キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

「死海文書」の偽造品を展示する「聖書博物館」とは

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style.nikkei.com

キャッチアイ画像を引用した日経電子版の記事、「聖書博物館が集めた「死海文書」 16点すべてが偽造」から記事本文を引用してみましょう。

米国ワシントンDCの聖書博物館が所蔵する「死海文書」が、すべて偽物であることが判明した。死海文書は、今から1800年以上前に書かれたとされるヘブライ語の聖書とその写本で、聖書博物館の4階常設展示室には16点の断片が展示されていた。

博物館が依頼していた外部の調査チームは2020年3月13日、これらが真っ赤な偽物であるという結果を発表した。どれも収集家、博物館の創立者、世界的な聖書学者をも欺くほど精巧に偽造されていた。

美術品詐欺の捜査が専門のコレット・ロール氏率いる調査チームは、200ページ以上にわたる報告書を提出し、断片自体は古代の皮革を使ったと見られ、文字は現代になって書かれたもので、本物の死海文書に見せかけるための細工が凝らされていると説明した。「これらの断片は、人をだます目的で偽造されたものです」と、ロール氏は述べた。

アメリカ、ワシントンDCにある「聖書博物館」はアメリカのキリスト教福音派が出資して建てられた、聖書に関する、世界で最も規模の大きい博物館ですが、その展示物の目玉である死海文書16点が全て偽造品であった、という報道です。

博物館は、これらの文書を偽造品と知って展示したのか、知らずにであったのか、ここでは知りようがないことなのですが、まあ、善根を積めば善果を受け、悪行を重ねれば悪果を受ける、ということではないでしょうか。

金持ち、貧乏人を問わず、地獄の恐怖を利用して人を脅迫し、身銭、あぶく銭を強請りとって集めた金で買い物をしても、本当に美しいものは手に入らない、ということでしょう。

クリスチャンはなぜ気持ち悪いのか

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www.eatliver.com

クリスチャンはなぜ気持ち悪いのでしょうか。上に貼ったサイトは、気持ち悪いクリスチャンがジャケットを飾っているミュージックアルバムを集めたものだということで、"Jesus use me" と題された上の写真のアルバムの女性は「ヘアスタイルの嵩が高ければ高いほど神に近づく」と信じているのだそうです。

 

時々、仕事で取引先の会社へお邪魔するのですが、お昼をはさむような場合は、社員食堂で食事をさせていただいたりもします。

渋谷のある会社へお伺いするときは、食堂の定食が安くて美味しいので、なるべくわざとお昼時間を挟むようにスケジュールを組んで行きます。いつも大体同じテーブルを使っているのですが、周囲に座る人も大体は同じ人のように思います。

その中のひとりの男性ですが、いつも食前に手を組んで頭を下げてお祈りを始めるのです。随分長い間、およそ一分間ぐらいでしょうか、目を閉じてなにかブツブツつぶやいているようです。十字を切ったりはしないので、おそらくはプロテスタント信徒でしょう。彼のお祈りを見るたびに、珍しい見世物を見ているような、面白いような、気持ち悪いような、変な気持ちになります。

 

また、大学生時代の話ですが、あるプロテスタント教会の礼拝式に参加させて頂いたとき、礼拝後に退席しようと席を立ちますと、側廊側通路にベンチを塞ぐようにしながら、女性が跪いて手を組み合わせ、頭を下げてお祈りをしていますので通ることができません。なんでわざわざそんな変なところでお祈りパフォーマンスしてるんだ、と思いましたが、しかたなく身廊側へ回ろうとしましたが、まだベンチに座っている人がいて回ることができませんでしたので、側廊で跪いている女性に小さな声で、すいません、通していただけますか、とお願いしたのですが、聞こえないようで反応がありません。もう一度、通してください、と、周囲の人が振返るほどの声でお願いしますと、さすがに聞こえないフリはできなかったようで、「チッ」と舌打ちしながら立ち上がって通してくださいました。

 

いかがでしょうか、気持ち悪いですよね。福音書に「彼らはすでに報いを受けてしまっている」とあるのはまさにこのことです。人の評価だけを願ってラッパを吹き鳴らすものは、ラッパの腕前だけが評価されて終わりだ、という意味です。

 

クリスチャンが気持ち悪い理由は「迷信深いから」の一言に尽きるでしょう。しかし、彼らが「神に従うために」そうしなければならないと思いこんで、実際に行っていることは、福音書でイエス様がそんなことはするな、と諌めていることばかりです。結局、聖書を読んでいないから迷信深くなるのでしょう。

食物禁忌

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yrm.org

聖書には、人が食べてもよいものと食べてはいけないものの規定があります。みてみましょう。

レビ記 11:1-

主はまたモーセとアロンに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『地にあるすべての獣のうち、あなたがたの食べることができる動物は次のとおりである。獣のうち、すべてひずめの分かれたもの、すなわち、ひずめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる。ただし、反芻するもの、またはひずめの分かれたもののうち、次のものは食べてはならない。すなわち、らくだ、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。岩たぬき、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。野うさぎ、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。豚、これは、ひずめが分かれており、ひずめが全く切れているけれども、反芻することをしないから、あなたがたには汚れたものである。あなたがたは、これらのものの肉を食べてはならない。またその死体に触れてはならない。これらは、あなたがたには汚れたものである。

この後も46節まで、細かい指定が続いています。おそらくは衛生的な問題、そして、異教徒の習慣に染まらないために、このような規定が定められたのでしょう。

この規定はユダヤ教徒のためのものであって、キリスト教徒はこれを墨守する必要はありません。使徒行録にはエルサレム会議において、次のような結論を得たと記録されています。

使徒行録 15:29

偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。

しかし、この決まりもけっこう厳しいですよね。日本の農業は神社との結びつきが大きいですから、ほとんどの農作物は「偶像に供えたもの」であることになりそうです。特に米は、天皇が年に一度、新嘗祭を催して全国の米作のために八百万の神に祈りを捧げているのですからアウトです。

ja.wikipedia.org

 

また、こちらは「血のソーセージ」ですが、これもアウトっぽいです。

boutique.maison-vaux.com

日本産の米を食べて生きているキリスト教徒や、血のソーセージが好きなキリスト教徒は、その理由で地獄行きが決定だということになりますね。新約時代になって異邦人信者が増えてきたので規定を緩和したにも関わらず、それさえ守ることができない、というのであれば罪は深いはずです。

 

さて、時代遅れな馬鹿げた宗教タブーの話はともかくとして、現代社会における本当の食物禁忌は「砂糖」である、というべきでしょう。糖尿病、がん、胃腸病、筋肉や神経の疾患、うつ、代謝障害など、様々な病を引き起こす原因でありながら、なぜ、「砂糖は危険だよ」という狼煙があがらないのでしょうか。

また、精製塩よりは岩塩や海水塩を使おう、ということはよく言われるようですが、上白糖やグラニュー糖ではなくて黒砂糖や和三盆を常用しましょう、という声が上がらないことも不思議です。

砂糖 毒性」などのキーワードで検索してみれば、色々とヒットしますので試してみてください。」

当サイトからもリンクさせていただいている、秀和さんのサイトでも詳しく説明されています。

blog.goo.ne.jp

 

そして、「精神の砂糖」ともいうべき、毒性の強い嗜好品が何かといえば、間違いなく「キリスト教」でしょう。この世で失敗したとしても、「正しいキリスト教徒」でありさえすれば、死後、神が報いてくれる、という釣書で人を「死に体」にしてしまいます。

人間らしく生きていきたいとお考えであれば、守るべき心の食物禁忌は「キリスト教」という宗教である、ということをお忘れなく。

霊魂とは

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www.belfasttelegraph.co.uk

「霊魂」とは何のことでしょうか。ウエストミンスター信仰告白の第32の1には、

人間のからだは、死後、ちりに帰り、朽ち果てる。しかし彼の霊魂は(死にもせず、眠りもせず)不死の本質をもっているので、直ちにそれを与えられた神に帰る。 

とあって、人間のからだと霊魂とは別のものであって、からだは死滅するが、霊魂は永遠に不滅である、と説明されています。

しかし、自分自身のことを考えてみてください。夜、就寝するとき、我々の「霊魂」と思われる、おそらく「意識」と言われている部分はどうなるでしょうか。身体が眠れば意識もともに眠りますよね。身体とは裏腹に意識だけははっきりしている、ということはありません。

体が活きている間でさえ、完全に意識を制御することができないのに、死後は打って変わって意識だけが活躍しだすとはちょっと考えにくいですよね。「魂」とは体の一部分であって、生体の現象に過ぎないのだとしか思えません。

過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

で、瞑目して詩篇を暗唱する大叔母がいた事をお話ししました。彼女は幼児洗礼を受けてから百歳近くまで、キリスト教徒として何の汚点もなく立派に生き抜き、最後は温かい寝床で子孫たちに囲まれて安らかに亡くなったように見えたのですが、実は、亡くなる前一ヶ月ほどでしょうか、突然認知症になりまして、体は丈夫で日常生活の不便は特になかったのですが、すっかり脳内がお花畑になったようで、驚くべき豹変ぶりを目の当たりにすることになりました。

家人を他人扱いする、食事中にわざと食器を下に落とす、などは可愛い方で、来客にものを投げるなど物騒なこともありましたし、見舞いに訪れた牧師に向かって放屁したときには失礼ながら笑ってしまいました。

「主の祈り」を一緒に唱えましょう、ということで「天にまします我らの父よ」とやり始めますと、「願わくはみなをあがめさせたまえ」と口ずさむのですが、あとが続かないようで、興味なさそうに横を向いてしまいます。

それならおばさんの好きだったザカリアの賛歌を唱えましょう、と、「主なるイスラエルの神はほむべきかな」とやり始めてみましたが、こちらは全く反応がありませんでした。

詩篇を開けて聖書を手渡してみましたが、

「重たい本や」

と言って床に投げてしまいます。誰がやっても大体おなじような反応です。

100年近くキリスト教に親しみ、共に生きたものであっても、彼女の根幹にその精神性は浸透しなかったのです。

ウエストミンスター信仰告白 32の1 の続きを読んでみましょう。

義人の霊魂は、その時に完全にきよくされ、最高の天に受け入れられ、そこで、彼らのからだの全きあがないを待ちながら、光と栄光のうちに神のみ顔を見る。また悪人の霊魂は、地獄に投げこまれ、大いなる日のさばきまで閉じこめられ、そこで苦悩と徹底的暗黒のうちにあり続ける。 

霊魂とは一体何なのでしょうか。100年近く神に従順なキリスト教徒であっても最後は聖書を床に投げ捨てる、その霊魂は「義人」か「悪人」のどちらなのでしょうか。

僕は、牧師に放屁する大叔母が本当の大叔母であったような気がします。生まれるとともに被せられた「キリスト教徒」という仮面が息苦しかったのでしょう。死を目前にして初めて抵抗したのです。最後の一ヶ月だけが本当の彼女の人生だったのではないでしょうか。

神と災害

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412teens.org

過去に運営していたブログの記事をログに保存してくださっていたものを見つけました。宮城沖地震があったときの記事のようです。少し長いですが、いただいたコメントも合わせてご紹介しておきます。

記事本文は過去記事

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でもご紹介していますが、今回はコメントもご紹介いたします。

地震

地震が発生しました。被害は甚大で多くの死傷者や不明者が出ています。また、原子力発電所からの放射能漏れが心配されています。まさかわが国で、このようなことが起ころうとは、このようなニュース映像を目にしようとは、ほとんどの人はこのようなことが現実なのだろうかと信じられない気持ちなのではないでしょうか。
キリスト教において、災害と神とはどのような関係にあるのでしょうか。キリスト教においては、この世にありとあらゆるすべてのものは神の創造によるものです。人にとって良いものも悪いものも直接の神の業によるものです。もちろん地震も台風も神が直接起こしているわけです。

新約聖書においては、黙示録に天国や地獄、恐ろしい戦争や災害についての記述があるのですが、普段口を酸っぱ くして「黙示録は暗号文なのだから、直接読んで理解できることはその通りの意味ではない」のだと主張しているにもかかわらず、キリスト教徒は「黙示録にはっきり書いてあるではないか、お前は文盲か」と批判されます。キリスト教徒が黙示録をそのままにしか理解できないというのであれば、黙示録に、神は災害と戦争をもたらすものだと書かれているのですから、この地震による災害は神がもたらしたものだと考えるべきでしょう。また、同書には神によって「ハルマゲドン」がもたらされるのであるとも書かれています。ですので、あらゆる戦争は神によるハルマゲドンの予形だと捉えることも可能です。

ソーシャルネットワークの自称クリスチャンである方々は「お祈りします」と発言しているようですが、あなた方ご自 身の信仰対象である神様が引き起こした災害によって被害を受けた方々に対して「お祈りします」というのはどういう意味なのでしょうか。誰に、何をお祈りするのでしょうか、その内容を具体的に教えていただきたいものです。

ソドムの例にもあるように、神は気に入らない人々を自然災害という表れを用いて殲滅するのです。「それは旧約だ」という言い訳は聞きません。暗号でないというのであれば、黙示録にはもっとあからさまに反対分子を残酷に殲滅する予告があります。

今回の地震による災害も、神の意思の表れであって、被害者は神に反するのもので、元々罰を受けるべき悪人だったのだ、といわねばなりません。

神に従順な僕であるというのであればそうするべきです。

 

はじめまして。いつもブログを拝見しております。
誤解のありませんように私が現在求道中の身であることを先に明かしておきます。
神は今は現実の事柄に直接関与してはおらず、罪人は死後に裁かれるのであって、罰という形で何かが起こったりするわけではないと理解しています。
だから、悪人どもが罰で死ぬということは起こりえないです。
ですから被災者の為に祈るのは矛盾はしてないと思うのですがいかがでしょうか。

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みいさん、コメントありがとうございます。
また、いつもご覧くださっているとのこと、重ねてありがとうございます。
信仰について、いろいろな考え方や方法があって、どれが良いとか悪いとかいうことは無いだろうと思います。私の考えとあなたの考えが違うことも別に不思議ではありません。

ただ、せっかく疑問点を挙げておられますので、私個人の主観的な意見を述べさせていただくのであれば・・

仮に神がこの世のことに関知していないのであれば、誰も教会へ行く必要が無いことになってしまうでしょう。また、この世のことに関知しないのであれば、神は何を基準にして、死後に裁けばよいのでしょうか、今も昔も、神はこの世に君臨し、大いに関知するところであればこそ、死後を云々できるのです。

キリスト教徒にとってもっとも恐るべきものは「死」です。特に、神に従う決心をする前に災害で死んでしまうことは悪いことなのであって、そのように死ぬ者は、彼ら自身の悪の結果であると理解すべきだと言えるでしょう。

キリスト教徒は神がいてすべての現実世界を支配している、と考えています。「神は全宇宙の主宰者である」という考えです。庭の木の葉っぱが一枚枯れ落ちたことまで承知している、というわけです。

当然地震も台風も神の手によるものです。それでは、生き残った神の信者は被災者のために何を祈るのでしょうか、神の業は完璧で一分の隙も無いはずです。つまり、神の信者は神の業を褒め称えるべき、ということにならないでしょうか、自然災害は神の業なのであって、良い印なのだと、そう理解せねばならないのではないですか。

「ありがとうございます」こう祈るべきだということになるでしょう。違うでしょうか。

ずいぶん嫌なことを申し上げるようですが、言いたいことは現実を見るべきだということです。何にでも理屈というものがあります。キリスト教徒であるということはどういうことなのか、現実を知ってください。理屈をまげて美化してはいけないということです。宗教とはそういうものだという現実です。

またコメントお待ちしています。

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 クッキングホイルさん、とても丁寧な回答ありがとうございます。
確かに、私が最初に書いたような神だったら人間にとってはどうでもいいような存在になってしまいますね。
全ては神の意志によるということを失念しておりました。
「お祈り」に関してはよくわからなくなってしまいました。そもそも誰か他人の為に祈るということは意味の有ることなのでしょうか。祈りとは神への賛美と感謝だと思いますが、それは本人以外が代わりにできるようなものではないはずです。
現実を知れというのは仰るとおりです。まだまだ私にはキリスト教キリスト教徒の理解が不足しているということを痛感いたしました。少しずつ、理解していきたいと思っています。
これからの記事も楽しみにしています。

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 みいさん、コメントありがとうございます!
あなたは、冷静で、感情的にならずに対話ができる方なのですね。感服しました。これからもコメントお寄せくださいね。
僕の祈りについての考えは、記事「祈りとは」

今回のような災害を、一般のキリスト教会では「神の試練」と表現していると思います。これについてはあなたのお考えにまかせます。僕も意見は言わないでおくことにします。

それでは。

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 はじめまして。地震と聖書で検索したらここにたどりつきました。(長文失礼します・・・)私の叔母さんがクリスチャンで、私に神様を信じてもらいたいそうなんですが(私は無宗教です)それで奥山実さんの「世の終わりが来る!」なんていう本を貸してもらい、読んでるうちに東北で地震が起きて、本に書いてあることが本当だったら嫌だな・・・と思って、このホームページに来ました。クッキングホイルさんの文を読んでいたら、なんだか心が楽になりました。ありがとうございます<(_ _)>叔母さんには三浦綾子さんの著書も貸してもらって、読んだ後は感動して洗礼してもらおうかなと思ったりもしましたが、やっぱりなんだか・・・って感じです。まさに迷える子羊というか(泣)誰かに聞いてもらいたかったので、コメントの場を設けてくださりありがとうございました(^^)/!

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 ラクダさん、コメントありがとうございます!
拙ブログが何かお役に立てたのでしょうか、とても光栄です。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

おば様から信仰を持つようにと進められているのですね。親族にそういう人がいるのはとても始末の悪いことでしょうね。お察しいたします。

奥山実さんという方は福音派という部類の新興教派の指導者だと思いますが、同じキリスト教の中でもとても急進派といいますか、極端で偏った思想を主張する系統の方だと思います。アメリカでは、中絶する医師を殺害するような系統です。よくご注意ください。

三浦綾子さんの著作に感動された、ということですが、僕の観察では、彼女も偏った思想の一人のキリスト教徒に過ぎない、としか思えません。作品からは詭弁と言い訳しか見えてこないと思います。

特定の宗教に偏らないことが、人間としてまず望ましいことだと思います。機会があれば宗教愛好家の目をよく見てみてください。こちらの目を見ずに話します。対話ではなくて、一方的な主張しかできないようになってしまっているからです。

またコメントくださいね。お待ちしています。

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 早速の回答、ありがとうございます(^o^)>>特定の宗教に偏らない と回答してくださってますが、私なんかその最たるものだと思います・・・なんてったって、父方のおばあちゃんが善○教の信者で、お母さんの実家が神社やってて、叔母さん家が教会やってるから宗教に対しては敏感なんです・・・(泣笑)母方のおばあちゃん家で叔母さん家の悪口行ってたり叔母さん家で母方の家の見下げた発言聞いてるから子供心に複雑です・・・(笑)ややこしくてすみませんm(__)m >>中絶する医師を殺害!?わかりました! 三浦綾子さんの思想は偏ってるんですか>゜)))彡あまり深く考えずに読んでいたのでわかりませんでした^_^;いろいろ教えてくださってありがとうございます。甘ちゃんなので発見ばかりです。

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 ラクダさん、コメントありがとうございます!
ご家族の宗教、とても複雑なんですね。恐れ入りました。しかし大変なことですね。うまくかわしつつ日々つつがなくすごしてください。

まあ、僕自身も偏っていないかというと怪しいもんじゃないかとは思うのですが、宗教信者が自分自身の宗教をテーマにして作り上げた小説で、偏っていない作品なんて皆無でしょう。宗教小説なんてお経や聖書で十分です(笑)。

またいつでもコメントくださいね。お待ちしています。

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 こんばんは。黙示録についてインターネットで検索していたところこちらのHPに辿りついて、この記事を読ませて頂きました。
私はプロテスタントなのですが、こちらの記事を読んでいて私の理解とは少し違うところがあったので、書き込みをしています。
まず、黙示録に書いてあること(特に4章以降)は現時点ではまだ起こっていない事柄です。なぜなら、これらのことは再臨の後に起こるとされているからです。今回の地震も物凄い大惨事ではありましたが、黙示録の世界ではそれ以上にえげつない惨事が起こるのだと思います。今回起きた地震や、今までに世界各地で起こった紛争、戦争、自然災害などは、聖書の中のマタイ24章(特に3〜14節)にあたります。

とはいえ、地に起こる様々な出来事に神様が関与していることは確かです。しかし今回の地震も含めて、再臨前に起こるこのような災害等々は神の怒りや裁きとは違います。神の怒りや裁きは全て 、再臨後に起こるのです。

今の時代、神様はこのような災害を"黙認"しておられます。「神様がいるのになんでこんな悲惨なことが起こるんだ…」とはよく聞かれる意見ですが、全て神様のご計画が崩れない範囲の災害や戦争等は時や状況をみて実行に移されるのです。(ちょっと説明下手で意味分からなかったらごめんなさい><)
つまり、神様が"起こした"のではなくて、"起こるのを許された"のです。これは今回の地震もそうですし、あらゆる戦争、事故、殺人強盗等の事件や、もっと日常的な心を悩ませる事柄に至るまで言えることだと思います。

続いて、被災者への祈りについて。私も今回の地震の後祈りました。おもに、被災された方々に神様からの恵みがあるようにということや、その中にクリスチャンがいるなら彼らが失望してしまうのではなく、より強く神を求めることが出来るように。神を知るものとして強くあることで、他の被災者の中にあっても主の栄光を現わせるように。といったことです。ちなみにこの"被災者"の中に亡くなってしまった方は含んでいません。
彼らに主の恵みがあり、暖かさ、食べ物、住まいなど、一日でも早く与えられるように。そして一人でも多くの人に福音が伝えられるように。と私は祈りました。
地震が起こることを許されたのも神様ですが、その後の復興を許されるのも神様です。小さな祈りですが、みこころなら聞かれます。

長くなってしまってすいません。読んで、考えていただけると嬉しいです。

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 こんさん、コメントありがとうございます。
あなたのような方が、典型的な現状安住型クリスチャンですね。

当然ながら、自然現象はいたずら顔した神が指先一本で起こすものではありませんし、再臨とやらの前後でどうこうというような幼稚なマンガの世界の話でもありません。

キリスト教の矛盾を問題にしているのです。キリスト教内でどう定義されているかは問題にしていないのです。おわかりでしょうか。あなた方の教義の勉強をしたいと考えているわけではありません。世の中の常識を問題にしています。

キリスト教の神が全知全能であって、この世のすべては彼の創造によるものだと理解しているのであれば、すべての災害も神によるものだということになる。地震でたくさんの人が亡くなったので、神も困惑して悲しんでいるとでもいうのですか、という話です。

太陽が暖かいのも、涼しい風が心地よいのも「神の恵み」なんじゃないのでしょうか。それならば地震津波で人が死ぬのも避難地で寒さに凍えるのも「神の恵み」ということになるんじゃないですか?

そういうことを言っているのです。気持ちの良いことは神のおかげ、不愉快なことは神と無関係、これではキリスト教は詭弁や矛盾の塊だといわれても仕方がありませんね。

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 はじめまして。
私は某プロテスタント教会に半年程度行っていただけでしたが、今回の大災害でキリスト教は全く信じられないと言う事を確信しました。

私の行っていた教会では、神の国が来ると"永遠のいのち"が与えられるのだから、その事を喜ぼうよと言うような事をよく言っていました。ならば今回の大災害には大喜びしているはず。神が全ての事に関わられておられるのですから、この大災害は神の国が近づいている事の証なんでしょうから。
こうやって書いていて、私自身は全くこのように思っていないので、むかついて腹が立ってしょうがないのです。
そんな気持ちでこちらへたどり着きました。

彼らは今頃(そう言えば、今ちょうど日曜の礼拝の時間です)、ありがとうございます主よ。あなたの大いなるみわざを示して頂いて。とでも祈っているのでしょうか。(逆にそうでなければ本当のキリスト教徒では無いとも思えますが)
それとも、数個前にコメントされている方のように、被災された方の心配や、福音が伝えられるようにとでも祈っているのでしょうか。
きっと後者でしょうね。
本当に偽善で気分が悪い。
そのくせ、信じなければ滅びるよとでも言うんでしょう。

そんな彼らに一言言いたい。
人間をなめるな!
人間の力を侮るな!!

彼らが今、何を祈るのか聞いてみたいです。

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 うめこうじさん、コメントありがとうございます。
宗教に関心を持ち、教会の扉を開いて中に入る人はたくさんあるだろうと思いますが、その問題点に気づくことができる人はそう多くないと思います。ほとんどの人は、されるがままに任せてしまい、ついには洗脳されてしまいます。その矛盾点に気づくことも無く、前の人のように、反対意見を見れば走っていって汚いものを蝿叩きで叩き落とすように抹殺するようになります。あなたはとても賢明な方だと思います。

前の人が言うように、この世に起こる不幸な出来事は神が直接行うのではなくて、神が許可したのでやむなく発生することなのだ、とキリスト教徒は考えています。では、神は誰に許可したのでしょうか、悪魔にでしょうか、なぜ不許可ではなくて許可なのでしょうか、全能の神であれば、起こってはいけないことが起ころうとしているときには、それを不許可として起こさせないこともできたはずです。

地震津波が発生すると、多くの人が不幸な目にあったり死んだりしてしまうことはあまりにも明白です。神であれば予見できないはずが無いのです。

にもかかわらず神は許可した、なぜでしょうか、それよりも、なぜそんな遠まわしな紛らわしい表現をするのでしょうか、ここがごまかしなのです。神が直接行った、とどうちがうのでしょうか、そんな表現でごまかせるとでも思っているのか、つまり、これが宗教に洗脳されてしまった人達の歪んだ論理であり、心が曲がってしまっている証拠なのです。一般的な常識を失ってしまっているわけです。

またコメントお寄せくださいね。お待ちしています。

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 はじめまして。
私は今回の災害は神様が人々に罰を与えるために起こしたとは思いません。
神様は愛のあるおかたです。
気に入らない人を災害で殺すなんてありえません。
神様は殺人者でさえ愛し、良くなることを願っています。
私は今回の災害は神様が、私たちに大事なことを気付かせるために起こしたものだと思っています。
人々が忘れていた思いやり、優しさ、隣人への愛を取り戻させたいと思ったのではないでしょうか。私たちを愛しているからこそ犠牲者を出しながらもこれからの私たちのために起こしたものだと思います。
だからこの災害で人々の信仰も深まることも願っているはずです。

なので祈りは大事だと思います。
一人でも多くの人を救ってくださいと皆が祈ることによって、状況も大きく変わってくると思います。
今日本の皆は協力し合って頑張っています。
きっと神様はそれを見て喜んでいるはずです。
愛しているからこそ、これからの日本がよくなることを一番に望んでいます。

もし
罰のためにこの災害を起こしたのならば、メリットは何もありません。
神様は私たちの成長を望んでいます。
私たちに愛を教えるためにたくさんのことをしてくださいます。
今こそ隣人を愛し、信仰を深めるべきなのではないでしょうか。

私はそう思いました。

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 花さん、コメントありがとうございます。素敵なお名前ですね。
あなたのご発言には矛盾するところがあります。

まず、神は気に入らない人を災害で殺すなんてありえない、というお考えですが、それでは、「私たちに大事なことを気付かせるために起こしたものだ」、というお考えと矛盾してしまうことになります。

神は「私たちが大事なことに気付いていない」ということが気に入らなかったので災害を起こして気づかせてやれ、という動機で災害を起こしたことになりますね。違うのでしょうか。それは「罰」とどう違うのでしょうか。

また、神は全知全能で何が人にとって良いことで、何が悪いことか、教えてもらうまでも無くご存知のはずだとおもうのですが、あなたの「皆が祈ることによって、状況も大きく変わってくると思います。」というご発言によれば、神は人の祈りによってそれまで知らなかった人の望みを知って、その後、その祈りの内容によって行動を変更するのだ、ということになりますね。それでは神は全知全能ではなくなってしまいますよ。

少なくとも、反対意見に反対するためだけに発言するのはお控えになったほうがご自分のためになると思いますよ。

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 「偶像 破壊 主張」でググってたら良サイトを見つけたので記念カキコ。
キリスト教を批判するブログは構想はしてたのですが、どうも先駆者が居たようです。
これから時々コメントするかもしれません。よろしくおねがいします。
少し思ったのですが、宗教において神(霊的生命体)と自然の関係を考える場合、
キリスト教の神は「絶対的善性」と規定されているのが厄介かと。
例えば神道みたいに、自然=神には善性(ニギミタマ)と悪性(アラミタマ)がある。
だから自然は人々に恵みと御利益をもたらすけれど、時には大災害で大勢の人たちの命を奪っていく。
悪性なくして善性はなく、破壊なくして創造はなし。こういう考えなら、まだ理解はできる。

でも一神教の神は絶対的善性なのです。悪は人間の意志やサタンから来るもの。
じゃあ大災害は誰が起こしたの?神が愛であれば、人の命を奪うことなんてしないはず。
しかしキリスト教徒は自然は神が動かしている、と主張する。ありゃありゃ?

そもそも今回の大震災が神によるものなら、なんでキリスト教徒も巻き添え喰らうの?
異教徒だけ津波で流されて、キリスト教徒は神の加護で大丈夫、なんてことはなかったのに。
自分の信者も守れない神さまなんて、これではまるでバアルさんじゃありませんか。
それでもコメント欄の皆さんは「神の試練」を信じますか?

キリスト教徒は広島と長崎をソドムとゴモラの神話に倣って焼き払いました。
彼らにとって日本人は異教徒でした。神社はファシズムの象徴でした。
でも、原爆で死んだ人の中には日本人キリスト教徒も居ます。特に長崎のカトリック教徒。
自分の信者も守れない神さまなんて、これではまるでバアルさんじゃありませんか。
それでもコメント欄の皆さんは原爆を落とした人たちの宗教を奉じますか?

by広島市民@被爆3世

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 丁寧なお返事ありがとうございます。
たぶん解釈の仕方が違うのかなと思いました。

災害を起こして気づかせてやれ=罰
ではなく
災害を起こして気づかせてやれ(気付かせてあげよう)=愛

と私は解釈しています。

神は全知全能です。
人の望みも知っていることでしょう。
しかし人々が神を敬い、神を求め、直接お祈りすることに意味があります。

>少なくとも、反対意見に反対するためだけに発言するのはお控えになったほうがご自分のためになると思いますよ。

私は自分のためではなく、あなたのためにコメントしました。

もし不快にさせてしまったらすいません。

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 横レス失礼。
>災害を起こして気づかせてやれ(気付かせてあげよう)=愛
気づくもなにも、災害で死んだら意味が無いと思うのですが

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 すいません。
私も横レスです。
花さんが言われているのは、あくまでも生き残った人に対して気づかせてやると言う事なんでしょうね。
神の愛は我々人間が考える愛とは範疇が異なっているのでしょうから、こんな事を言っても仕方がないのですが、殺しといてそれが愛だと言われても。
被災者の方々に、「神は私たちに大事な事を気づかせる為に、今回の大災害を起こされたのです。それは生き残った私たちへの神の愛なのです」とお話になられては如何でしょうか?
神がおられれば、福音を一人でも多くに述べ伝えられる事を望んでおられるでしょうから(これには異論はないと思います)、多くの被災者の方々が信じるのではないでしょうか?

広島市民@被爆3世さん
私が教会に通っていた時、信じると必ず試練があるよと言われていました。

全ての人間は神の基準からすれば罪が必ずある。
神の基準によれば、たとえば腹を立てるだけでも罪である。
人間で腹を立てない人はいないのだから、全て罪人である。
その基準からすれば、日々過ごしている中で、自分がありとあらゆる事で罪を犯している事に気づかされる。
しかし、その罪を全て背負ってイエスは十字架に掛かられた。
よって、イエスをキリスト(=神)と信じる事で、我々の罪が神によって許されるのだ。

このような感じで教わりました。
はじめは確かにそうかもしれないと思うところもあったのですが、クッキングホイルさんの言われるように色々とおかしいなと思う事が出てきて、今では全く信じていません。

私の知識では、キリスト教徒は永遠の命を得て神の新たな世界に生まれ変わる事が、究極的な救いだと信じているはずです。
とすれば、神が起こした災害やら戦争やらその他病気等々によって死んでも、天の御国に生まれ変われると信じているのだからおおいに喜ぶはずです。
キリスト教徒の方が亡くなる間際に、「とても穏やかな顔をして喜んでいた」といった話を聞いた事はありませんか?)

キリスト教徒は生まれ変わりを待ち望む人々なので、わざわざ神が手を下して守ったりする必要はないですよね。神の新たな世界に生まれ変わらせるのですから、この世で罪にまみれさせておく必要はない訳ですね。きっと。

原爆を落とした人たちの宗教を奉じますか?という問いについては、原爆を落としたのも神ですから、今回の大災害と同様に、このような事を起こす神などは決して信じないし、奉じないし、認めません。(そもそも存在しないでしょう)

長文で失礼致しました。

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 キリスト教徒でも今回亡くなった方はいます。
でもそれは肉体がなくなったわけで、魂は滅びていません。
彼らの魂は確実に救われます。
ちゃんと守れれているので大丈夫です。
うめこうじさん
殺しといっても魂は生きています。
私は今被災者の方々にどう伝えるのが一番いいのか考えています。
きっとクリスチャンでない方、神を信じていない方に急にこのように話しても、うまく伝わらないでしょう。
なので私は神様に、どのようにして伝えるべきかを教えてくれるようにお祈りしています。
被災者の方を精神的に少しでも救いたいと思っているからです。

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 返信ありがとうございました。
返信の中であなたは、"キリスト教の教義を勉強したいとは思っていない"とおっしゃっていました。つまり、"聖書が何を言わんとしているか正確に知ろうとは思っていない"ということだと思います。
確かにあなたは聖書に対して斜に構えた目線から学んでいらっしゃるようで、あなたの聖書に関する知識も間違いが多くあります。
あなたが、聖書が現実と矛盾していると感じるのは、あなたの聖書に関する知識が実際の聖書の内容と矛盾しているからではないですか?
私だって、聖書の全てを正確に把握しているとは思っていませんし、そんなことが出来る人はいません。しかし、先程の返信にあった"自然災害と神の裁き"についてのあなたの意見や"神の恵み"についてのあなたの主張を聞くと、その理解では矛盾が生まれても仕方ないなと思いました。
"自然災害と神の裁き"については、あなたのいう"教義"無しには前の説明以上に何を書けば良いかまだ分からないのですが、"神の恵み"について、私が理解していることをお伝えしたいと思います。

地震津波で人が死ぬのも避難地で寒さに凍えるのも、神様のご計画です。これらのことは人間にはどうしようもできませんよね?
しかし、そんな中にあるからこそ感じられる神様の恵みもあるはずです。太陽が暖かいこと、涼しい風が心地よいことなどの普段気付ないようなこともそうです。試練の中に、神様からの恵みがあることに気付き、それを神様に感謝できるかどうかが鍵なのです。地震のような大きなことに限らず、もっと日常的な生活の中にも嫌な出来事はたくさんあります。神を知る人はそこから自分が何を学ぶことを神様が望んでおられるのか悩み、考えます。また、祈ります。その答えが見つかったとき、その元となった困難を含めて一部始終を神に感謝するのです。私たちは、神様のご計画やその意味を完全に理解することはできません。しかし求めるなら、必死に探すなら、私達が納得してさらに神様に感謝できるように道を整えて下さる。� �はそう信じています。

ごめんなさい。長くなるので、次に続けてコメントさせていただきます。

被災者への祈りの内容が偽善だという意見へ。
私は、被災した人でも神を求める者となってから死ねば救われれ、神を認めないまま死んだら裁かれると信じています。そう信じている者が、一人でも救われる人が多く現れるように願うことは偽善でしょうか?
自分の経験上、救われることが一番の喜びだと思っている私が、一人でも多くの人がそうなることを望むのは偽善なのでしょうか?
また矛盾があったり気分を害されたらごめんなさい。

皆さんの意見はとても勉強になるし興味深いです。

決して喧嘩したいわけじゃないし、言い負かしてやりたい!みたいな気持ちでもないのですが、私たち側の生の声も伝えたい聞いてほしいと思って書き込んでいます。

うめこうじさん、レスをありがとう。
キリスト教の「罪」についてですが、アメリカの新宗教悪魔教会」について書かれた本『悪魔教』(青弓社)だったと思いますが、こんなことが書かれていたような気が。
キリスト教=ありもしない宗教上の罪を着せて、金を払えばそれを赦す」
まさしく「地獄の沙汰も金次第」ですな。

またどの本かは忘れましたが、作家の小室直樹氏によれば、創世記のエデンの園の話はイスラエル人にとっても昔話みたいなものだった、
だけどそれにパウロが目を付けて、「原罪」という教義を考案したのだそうです。

花さん
>なので私は神様に、どのようにして伝えるべきかを教えてくれるようにお祈りしています。
たまには祈るだけじゃなくて自分で考えようよ…

>被災者の方を精神的に少しでも救いたいと思っているからです。
祈りについて自分の考えを書いて返信としようと思ったら、よく読んだらニュアンスが違ったwww
精神的に救いたいという心意気は良いんですよ。物質的支援だけでなく精神的支援も必要だと。
でもあなたの「精神的に救いたい」とは、レスの文脈を注意して読んだら、「魂は生きていると伝えること」。
いわゆる「プレイ・フォー・ジャパン(日本のために祈りを)」とは違うみたいです。
自分は読解力が無いのですが、この解釈で合ってるでしょうか?
目の前で家族が津波で流された人に向かって「魂は生きてるから大丈夫」と言ったら、
おぬしこの緊急事態をダシにして布教活動するつもりかと怒られそうです。

こんさん
>被災者への祈りの内容が偽善だという意見へ。
>私は、被災した人でも神を求める者となってから死ねば救われれ、神を認めないまま死んだら裁かれると信じています。そう信じている者が、一人でも救われる人が多く現れるように願うことは偽善でしょうか?
>自分の経験上、救われることが一番の喜びだと思っている私が、一人でも多くの人がそうなることを望むのは偽善なのでしょうか?
えーと、あなたが言う「祈り」は「被災者の方々が平穏を取り戻せますように」という意味ではなくて、「みんなクリスチャンになってね☆」という意味に取れるんですが。
ようするに「神を認めないまま被災して死んだ連中は地獄行きだザマミロ」ってことでええんですかね。

私はいわゆる「日本のために祈りを」には反対ではありません。
被災者の方々には物質的支援だけではなく、祈りという応援、俺達がついていると伝える精神的支援も必要だとは思います。
しかし、たとえ善意の祈りでも、時には被災者を傷つけることもあるし、行動が伴わなければ「ショセンヒトゴト」で終わってしまいます。
前者については 
後者については 

このブログにも書いてありましたが、祈りとは「苦しみを共にすること」。
行動せずに祈るだけでは、スラックティビズム(努力や負担を負わない社会運動めいた行為)になってしまう、と考えます。
被災地支援のボランティアに行く勇気も無い私にできるのは、彼らのために祈ること、そして郵便局に行って義援金を寄附をすること。

メシ喰ってから見直してみたら何だか寄附したことを自慢しているような内容だなぁ
不愉快に思われた方ゴメンナサイ。

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 ツイッターでご心配を頂きましたので、お邪魔させて頂きます。
管理人さんには、釈迦に説法になり恥じ入りますが、もともと聖書は、「自然的動物」に対して、「歴史的動物」という概念で書かれています。
前者は、創造主という歴史の始点と、その終点を持つ必要がない人たちの歴史観、あるいは世界観、人生観で、後者は、どうしても歴史の始点と終点が必要な人たちのそれです。

聖書は、その「人類のモデル」への警告の書でもあります。

その上で、地震に関して、信者がどのような態度をとるべきか、実は「地震」という言語で聖書を探しても、事態への具体的な対応は出てきません。

多分、「ヨナ書」のヨナが乗った船が難船しそうになった時(直面している船という小世界の危機の時にとった態度と、パウロがローマへの途次、難船しそうになった時にとった態度の両極で信仰者(歴史的動物)の取るべき態度や姿勢を信者が学ぶべきなのでしょう。

ヨナは、船員が必死で働いているのに、船底でぐっすり寝ていました。船長から「お前は何者か?」と問われると、「創造主に選ばれたヘブル人だ」と自惚れかえっていました。

一方、パウロは、前線で働き難船を回避させました。

ご趣旨に反するものかもしれませんが、体がこの程度、回復していることの証として、書かせて頂きました。

共に通りすがりである私達がこんな風に人のブログのコメント欄で意見を言い合うのもどうなんだろうとは思うのですが…書き込ませていただきます。
〇あなたが言う「祈り」は「被災者の方々が平穏を取り戻せますように」という意味ではなくて、「みんなクリスチャンになってね☆」ととれる。

 私は今回の地震後、"被災者の方々が平穏を取り戻せますように"という祈りと"出来るだけ多くの人がクリスチャンになって欲しい"という祈りをしました。(3/20AM2:00頃の私のコメントも見てみて下さい。)

前者の"平穏な暮らし"というのは、とても人間的で一時的なものです。彼らの衣食住が十分に確保されて、苦しい現状から早く回復してほしい、そう思います。でも、実際彼らが平穏な暮らしを取り戻したとしても、� ��こに神様との出会いが無ければそれは本当の幸せではないなと私は思うのです。
だから私は、平穏な日々(所詮一時的)への祈りと神に出会うこと(永遠に繋がる)への祈りをしました。

〇ようするに「神を認めないまま被災して死んだ連中は地獄行きだザマミロ」ってこと?

まず、ざまあみろとは思っていません、悪しからず。

被災して死のうと、120歳まで生きて老衰で死のうと、ガンで死のうと、若くして事故で死のうと、死は死です。
そして、被災であろうが老衰であろうがガンであろうが事故であろうが、そのときまでに神に立ち返らなかったのならそれまでです。

私が神は全てをご存知です。その人が神を求める者となるか、そうでないかもすでに決まっているし、知っておられます。神を信じないまま死んだ人は、きっとその後何年生きようが、どれだけ神様からの恵みが与えられようが、永久に神を認めるものにはならなかったのだろうと思います。

天災に良いも悪いも無いという意味で、神の業は完全であると私は思っています。ただ人間である私が「辛い」「怖い」というだけで。
人間は、ただ「御心のままに」と祈るしか無いと思います。
全体の為にこの国が滅ぼされるのであれば、喜ばなければなりません。
祈ってください、原子炉が爆発しませんように、放水作業が功を奏するように、作業員はクリスチャンで云々・・・
微に入り細に渡る祈りのリクエストに何の意味があるのでしょうか。
キリストに捧げた身ならば、潔く腹をくくれるはずです。
非信者の為に憐れみを乞うているのでしょうか。

彼らは、自分の思いつく範囲の問題が解決されれば全ての危機から逃れられると本気で思っているのでしょうか。
この非常時に、自国の末を祈らない国民が居ると考えているのでしょうか。
キリスト教徒以外の人は神を知らないと、本当に信じているのでしょうか。

はっきり言って、私には彼らが臨場感溢れるスリルや感動ドラマに酔いしれているように見えます。
人間を信者、非信者に分けるのは、ドラマをより複雑にして楽しむためです。

理解不能です。

キリスト教徒以外の人は神を知らないと、本当に信じているのでしょうか。
という一文がありました。
いまいち何を論点とされているのかわからなかったのですが、「神を知る」とは「神を神と認める」ということです。「クリスチャンになる」といえばわかりやすいでしょうか?
参考までに。

彼らは……とでも思っているのでしょうか という形の疑問文がいくつかありましたが、"非信者の為に哀れみを乞うているのでしょうか"以外に関して、私の答えは全てNOです。
その上でもう一度聖書を読んでみて下さい。

参考までに。

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 みなさん、たくさんのコメントありがとうございます。
一つ一つにはお返事さしあげませんが、心からお礼申し上げます。
こうしてみると、護教派の人達は、もっぱら他人の発言内容を弄って批判したり打ち消したりしていますね。見苦しいです。それこそ人の頬を平手で殴る行為だと思います。やはり宗教になぞうつつを抜かす手合いというのはこの程度のものです。笑止千万です。他人をおもいやる心を失っているのです。

『祈る』といいますが、この非常時に何をのんきなことを言っているのかと思います。むしろ祈るのはやめて、1000円でも2000円でもいいから赤十字に送金してください。

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 >『祈る』といいますが、この非常時に何をのんきなことを言っているのかと思います。むしろ祈るのはやめて、1000円でも2000円でもいいから赤十字に送金してください
お金はできる分だけ送金しています。
しかしあなたはお金で全て解決できると思っているのでしょうか。
神様を敬い求め、祈らなければ解決できません。何もよくならないのです。

あなたが今そのような考えなら仕方がないです。
私も神様なんているわけない!と思っているときがありました。
しかしあなたがいつか神に目を向け、永遠の命が与えられることを私は本気で祈っています。
そしてお金では変えられない、本当の幸せ(永遠の幸せ)をつかむことを祈ります。

あなたは聖書も読んだことがあるし、知識もあります。
ただ誤った理解をしているだけなのです。あなたが求めればきっと神様はあなたに正しい答えを教えてくれるでしょう。

それでは。

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 はなさん、コメントありがとうございます。
あなたはリッチな海外の観光地からのんきに書き込んでいるようですが、被災地の現状をわかっているのですか?

現地でこの災害は大事なことを忘れているあなた方のために示された神の愛とか、金では何も解決しないからまず祈りましょう、だとか口走ったら殴られると思いますよ。

うれしそうに他人の誤りを指摘してる場合じゃありませんよ。恐ろしいぐらい非常識ですよ。

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 >花さん
>しかしあなたはお金で全て解決できると思っているのでしょうか。
>そしてお金では変えられない、本当の幸せ(永遠の幸せ)をつかむことを祈ります。
お金では得られない本当の幸せを知って欲しい ←タテマエ
キリスト教にお金を費やして欲しい ←ホンネ

「世の中お金じゃない」と言う人ほどお金に汚いことが多いものです

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 通りすがり@広島のトイレより愛を込めてさん、トイレからコメントありがとうございます!
花さんは十分お金を持っているので、他人がお金お金というのが滑稽で仕方がないのでしょう。うらまやしいですね!

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 はじめまして、ライナスと申します。私も20年程前にカリスマ派の牧師によりキリスト教に入信しましたが、10年前よりまったく正反対の教派に属しており、クッキングホイルさんに、実はなんだか解るな〜と共感しているところも多々です。
私は今回の災害について、「なんだかとんでもない事が起こりました、神はこの事をもちろんご存知と思いますが、私はどうしたらいいのかわかりません」
というのが最初の祈りでした。実はそこには、報復とか悪い事をした人間への罰という意味での災害意識は全くありませんでした。それは、私が何時間祈っていかに明確な啓示と思われるものがあろうと、私の判断が間違っている可能性を否定しないからです。

歴史的に災害や戦争など、キリスト者ユダヤの人への迫害だって明確にありましたし、他宗教への迫害ももちろん頻繁にありました。なので、そのことで、世界でおこる全ての事象にキリスト者優位に解釈することは誠に不謹慎だと思っているからです。災害についての解釈、そしてその真理というものがあるのなら、それは神が判断され神のみの解釈でなければならず、私たち人間が「こうである」というのは奢りです。
ならなぜ、祈るのか。まず、祈りは力があるとは思いますが、自分が飲むものを持っていて、飢え渇き死の恐怖におびえる人にそれを差し上げず「祈っています」というのはあまりにも無責任だと私は考えています。治る薬をもっていて、薬を欲しがっているにも関わらず祈りのみで治してあげましょうといういのはもはや犯罪行為です。具体的な行動がまず第一です。これは想像であり、希望的願望ですが、もしイエスがいたとしたら、真っ先に祈ることはもとより被災地にかけつけ、癒し、全力を尽くして人を助けることでしょう。

なぜ祈るのか、私はこれは限りなく主観的な神と私の個人的な関係においてのみ有効なものだと思っています。それは、他にけっして誇るようなものではありません。もちろん共感は悪い事ではありませんが、まずは私と神との主観的な関係ありきだと思っています。

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 ライナスさん、コメントありがとうございます!
記事「祈りとは」

もっと平たく言えば、自己満足のための行為、あるいは、共通の集団であることを確認するための行動、といいましょうか、つまり、祈りそのものには何の力もありません。祈りそのものによっては何も変わらないし、変えようとすることさえできないものです。

記事「祈りとは」に書いたとおり、祈りは見せびらかすためにするものでは無い、薬でも、脅迫の方法でも無いし、神に指示するための命令でも無いわけです。その証拠に、イエス様は、祈るときは、家の奥のだれも見ていない部屋で行いなさい、と指導しているのです。祈りは祈る人自身のために行うものです。

またコメントくださいね。

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 はじめまして。
私はアメリカに住んでいるので、キリスト教の方に会う機会が多く、また友人の半分以上がキリスト教です。
しかし、私は完全に無宗教です。
先日、キリスト教徒の韓国人の友人宅で地震のニュースを見ていたんです。
その時、何気に宗教の話になって、
私が「多くの日本人は仏教だけど、神とか仏とか信じない人も多いよ。」と言ったら、
「それが問題なのよね。この前も教会で日本の為にお祈りをしたんだけど、その後みんなで話していたのよ。日本人の多くが神を信じていないから、神様が怒って地震が起きたんだって。」
私は唖然としてしまいました。
これは神の怒りだと、キリスト教徒の人は本気で思っているんだと。
そしてその事を考えると、今でも悲しみと、怒りが込み上げてきます。
地震は神が起こしたもので、何万人もの人の命を奪った神を信じるなんて、私には理解できません。
以前は、「日本の為に祈っているのよ。」と言われると、とても嬉しくて、「ありがとう。」と心から感謝していましたが、
友人のあの話から、キリスト教徒の人はどんな事を祈っているのか不思議でなりません。

ふと、思い出すと数ヶ月前に、キリスト教徒のイラン人の友人が
「神を信じないなら、この世に起こっている天災はなぜ起こると思っているの?これらは神が理由があって起こしているのよ。」と言ってきました。
私は「理由なんてないんじゃない。どうして台風が来たのかとか、どうして火山が爆発したのかなんて、普段考えないよ。」
と言いました。
「では、あなたはどうしてここに存在すると思っているの?あなたはどこから来たと思うの?」と聞かれ、
「母親から生まれてきたと思っているけど。」と答えました。
「この世に存在するすべては神が創ったのよ。」と言われました。
今思うと、彼女も今回の地震は神が起こしたと思っているんだろうなと思いました。

それから、安楽死についてですが、
キリスト教の方は安楽死を認めないですよね。
それは、神が人間を創りだしたのに、それを人間の手で勝手に断つのはタブーだと。
キリスト教の人に聞いてみたのです。
「犬や猫を安楽死させる事についてどう考えるの?」
そしたら、「人間の安楽死や自殺はタブーだけど、犬や猫は例外なんだよ。なぜなら、人間は神を信じる事ができるけど、犬や猫は信じるという事ができないからね。その違いだよ。」って。
それ以上深く聞きませんでしたが、私には今でも理解できません。
犬や猫も神が創りだしたのに、人間の手で命を断っていいなんて。矛盾していませんか?

それから、同性愛についてですが、これもキリスト教ではタブーですよね。
なぜなら、神が初めに女性と男性を創ったのに、
男性同士で愛し合う事は神の意思を無視した行動だと。
でも、同性しか愛せない人に対して、あたかも罪人のように言うのは失礼ではないかと思います。神の意思に反するとか、そういうのじゃないくて、愛し合って二人が幸せならそれでいいじゃないかと私は思うんです。

また、信仰心の強いキリスト教の人が言っていたのですが、
「僕の友達に、奥さんが沢山欲しいならイスラム教になったら一夫多妻制だよって言われたんだよ。でも、僕は断ったね。僕は奥さんは一人でいいんだよ。僕のキリスト教の友達は奥さんがいるけど、別に彼女がいる人が沢山いるんだよ。別にそれは良いと思うんだ。だって、男と女の愛だからキリスト教的にもOKなんだよ。それが、男と男だったら絶対駄目だけどね。」
それって、都合よくない?と思ったのですが、ほんとにキリスト教の人は
異性同士なら愛人でもOKと思っているのでしょうか?

キリスト教の人は、いつでも神と現実を結びつけて考えますが、
私には理解できない事が多いです。
といっても、私は理解するつもりもなく、ただ意見は意見として聞いているだけです。
アメリカに住む以上、キリスト教徒の人に関わるのは絶対避けられませんので、普段否定も肯定もせずにいます。
けど、地震の事があってから、キリスト教徒の人に対しての不信感が強まり、
今までの苛立ちをコメントとして書いてしまいました。
きっと、これからもキリスト教の人の事は理解できないし、無宗教の人とキリスト教の人では考えが交わらないんだろうなと思いました。
ただ、ひとつ言いたいのは、キリスト教の人は基本的に善意の強い方が多いです。一人一人はすごく素晴らしい方です。
だから、意見が合わなくても、キリスト教の友人達は人として好きです。
ただ、神と結びつけて話が始まると、ちょっとうんざりします。
地震は神が起こしたのではなく、ただプレートの位置の問題だったのです。現実的に物事を考えて欲しいです。
人の命を奪って、仕方がない事だと考える神などいりませんよ。

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 ringoさん、コメントありがとうございます!
あなたの仰るとおりでして、キリスト教の神は、わざわざ不完全で誤りを犯してしまい勝ちな人間を創造し、その人間が誤りの行動をすると不愉快に感じて罰を与える、という奇想天外な神、思想的に問題のある神だということになります。

そんな神に従って満足している人というのは、一体どういう思想構造なんでしょうか、理解できないですね。ああなたもできる限り適当な間を取ってキリスト教徒の人とはお付き合いするように気をつけてくださいね。

またコメントくださいね。お待ちしています。

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 天国について。
私の祖父母は無宗教です。
私がもしクリスチャンになった際には天国へいけるのかもしれませんが
天国で私の祖父母に会うことはできるのでしょうか?
自分だけ極楽浄土へ歩むなど考えられません。
まさはるさん、コメントありがとうございます!
なぜこの疑問をこのブログのコメントとして書き込まれたのか、理解に苦しむところではあるのですが、せっかくいただきました大切なコメントでございますので、僕からひとこと申し上げさせていただくことにします。

まず、神様のことからですが、まさはるさんも幼少のころ、雷が鳴ると、お母様に「おへそを隠さないと雷様に盗られてしまうよ」といわれたことがあるでしょう。雷は自然現象で、虎皮のパンツをはいて太鼓を鳴らしておへそを盗りにやってくる雷様は実際にはいらっしゃらないのですが、雷が鳴ると急に冷え込んで大雨になることが多いので、おなかを出していると冷えてしまいます。だから、雷様という仮の存在に、おへをを出していると盗られてしまうことにして注意を促すのですね。

神様も同じことで、この世は何に付け不条理なことが多くて、涙で枕をしとどにぬらす夜も多いのですが、実は神様がいて、我々が他人から不当に扱われていても神様だけは真実をご存知だ、と考えることによって鬱憤を晴らしているわけです。それに、他の人のことは知らず、私だけは一生懸命に善いことばかりして暮らしているのだから、死後はたぶんすごく幸せになるに違いない、でも私にいやなことを行うあの人やその人は、死後真っ暗で苦しくていやな気持ちになるところへ堕ちていって永遠に苦しんだらいいんだ。

と、こういう妄想が生んだ虚構の世界なんですね。誰一人天国や地獄へ行って帰ってきて報告をした人はありません。それなのに、なぜ死後も生きているんだということができるのでしょうか、全部嘘なのです。

肉体と霊魂が別々のものなのであれば、なぜ肉体が眠るとき、意識も眠るのでしょうか、肉体の疲労に同調して意識も睡眠するのは、人間は肉体がすべてだということの証拠です。肉体が死ねば意識も死んでしまうことの証明です。

ですから、人間には死後の望みというものはありません。今この世に生きていることがすべてなのです。だからできるだけがんばって楽しんで生きていくのです。

うまくお伝えできたかどうかわからないのですが、僕なりに書いてみました。
またコメントお寄せくださいね。

まず、私は昨年のクリスマス前に福音派の教会でドボン(受洗)したてのひよこクリスチャンなのですが、母教会では唯一のやもめ(サマリアの女でもありバラバの女だった(過去)し長血の女でもあります)なので、有料老人ホームで働いておりました。震災時、機械浴の入浴介助中で、自分より重たい裸体のばぁさまを抱えていました。
当時はまだ母教会に属しておりましたが、教団としてあの少し後に、被災地は東北なのに!関東で集めた支援物資(私にはこの連絡回って来ませんでした)を、一度名古屋(運送会社の経営者の信徒さんの会社)に集めてから!被災地へ~!と動いていたようです。

私は今でこそ違う業界ではありますが、以前は物流に携わっていた人間なので、教団の無駄な動きが凄く気になりました。その経営者の信徒さんがハンドルを握り走る訳はない。実際に輸送するのは従業員。いち平社員のドライバーごときでも地方のドライバーとの繋がりはありまして…経営者となれば会社間の繋がりがあるのも確かです。ドライバー視点から、通るルートごとに拠点を定め集荷しながら北上すれば良いのに…。普通に思いました。

その後、いまの勤務先から被災地の老人を受け入れたり、被災地へ派遣されたり…。

んなことしていたら、母教会を追放になりました(笑)

そしてその後、きよめ派へ導かれましたが私を誘導してくれた『偉い方』は、被災地へ『みことばを!』と息込んで行き、返ってきて鬱発症してます。

なんだかそんな流れを見ていて、頭が混乱していています。なんのためにドボンしたのか?なんだったの?
正直解りません。解らなくなりました。

長文で乱文で失礼致しました。

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 Leeさん、コメントありがとうございました。
それで、結局今はキリスト教を止してしまわれたのですか?
そのほうがいいと思いますよ。

またコメント下さいね。お待ちしています。

 

カトリックとプロテスタントの違い

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goodshepherdparish.org

カトリックプロテスタントはどう違うのか、と言いますと、カトリックの神父さんは終生独身でプロテスタントの牧師は妻帯可能である、とか、カトリックの聖堂にはマリヤ様など聖人の像があるけれどもプロテスタントの礼拝堂には無い、といったような、外見上の差異が問題にされる場合が多いのではないかと思いますが、もっと根本的な、信仰生活の根幹を成す次元に於いて、両者がどのように違うのかを考えてみますと、

「人が救いにあずかるために」

カトリックは「教会は必要なものである」と考えますが、

プロテスタントは「教会が必要ではない」と考えます。

と言えるでしょう。

カトリックは「教会の権能」を重要視し、七つのサクラメントを定めて、それらは人間が生活していくために必要なものである、と考えています。たとえば洗礼について、「カトリック要理の友 第23課 洗礼」では

洗礼は救いを得るのに必要ですか。
イエズス・キリストのお定めにより、洗礼は、救いを得るのに必要です。
 イエズス・キリストは人の罪をゆるし、成聖の恩恵を与えるために洗礼の秘跡をお定めになりました。それゆえに人がカトリック信者となるためには、洗礼の秘跡を受けなければなりません。

と説明されています。

一方プロテスタント教会は、一切の「教会の権能」を否定し、サクラメントは洗礼と聖餐の二つを保存しますが、それらは生活のための必要であるとは理解していません。例えば「日本バプテスト教会連合公式ページ 聖礼典」では

私たちは、バプテスマはあかしとして、聖餐は記念として行う。もちろん、パブテスマは霊的な死と再生という出来事の象徴的な意味があり(ローマ6:1?11)、告白としての意味もあるが、基本的にはあかしとしての意味があるということができよう。聖餐にもあかしとしての意味もあるが、基本的には記念として行われるのである(第一コリント11:25、26)。

と説明されているように、洗礼は「あかし」のために、聖餐は「記念」のために行うものであって、人間として生活するために必要なものでは無い、と考えていることがわかります。別のプロテスタント教会によっては、この「あかし」とか「記念」とかいった理解部分が「神の恵み」という理解に代わる場合がありますが、いずれにせよ、生活に必要不可欠な要素であると考えてはいない、という点においては同じです。

ですので、「フリー聖餐」というような考えが生じることは、サクラメントを人生の必須事項とは捉えていないプロテスタント教会では論理上あり得ることだ、と言えるでしょう。

実際、「救世軍」はメソジスト教会から派生したプロテスタント教会の一つですが、彼らは洗礼も聖餐も行いません。また、無教会主義の人たちも同様です。彼らには教会もなく、サクラメントも行いませんが、だからといって、無教会主義の人たちはクリスチャンでは無い、とうわけではないのです。

カトリック正教会も同様ですが)とは、教会の権威に隷属し、教会や神父、司教無しにはキリスト教徒として成立し得ない人のことであり、プロテスタントとは、教会や牧師がいなくても、キリスト教徒として成立し得る人のことだ、となるでしょう。

別の言い方をするのであれば、カトリック信者になりたいときには、カトリック教会を訪れて入門講座を受講し、終了後洗礼を受けなければなりませんが、無教会主義のプロテスタント信者になろうとするのであれば、今直ぐにそのままでそうなれる、ということです。

「あなたのために」は呪いの言葉

f:id:christian-unabridged-dict:20201109101534j:plain

www.gonzaga.edu

SNSでよく見かけるクリスチャンの発言に、

「あなたのためにお祈りします」

というのがあります。SNSばかりではなく、実際にも耳にしたことがあるでしょう。言ったこともあるのではないでしょうか。誰かと論争して言い負かされたようなときに発せられる場合が多いようですが、この発言の真意は、

「私はお前が大嫌いだ。神がお前を私にとって都合の良い存在に変えてくれたらいいのに」

ということに過ぎません。

過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でも申しましたが、神は、人に祈ってもらう必要は全くありません。人が祈らなくても神が神でなくなることはありませんし、また、人が求めずとも、何が必要であるかをすでにご存じだということです。マタイの福音書 6:8 には、

あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。

とあります。そして後続の節でイエス様が「主の祈り」を教えられたのは、人が生きていく中で、どのような自分自身であるべきか、そのためにどのようなことを求めていけばいいのかということを考え、整理しながら生活していけばいいね、ということだったのではないかと思います。祈りとは、本来そういうものなのだということを教えられたのです。

ですから、本当に心からその人のために「あなたのためにお祈りします」という気持ちがあるのであれば、少なくとも、言葉にして伝える必要はないはずだということになるでしょう。黙って平和が実現されるところの行動をすればいいだけの話で、そうすることが生き生きと活きている祈りなのだ、ということになるでしょう。

いかがでしょうか、「あなたのためにお祈りします」という発言は、安っぽい皮肉でしかないのです。神を道具にして相手にダメージを与えようとしているわけです。

しかし、お見受けしたところ、クリスチャンというのは、神を手持ち用の銃か装身具程度にしか理解していないタイプの人ばかりですけど(笑)。