キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

キリスト教と中国、アメリカ

shibayan1954.com

しばやんさんのブログに、上記記事がアップされました。タイトル通り、布教権を中国市場開拓の武器とした、米国に関する新聞記事を取り上げたものですが、非常に興味深い内容です。宗教が政治の道具でしかないことがよくわかります。記事内容から一部見てみましょう。

 

無形なる利権とも謂うべき人心収攬の方法に至りては実に到れり尽せりと云うべく、此の一事に想到すれば、米国の対支策なるものが決して不用意にして何等根底なきものとは断ずべからず
 先ず支那に亘りて伝道師を簡派し、所謂宗教の伝道に名を仮りて一種の政治的運動を為し居ること之れなり。此の手段は啻(ただ)に自国の勢力を扶植するに止まらず、延いて排日を鼓吹するの跡歴然蔽うべからず
 其他各地に学校を設置し子弟の教養に託して隠密の間排日観念を養うに至る加之(しかのみならず)各地に病院を起して施療を行い、其他あらゆる社会的慈善事業に鞅掌(おうしょう)して盛に恩を售(う)るの行為は軈(やが)て何者を求め何者を得んとするにあるか。蓋(けだ)し閑却すべからざるものあり。

 茲(ここ)に一層の注意を払うべきは、米国伝道師に指導せらるる青年会の活動是なり。青年会の最も盛なるは福建、湖南、湖北の三省にして、名は青年会と云い主意とする処は宗教的に精神修養を行うと云うにあるも、其実況を見れば一種の政社とも云うべく、説くところ政談ならざるはなく、青年の情緒を導きて親米観念を起さしめ間接に排日を煽動するの傾向を認むるは、要するに巧妙なる侵略政策を行うものとも見るを得可し

大正6年6月22日 中外商業新報 神戸大学経済経営研究所所蔵 新聞記事文庫

是非、上記リンクから記事全文をお読みください。

イエス様と犬と豚

bibleresearchtoday.com

 

三つの共観福音書には、犬と豚についての同じ話題が記されています。マタイ福音書から読んでみましょう。まずは豚の話題について。

 

マタイによる福音書 8:30-32

さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。

次に犬です。

 

マタイによる福音書 15:25-28

しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。

 

また、マタイによる福音書には次のような記述もあります。

 

マタイによる福音書 7:6

聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

 

豚と犬、なぜイエス様の言葉として頻出するのでしょうか。イエス様の発言は例えで彩られているといいますが、これらもたとえなのでしょうか。

 

答えをいってしまいますと、たとえというよりも、当時のユダヤにおいては、直截な表現だったのではないかとおもうのですが、異教徒を示す言葉です。

どちらの動物も、神への捧げものとして用いることはできませんし、食用とすることも禁じられています。つまり、何の役にも立たない、無用無益なじゃまものでしかありません。そのような動物にたとえて、異教徒、外国人を蔑んでいるわけです。

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

 

という記事では次のように説明しています。

 

異教徒を「犬」と呼ぶ理由は、申命記にその説明があります。みてみましょう。

申命記23:18

娼婦の得た価または男娼の価をあなたの神、主の家に携えて行って、どんな誓願にも用いてはならない。これはともにあなたの神、主の憎まれるものだからである。

 意訳されていてわかりにくいので。欽定訳を見てみましょう。

Thou shalt not bring the hire of a whore, or the price of a dog, into the house of the Lord thy God for any vow: for even both these are abomination unto the Lord thy God.

口語訳における「男娼の価」は「price of a dog(犬の稼ぎ)」を意訳したものであることがわかります。男娼は犬の性交時のような姿勢で客と性交渉を行うので、そのような宗教的習慣のある異教徒を蔑んで「犬」と呼ぶわけです。

 

エス様の教えに、ユダヤ教の知識はエッセンシャルなものであったわけですから、そのような素地を持たない異教徒はゴミ屑同然だと貶しているのです。しかし、持とうとすることは素晴らしいことなのだと、犬の件では女を高く評価しています。

テーブルの上の料理は、ユダヤ人(キリスト教徒)が神から直接受ける恵みを、こぼれ落ちるパン屑は、神の恵みに満たされた人によって実現される平和が示されているのです。

でも、教会ではそんなことならわなかったよね、とおもわれませんでしたか?

それは、福音書に、イエス様がたとえ異教徒であれ、人を犬や豚呼ばわりしているということが記されている、ということがバレてしまわないように忖度しているんですよ。

 

百卒長の信仰とは

www.wearethemighty.com

 

マタイの福音書に「百卒長の信仰」と呼ばれているエピソードが記されています。読んでみましょう。

マタイによる福音書 8:5-13

エスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。

長い間僕は、この百卒長がなぜ、イエス様に褒められたのかよくわからないでいました。今、話題になっている霊能力者に頼って病人を癒やしてくれ、と依頼するぐらいのこと、それほど珍しいことでもなさそうに思えます。

おそらくこういうことなのではなかったかと考えてみました。

一つ目に、百卒長はローマ側の人間であって、イエス様のようなユダヤ人扇動家と目されるような人物を抑制すべき立場であったにも関わらず、その言動が正しいことを見抜いて、立場がまずくなる危険を冒してまでイエス様に近づいたこと、

二つ目に、病に冒されて立てなくなった下僕を捨ててしまうのではなく、できることなら健康にもどして再び利用したいと望んで、イエス様に託そうと決心したこと、つまり利害の打算が正しかったこと、

三つ目に、彼の家がローマの異教神の像で飾られていたので、ユダヤ教の指導者であるイエス様を迎え入れるには相応しくないと恥じたこと、つまり、人としての礼儀をわきまえていた、

という三つのことがらです。これらをもって、イエス様は、彼が信仰深い、つまり常識人として優れている、と評価したのです。

加えて、というか、イエス様がもっとも言いたかったことは、つぎの言葉、

あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう

にあります。

まるで年中歳時記のように動物を購入して焼き祭をささげたり、物見遊山のように過越祭、五旬祭や仮庵の祭の様子を楽しんでユダヤ教徒の責任を全うしていると思っているユダヤ人、今で言えば、他教派や異教徒を批判しさえしていれば神に褒められると思っているようなキリスト教徒は、絶対に救いへは至らないんだよ、本当の意味で救いに与るのは、少なくともキリスト教徒ではない、と言っているのです。

正しい考えに基づく正しい行動があるべきだという教えだということで、そのためには宗教は不必要だという説明だったのです。

「高価で尊い」は間違い

stmarymysticalrose.org

SNSを見ていますと、イザヤ書を引用して、

私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。(イザヤ43:4)

と書き込まれることが結構あります。しかし、それを目にする度に違和感を覚えます。人が高価とはどういう意味なんでしょうか。

口語訳聖書の該当箇所にはこうあります。

あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、
わたしはあなたを愛するがゆえに、
あなたの代りに人を与え、
あなたの命の代りに民を与える。

念のため、KJVの該当箇所も参照しておきましょう。

Since thou wast precious in my sight, thou hast been honourable, and I have loved thee: therefore will I give men for thee, and people for thy life.

どちらにも「高価」という言葉はでてきません。値段が高いといいたいのであれば、high price とか、expensive とかいう言葉があってしかるべきですが、ありません。

precious という言葉に「貴重な」と言う意味はありますが、価が、という限定の意味は含まれていないのです。

イザヤ書のこの箇所が何を言っているのかといいますと、「イスラエル(神と喧嘩するもの)」と名を改められたヤコブアブラハムの孫であり、イサクの子であるヤコブイスラエル十二部族の祖である十二人の子息たちの親であり、イスラエル神権国家の祖である、特別な恩寵を享受したものである、と言っているわけであって、値段が高いとか安いとかを言っているわけではありません。

また、ヤコブが貴重な存在だと説明しているからといって、読者全般を同じように評価しているわけではないと思います。

どの訳の聖書に「高価」という言葉が使われているのかわからないのですが、SNSでよく目にするということは、実際にそう訳している聖書が存在するということなのでしょう。

しかし、よく考えてほしいと思います。そんな箇所にそんな言葉がでてくるのは自然かどうかということをです。お見受けしたところ、聖書には「どのような単語が」出現するのか、ということが興味の全てであるような人がほとんどのようです。

献金機になりたい、というのであればそれでもかまわないのでしょうけど。

比叡山延暦寺と日蓮聖人

discoverjapan-web.com

比叡山延暦寺日蓮聖人、といいますと特に関係ないのでは、と思われるかもしれないのですが、上記のサイトの記事を読んでみますと、

大講堂には比叡山で修行した各宗派の祖師像が厳かに鎮座する。
右から、釈迦が説いた法華経を根本経典とした日蓮聖人(日蓮宗の開祖)、禅宗に帰した道元禅師(日本曹洞宗の開祖)と栄西禅師(日本臨済宗の開祖)、後に大津市園城寺三井寺)を総本山とした天台寺門宗の智證大師 (天台寺門宗の開祖)。

とあって、日蓮聖人などの他宗の祖師たちが比叡山に学んだ天台学僧であったことを忘れずに、比叡山の東塔にある大講堂内に木像を祀って記念し続けていることがわかります。

また、次のサイトによれば、

ja.m.wikipedia.org

比叡山の横川にある定光院という寺院は、天台宗の寺院でありながら、日蓮聖人が天台教学を学んだ地であることから、その管理を日蓮宗徒が行っている、ということを知ることができます。

仏教は、宗派の別にそれぞれであろうとも、目的は同じ一つであって、方法が違うだけである、と理解するわけです。たとえ自派から分離した宗派であっても、それが悪いことであるとは考えません。

奈良仏教と真言宗以外の、ほとんどの宗派は、天台宗から派生したものであると言えるでしょう。

 

では、キリスト教の場合はどうでしょうか。バチカンのサン・ピエトロには、ツヴィングリやルター、カルバンなどを記念する像があるでしょうか。

いまさら言うまでもなく、むしろ逆であることはご存知の通りでしょう。実際には反目し合ったり、争いの元になったりしているというところが現実です。

 

あまり正しい比較とは言えないであろうことはよくわかっているのですが、もしも、この仏教的な考え方がキリスト教にあったらどうであっただろうか、と思うこともあります。

 

 

日本人は宗教に無関心なのか

www.kobe-np.co.jp

日本は、宗教に無関心な国、と評されているようですが、本当にそうなのでしょうか。日本にはたくさんの寺院や神社がありますが、参拝者不足で潰れるところが多い、というような話を聞かないところをみると、さほど無関心とも言えないのではないか、とも思えます。

日本には、仏教が伝えられるまでは、現在の神道の元になったであろうところの自然崇拝的な宗教があったでしょう。仏教が伝えられると、古来あった神道との習合が行われて、日本独自の仏教型の宗教が形作られて行くわけです。明治になって神道と仏教が分離されるまでの間、神仏は習合した状態で伝えられていました。現在でも、上に引用したサイトの記事にあるように、仏教寺院の内陣に鳥居があったりして、習合の名残をみることができます。

日本人の宗教観は、出生、結婚など、おめでたいことであれば神社で、不幸なことはお寺で、正月の祝いは両者関係なく行います。くわえてクリスマスには教会へ赴き、さらに、ハロウィンにはケルト人の宗教的習慣を遊びに取り入れて楽しんでいる様子も伺えます。

しかし、神社での拝礼の行い方は二礼二拍手一礼、などと、一体何回同じような番組作るんだ、と思うほど繰り返してテレビでやってますね。

実際、僕の友人にも、参拝に行って賽銭を上げた後、寺か神社かどっちかいな、手は打つのか打たんのか、などとBokeたことを言うひとがいます。

無関心といいますが、僕は、宗教観の完成された状態だと言って良いのではないかと思います。一つの思想に偏らず、都合によって適した様式によって世間付き合いの礼に用いるのです。宗教は振り回されるものではなくて利用するもの、道具なのです。

神も仏もない、などともいいますが、あればとうの昔に君臨しているはずだと嗤うのが日本人でもあるようです。

日本人の宗教観は、このように、世界で最も賢明で完成された状態なのだといえるでしょう。

 

日本基督教団と戦争

 

ja.m.wikipedia.org

上記サイトから一部引用しましょう。

1942年6月26日早朝、ホーリネス系の教職者96名が逮捕された。これが、第一次検挙である。1943年4月に第二次検挙が行われて、第一次と第二次を合計すると、日本基督教団に併合されていた第6部(旧日本聖教会)60人、第9部(旧きよめ教会)から62人、妥協して教団に加わらず宗教結社であった東洋宣教会きよめ教会12人、合計124人が逮捕された。これを受けて教団は、「軽々しき行動を慎み、暫く成行きを静観すること」「皇国民たるの自覚に立ち、臣道の実践を志すことを求めた。[4]」 また、日本基督教団の幹部らは、当局のホーリネス検挙を歓迎した。第4部管谷仁主事は、「彼らの熱狂的信仰は我々教団では手の下しようもないくらい気違いじみているため、これを御当局において処断して下さったことは、教団にとり幸いであった。」と述べた。山梨教区長小野善太郎は、「大局的見地からいえば、こうした不純なものを除去することによって日基教団のいかなるものかが一段に認められて、今後の運営上かえって好結果がえられるのではないかと考え、当局の措置に感謝している」と述べた[5]。

ホーリネス教団は日本基督教団第6部、第9部として日本基督教団に組み込まれていたのですが、表立って戦争に反対したので政府から弾圧されました。日本基督教団はこの弾圧に関して、

「大局的見地からいえば、こうした不純なものを除去することによって日基教団のいかなるものかが一段に認められて、今後の運営上かえって好結果がえられるのではないかと考え、当局の措置に感謝している」

と述べたとあります。

 

ja.m.wikipedia.org

によれば、日本基督教団の戦争に対する態度としては、

 

伊勢神宮参拝
1942年1月11日、富田満統理は伊勢神宮に参拝して、天照大神に教団の設立を報告した。「富田統理は十日夜行にて出発し、鈴木総務局長を帯同して十一日朝、伊勢大廟に参拝せられた。而して我が国における新教団の発足を報告し、その今後における発展を希願せられた。」[6]

 

昭和天皇への拝謁
1942年11月26日、富田満統理は昭和天皇に拝謁した。

「畏くも天皇陛下におかせられては軍団多事の際、政務殊の外御多端に亘らせ給うにも拘らず、特別の思召をもって26日午前10時宮中において各教宗派官長、教団統理者に拝謁仰付けられた。」

富田満統理は、この日の光栄を次の如く謹話した。

「本日特別の思召を以って私共宗教団体の代表者に対し、拝謁を賜りましたことは、宗教界においては全くはじめての光栄でありまして宏大深遠なる聖慮の程洵に恐悦感激に堪えないところであります。申すまでもなく今日は大東亜戦争完遂のため、我国は総力を挙げてこれに邁進しているのでありますが、私共は特に宗教報国のために感奮興起して愈々一致協力祖国のため、大東亜共栄圏建設を目指して、凡ゆる時難を克服して行かねばならないと思います。この日の感激を銘記して超非常時局に當り、匪躬の誠を致して聖恩の万一に答え奉らんことを期せねばならないと存じます。」 [16]

 

軍用機献納
1943年11月25日-26日に日本基督教団第2回総会(創立総会からは3回目)が東京鷺宮日本東部神学校で開かれた。平松実馬が軍用機献納の決議案を提出し、教団総会は軍用機献納運動を決議する。「飛べ日本基督教団号」のスローガンのもと集められた献金により日本海軍に「報国3338 第一日本基督教団號」「報国3339 第二日本基督教団號 九九艦爆」を、日本陸軍に「愛国第三三三一 日本基督教団第一」「愛国第三三三二 日本基督教団第二」の四機の軍用機を献納した。また金城女子専門学校は日本基督教団の求めにより、海軍に「報国2629 金城女専号」を、陸軍に3万円を献納した[17]。

などとあります。日本基督教団は、天皇に拝謁し、伊勢の神宮に参拝し、帝国軍に戦闘機を奉納した、とありますが、戦時下におけるキリスト教の団体としてそれは正しかったのか、なかったのか、一言で断じてしまうことは難しいのかもしれませんが、一方で、投獄されても戦争に反対し続けた、ホーリネス、灯台社(ものみの塔)、耶蘇基督之新約教会、安息日再臨教団などがあったことを知るべきかもしれません。ものみの塔を「異端」などと言ってバカにしている伊勢神宮遥拝歴のある系の教団信徒の皆さんは、爪のアカでも頂いたほうがよろしいのでは(笑)。