教用語というよりは、精神医学とか心理学の用語と言ったほうが正確なんじゃなかろうかと思うのですがどうでしょうか。「お祈り」と言えば通じるんだし、そのほうが早いと思います。

都知事がまた懲りもせず「エッセンシャルワーカー」などと言うもので、案の定「エッセンシャルワーカーってどういう意味」という人がたくさん出てきています。あのひとは、まず「非常時」という言葉の意味を理解することから始めたほうがいいのではないかと思います。できれば、二度と選ばれないようにと願うばかりです。

記事に戻りましょう。こうもあります。

個人で行うディボーションはなかなか続かないのが現実ではないでしょうか。
「長続きしない」
「聖書のどこを読んでいいかわからない」
「読んだ聖書箇所の意味がよくわからない」
「ワンパターンになってしまう」

この表現は、キリスト教的には間違いです。「祈り」というのであれば、最低でも、一人の人と神の二者で行うものであるのですから、「個人で行うディボーション」ということはそもそも成立しないはずだからです。

しかし、それは「キリスト教的」には、ということであって、実際には神がいて、人と会話が行われるわけではありません。神なんて空想に過ぎないのです。だから、「長続きしない」わけです。

このサイトの記事は、「ディボーション」を上手に行うためには、

教会で月刊ディボーション雑誌「マナ」を使ってみてはいかがでしょうか。体系的でバランスのとれた聖書テキストの選定、日本人執筆者による解説とメッセージ、また、書き込みのできる欄も設けてあるので、ディボーション手帳、祈りの日記として活用できます。

我社の出版物を購入しなさい、と言っていますね。いかがでしょうか、キリスト教徒であっても、神と対話しようとするためには、無料では上手く行かないのだ、ということのようです(笑)。

教会でクラスター発生

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www.tokai-tv.com

愛知県豊田市キリスト教教会で、新型コロナウイルスクラスターが発生したという報道がありました。上記東海テレビの記事から引用しましょう。

 12日までに29人の感染が判明していた集会所のクラスターでは、新たに豊田市の10歳未満から60代の男女7人が陽性とわかりました。大村知事は13日の会見でこのクラスターがキリスト教の教会で発生したことを明らかにしました。

 この教会では、午後2時から4時までと午後6時から8時までの2部制でそれぞれ50人と80人が集まって会話や食事をしていたということですが、教会の管理者によると、検温やマスクの着用、換気は実施し、席の間隔もあけていたということです。

 大村知事は「宗教行事かもしれないがこういうコロナの状況で密になって大声で歌ったことは極めて遺憾」などと述べ、豊田市と協議して厳正に対処するとしています。

イースター礼拝に大勢の信者が集まり、大声でうたを歌っていた、という他の記事もあります。ロックとかフォークソング礼拝だったのでしょうか。

いずれにせよ、キリスト教徒が神の指導を守ろうとして、神の家に集まって神をほめ讃えた結果、死をもたらす病を蔓延させてしまったわけです。神が存在すると言うのであれば、神は人が新型コロナに感染し、できれば、死に絶えてしまえ、と望んでいることになりますね。

以前見た「神は死んだのか」という映画を思い出しました。

synca.jp

クリスチャンの学生が、無神論者の哲学教師に、神は存在しない、と認めるように強要されて苦しむのですが、この教師は最後に交通事故に遭って死んでしまいます。事故の現場には偶然牧師がいて、今、神を認めれば死後幸福になれる、さあ、どうするんだ、と、瀕死の教師に迫ります。そう言われて無神論者の教師は、神を認める、と答えるのですが、牧師はさらに、もうすぐ神に会えるぞ、とささやきます。

牧師が「もうすぐ救急車が来るから頑張れ」とは言わず、「もうすぐ死ぬから死後の準備をしろ」と言うことにも驚くのですが、「神を認めさえすれば死後は安楽」と言って、神の意志を代弁することにも違和感があります。本当にそうなのでしょうか。

少なくとも、キリスト教徒にとって神とは、死ななければ会えない存在なんだな、と思いました。キリスト教の神は「死んだ者の神」に過ぎないのです。

豊田のイースター礼拝に集まったクリスチャンたちも早く神に会いたかったのでしょうか。

キリスト教と政治形態

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this.kiji.is

キリスト教徒とは、生活に関するあらゆる指針を聖書に、カトリックや正教であれば聖書と聖伝に求めよう、とする人たちのことですよね。

それでは、聖書にみる政治の形態はどのようなものでしょうか。おそらくは絶対君主制に該当するでしょう。Wikiから引用してみましょう。

絶対君主制(ぜったいくんしゅせい、英: Absolute monarchy)とは、君主制の一形態で、君主が統治の全権能を所有し自由に権力を行使する政体である。対比語は、君主の権力が憲法などで制限されている制限君主制または立憲君主制である。

 キリスト教とは、神を「絶対君主」と見なす「絶対君主制」的な政治形態である、と考えることができるわけです。しかも徹底的な男尊女卑社会でもあります。引用してみましょう。

出エジプト記 12:37

イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。

マタイによる福音 14:21

食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。

女性は人としての数には数えられざるべき存在である、と説明されています。

いかがでしょうか、キリスト教が平等だとか、愛だとかいう評価が耳目に触れるたびに違和感を覚えます。彼らは、キリスト教の神が「主」であって、キリスト教徒は「奴隷」である、という構造を理解していないのでしょうか。聖書には、主が奴隷に対して、意に反する異民族を殲滅せよ、という命令を発し、奴隷がその命令に従って、その通りに行った、と記録されています。みてみましょう。

民数記 21:3

主はイスラエルの言葉を聞きいれ、カナンびとをわたされたので、イスラエルはそのカナンびとと、その町々とをことごとく滅ぼした。それでその所の名はホルマと呼ばれた。

「ホルマ」とは「殲滅」という意味です。

いかがでしょうか、僕には、キリスト教が理想とする政治形態は幼稚で未発達なものと感じます。今どき専制君主制で政治を行っている国なんて、イスラームバチカンぐらいなものでしょう。そんなことに我慢できるのは、地球から石油を、あるいは信者から献金を絞り上げて得たあぶく銭で白昼夢を見ながら暮らせる人だからではないのでしょうか。

日本はどうでしょうか。最高神が女性であって、人生の大切なことは年に一度、すべての神が出雲に集まって「神議り(かむはかり、会議のこと)」を行った上決まる、というのですから、古来から理想としていた政治形態は、実は議会制民主主義だったのだといえるでしょう。アマテラス、トヨウケの主要二神をはじめ、宗像三神、神功皇后など、多くの女性も参加しています。

日本には洗練された現代的な、明るい宗教観が存在するのです。外国人でも異教徒であっても排斥せず受け入れます。何も好き好んで、陰湿で時代遅れな外国の差別思想に心身を沈めて、贖いだ、償いだ、地獄だと嘆き悲しむ必要はないんじゃないかと思いますよ(笑)。

聖書と差別的表現

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www.biblestudytools.com

キリスト教新聞社ホームページ

に、『【聖書翻訳の最前線】 差別的表現、包括言語など 「お前」「はしため」「もてなす」』という記事があります。

www.kirishin.com

引用しましょう。

聖書協会共同訳では、不快と思われる言葉遣いを減らす努力をしています。

①「お前」(エレミヤ書3章12節)

 新共同訳は、「お前」という言葉を、自然な日本語を目指したために多く用いました。

主は言われる。わたしはお前に怒りの顔を向けない。
[新共同訳]

 しかし、聖書協会共同訳では、神やイエスが発する言葉には「お前」を使わないことにしました。

主の仰せ。私は怒りの顔をあなたがたに向けない。
[聖書協会共同訳]

 ただし、対象が人ではない場合、例えば、物や町は、例外となります。そこで、実を結ばないいちじくの木に対しては、次のようになります。

今から後いつまでも、お前には実がならないように(マタイ21章19節)

②「はしため」(サムエル記上1章18節)

 過去の邦訳聖書では「はしため」が使われてきました。

ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。
[新共同訳]

 しかし、聖書協会共同訳では、「はしため」は差別的であるとして、「仕(つか)え女(め)」としました。

ハンナは言った。「あなたの仕え女が恵みにあずかれますように。」
[聖書協会共同訳]

③「もてなす」(マタイ8章15節)

エスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
[新共同訳]

 この箇所の、「もてなした」と訳されるディアコネオーは「仕える」、食事の文脈では「給仕する」と訳される言葉です。しかし、癒やされたしゅうとめがイエスにしたことは、給仕だけとは限らないことから、聖書協会共同訳では、「仕えた」としました。

エスが手に触れられると、熱は引き、しゅうとめは起き上がってイエスに仕えた。
[聖書協会共同訳]

しかし、「お前」は、字面から言えば本来尊敬語です。「貴様」も尊敬語ですね。日本語の人称代名詞二人称には侮蔑的な意味合いを表すものは存在しないのではないかと思います。

南河内に年配の知り合いがいますが、面と見合わせて話をするときは、僕に向かって

「ワレが言うとった、あの‥」(君が言っていた、あの‥)

だとか

「オノレで始末せんかいや」(ご自分で処理してください)

だのと言いますが、ご本人としては見下げてそう言っているいわけではなくて、あくまで丁寧に伝えようとしてそうおっしゃっているわけです。

二人称よりも、日本語には一人称に侮蔑的なものがあります。「拙」「拙者」「小生」「僕」「妾」などは自分自身を貶めて謙譲を表す一人称です。「愚妻」とか「愚息」 という言い方をする場合がありますが、「愚かな妻」「愚かな息子」という意味ではなくて、「私(愚)の妻」「私(愚)の息子」という意味です。

外で知らない少年に呼びかけるときに「ボク」などと言うのはとても失礼なことになってしまいます。気をつけてください(笑)。

「はしため」が差別的だから「仕え女」にした、ということですが、「仕え女」などという言葉は聞いたことがありません。「仕え女」という言葉からは、性的なサービスをする女性のようなイメージが思い浮かぶのですが、どうでしょうか、また、「はしため」の男性「僕(しもべ)」はどうなのでしょうか。

マタイによる福音 8:9

私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、僕に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

 ここは「仕え男」としなくてもよいのでしょうか。

「もてなす」が差別的だから「仕えた」とした、とありますが、「もてなす」が無償の行いであるのに対し「仕えた」には対価を当てにした行い、というイメージがあります。

どのような言葉であっても、使い方一つで差別的になる危険性はあるわけです。「部落」という言葉は、集落、自治単位というような意味を示しますが、「被差別部落」と用いられ、原意が喪失されるにつけ、差別的な単語と認識されるようになります。また、封建時代の京都には「職屋敷」と呼ばれる福祉行政機関である「当道座」が存在し、盲人を保護していました。職業や職位によって、検校、別当、勾当、座頭、などと言った位階が盲人に与えられ、平民であっても高い位の公職者となる機会が、盲人にはあったわけです。職業には、はり、あん摩師、琵琶、管弦、詩歌などの専門家などがあったといいます。現在でも、京都の人は盲(モウ)の人を「おめくらさま」と尊んで呼びます。当家の先々代も全盲でした。

盲を「メクラ」と蔑んで呼ぶ人がいるから、盲(モウ)もメクラも差別語だといううことになってしまうのですが、本来、メクラ(目暗)は差別語でもなんでもなかったわけです。

 

そもそも、「はしため」という言葉が聖書に出現する理由は、神を「主」と呼ぶからです。神が「主」であるなら、それを礼拝する信者が「下僕、下女」であるということになるのは自然なことです。「下女」よりは、ちょっと雅味を感じる「はしため」にしよう、となるのももっともなことです。しかし「仕え女」としてしまうと、主従関係外のヘルパーさん、という感じになってしまいます。差別的でなければそれでOK、というものではないのではないですか、ということでしょうね。

 

聖書に差別表現が溢れているように感じるのは、聖書の主張の根幹が差別そのものだからです。聖書とは、イスラエル人、またはキリスト教徒が、非イスラエル人、または非キリスト教徒より優れていることを主張するところの書物なのであって、そもそもが差別を助長する文書だということです。