キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

カトリックの神父がセクハラ

www.pauline.or.jp

 

10年ほど前の下記ブログ記事ですが、大阪府茨木市カトリック教会の神父が、家政婦に対してセクハラを行ったという記事がありました。引用してみましょう。

blog.goo.ne.jp

 

 

大阪府茨木市カトリック大阪大司教区茨木教会の神父が信者の母子にセクハラ行為をしたとされる事件で、府警茨木署は5日、同市駅前3、同教会神父の井上博嗣容疑者(74)を母親(43)に対する強制わいせつ容疑で逮捕した。井上容疑者は「キスをしたことは間違いないが、わいせつ目的ではなかった」と供述しているという。

 発表によると、井上容疑者は昨年10月下旬~12月下旬の間、約70回にわたり、居住する同教会敷地内の司祭館(神父の居住棟)1階の台所付近で、「愛してます」とささやきながら母親を抱き寄せ、無理やりキスを繰り返した疑い。母親は同教会で食事の支度や掃除などのアルバイトをしており、ほぼ毎日司祭館に出入りしていたが、抱きつかれるたびに「やめてください」と抵抗していたという。

 井上容疑者が、娘の小学生の女児や別の女性信者に対しても同様の行為をしていたという証言もあり、同署は余罪を追及する。

 井上容疑者は、2002年から茨木、高槻(大阪府高槻市)両教会で布教を担当。英知大(現・聖トマス大、兵庫県尼崎市)学長や神戸海星女子学院大(神戸市)の非常勤講師なども務めた。

 大阪大司教区の松浦悟郎補佐司教は大阪市中央区の同大司教区で記者会見し、「関係者におわびしたい。今後このようなことが起きないよう全力を尽くして取り組む」と謝罪した。

 茨木教会はこの日、門が閉ざされたままで、出入りする信者らの姿はなかった。近くの女性信者(86)は「住む場所のない人の世話をするなど、多くの人を助けてこられた。あの神父さんに限ってそんなことは絶対ないはず」と驚いていた。
(2009年2月5日 読売新聞)

カトリックの神父というのは全員がホモセクシャルかと思っていたのですが、そうではなかったのですね(笑)。しかし、いずれにせよ、他人を自らのための性の玩具としか見ていない、という点ではおなじことです。大学の学長を勤めたという人物がこれなのですから、団体全体の質は推して知るべし、というところでしょう。

 

もう少し引用しておきましょう。

神父の質の低下は今に始まったことではありません。信仰生活が長ければ長いほど私たちは「なまぐさ神父」に出会います。例えば献金ネコババする神父だったり、平気で愛人とデートを重ねる神父であったり。
 なぜこのような神父が存在するのかというと神父はまず首になることがないからです。例えば教会内で何か問題が起こるとします。正義感にあふれた信者はまず神父に直談判をし、それでもだめならば司教に訴えに行きます。横浜教区ならば梅村司教ですが、得てして司教というのは神父を守るのです。過去のカトリック藤が丘教会の例でいうと訴えてきた信者たちを恫喝に近い対応で迎え、挙げ句の果てに「信仰心がない。黙想しなさい」と教会の信徒活動を無期限で停止しました。このことからわかるように司教に訴えても無駄なのです。同じ穴のムジナ、叩けばホコリの出る身なのかも知れませんが、とにかく神父を保護しようとします。
 今回のセクハラ事件ですが、実は日本のカトリックの組織の中には「子どもと女性の権利擁護デスク」なるセクシャルハラスメントの窓口がちゃんとあります。ありますが機能しませんでした。このことは日本のカトリック教会には自浄作用がないことを端的に表しているのではないか、と思います。

 

キリスト教の左と右

apologeticspress.org

マタイの福音書を読んでみましょう。

 

マタイによる福音書 12:1-8

12:1そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。 12:2パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。 12:3そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。 12:4すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。 12:5また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。 12:6あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。 12:7『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。 12:8人の子は安息日の主である」。

 

しばしば引用されるのでご存知の方もたくさんおられるのではないでしょうか。律法を、非人情的な当てはめ方をしてはならない、という教えであるという説明を受けたでしょう。

僕もそれはそのとおりだと思うのですが、さらにもう一歩踏み込みたいところです。

ここで、パリサイ人とは、ユダヤ人コミュニティの中の主流派であり、多数派でもあった人々であって、保守的な立場の人々を言っています。どのような団体、例えばイスラエル国であっても、ソロモンの時代のような黎明期にあっては、皆一様に熱い思いをもって国家の運営に当たったものであるが、しばらくするうちに、熱さが失われてしまい、現状の個人に利する局所的な価値のみを保持できればそれでいい、という気風に満足するようになります。これが保守というものの正体であるわけです。

つまり、イエス様は、常に、飽くことなく真実を追求し続けよ、とこのエピソードを通して指導しているのです。そのためには保守的な立ち位置へ立つな、というわけです。

このエピソードを読んで理解するのであれば、保守的なキリスト教というものは、本来、成立してはならないことに気づくはずです。キリスト教徒は、本質として、イエス様のような革命家でなくてはならないわけです。

キリスト教と中国、アメリカ

shibayan1954.com

しばやんさんのブログに、上記記事がアップされました。タイトル通り、布教権を中国市場開拓の武器とした、米国に関する新聞記事を取り上げたものですが、非常に興味深い内容です。宗教が政治の道具でしかないことがよくわかります。記事内容から一部見てみましょう。

 

無形なる利権とも謂うべき人心収攬の方法に至りては実に到れり尽せりと云うべく、此の一事に想到すれば、米国の対支策なるものが決して不用意にして何等根底なきものとは断ずべからず
 先ず支那に亘りて伝道師を簡派し、所謂宗教の伝道に名を仮りて一種の政治的運動を為し居ること之れなり。此の手段は啻(ただ)に自国の勢力を扶植するに止まらず、延いて排日を鼓吹するの跡歴然蔽うべからず
 其他各地に学校を設置し子弟の教養に託して隠密の間排日観念を養うに至る加之(しかのみならず)各地に病院を起して施療を行い、其他あらゆる社会的慈善事業に鞅掌(おうしょう)して盛に恩を售(う)るの行為は軈(やが)て何者を求め何者を得んとするにあるか。蓋(けだ)し閑却すべからざるものあり。

 茲(ここ)に一層の注意を払うべきは、米国伝道師に指導せらるる青年会の活動是なり。青年会の最も盛なるは福建、湖南、湖北の三省にして、名は青年会と云い主意とする処は宗教的に精神修養を行うと云うにあるも、其実況を見れば一種の政社とも云うべく、説くところ政談ならざるはなく、青年の情緒を導きて親米観念を起さしめ間接に排日を煽動するの傾向を認むるは、要するに巧妙なる侵略政策を行うものとも見るを得可し

大正6年6月22日 中外商業新報 神戸大学経済経営研究所所蔵 新聞記事文庫

是非、上記リンクから記事全文をお読みください。

イエス様と犬と豚

bibleresearchtoday.com

 

三つの共観福音書には、犬と豚についての同じ話題が記されています。マタイ福音書から読んでみましょう。まずは豚の話題について。

 

マタイによる福音書 8:30-32

さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。

次に犬です。

 

マタイによる福音書 15:25-28

しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。

 

また、マタイによる福音書には次のような記述もあります。

 

マタイによる福音書 7:6

聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

 

豚と犬、なぜイエス様の言葉として頻出するのでしょうか。イエス様の発言は例えで彩られているといいますが、これらもたとえなのでしょうか。

 

答えをいってしまいますと、たとえというよりも、当時のユダヤにおいては、直截な表現だったのではないかとおもうのですが、異教徒を示す言葉です。

どちらの動物も、神への捧げものとして用いることはできませんし、食用とすることも禁じられています。つまり、何の役にも立たない、無用無益なじゃまものでしかありません。そのような動物にたとえて、異教徒、外国人を蔑んでいるわけです。

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

 

という記事では次のように説明しています。

 

異教徒を「犬」と呼ぶ理由は、申命記にその説明があります。みてみましょう。

申命記23:18

娼婦の得た価または男娼の価をあなたの神、主の家に携えて行って、どんな誓願にも用いてはならない。これはともにあなたの神、主の憎まれるものだからである。

 意訳されていてわかりにくいので。欽定訳を見てみましょう。

Thou shalt not bring the hire of a whore, or the price of a dog, into the house of the Lord thy God for any vow: for even both these are abomination unto the Lord thy God.

口語訳における「男娼の価」は「price of a dog(犬の稼ぎ)」を意訳したものであることがわかります。男娼は犬の性交時のような姿勢で客と性交渉を行うので、そのような宗教的習慣のある異教徒を蔑んで「犬」と呼ぶわけです。

 

エス様の教えに、ユダヤ教の知識はエッセンシャルなものであったわけですから、そのような素地を持たない異教徒はゴミ屑同然だと貶しているのです。しかし、持とうとすることは素晴らしいことなのだと、犬の件では女を高く評価しています。

テーブルの上の料理は、ユダヤ人(キリスト教徒)が神から直接受ける恵みを、こぼれ落ちるパン屑は、神の恵みに満たされた人によって実現される平和が示されているのです。

でも、教会ではそんなことならわなかったよね、とおもわれませんでしたか?

それは、福音書に、イエス様がたとえ異教徒であれ、人を犬や豚呼ばわりしているということが記されている、ということがバレてしまわないように忖度しているんですよ。

 

百卒長の信仰とは

www.wearethemighty.com

 

マタイの福音書に「百卒長の信仰」と呼ばれているエピソードが記されています。読んでみましょう。

マタイによる福音書 8:5-13

エスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。

長い間僕は、この百卒長がなぜ、イエス様に褒められたのかよくわからないでいました。今、話題になっている霊能力者に頼って病人を癒やしてくれ、と依頼するぐらいのこと、それほど珍しいことでもなさそうに思えます。

おそらくこういうことなのではなかったかと考えてみました。

一つ目に、百卒長はローマ側の人間であって、イエス様のようなユダヤ人扇動家と目されるような人物を抑制すべき立場であったにも関わらず、その言動が正しいことを見抜いて、立場がまずくなる危険を冒してまでイエス様に近づいたこと、

二つ目に、病に冒されて立てなくなった下僕を捨ててしまうのではなく、できることなら健康にもどして再び利用したいと望んで、イエス様に託そうと決心したこと、つまり利害の打算が正しかったこと、

三つ目に、彼の家がローマの異教神の像で飾られていたので、ユダヤ教の指導者であるイエス様を迎え入れるには相応しくないと恥じたこと、つまり、人としての礼儀をわきまえていた、

という三つのことがらです。これらをもって、イエス様は、彼が信仰深い、つまり常識人として優れている、と評価したのです。

加えて、というか、イエス様がもっとも言いたかったことは、つぎの言葉、

あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう

にあります。

まるで年中歳時記のように動物を購入して焼き祭をささげたり、物見遊山のように過越祭、五旬祭や仮庵の祭の様子を楽しんでユダヤ教徒の責任を全うしていると思っているユダヤ人、今で言えば、他教派や異教徒を批判しさえしていれば神に褒められると思っているようなキリスト教徒は、絶対に救いへは至らないんだよ、本当の意味で救いに与るのは、少なくともキリスト教徒ではない、と言っているのです。

正しい考えに基づく正しい行動があるべきだという教えだということで、そのためには宗教は不必要だという説明だったのです。

「高価で尊い」は間違い

stmarymysticalrose.org

SNSを見ていますと、イザヤ書を引用して、

私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。(イザヤ43:4)

と書き込まれることが結構あります。しかし、それを目にする度に違和感を覚えます。人が高価とはどういう意味なんでしょうか。

口語訳聖書の該当箇所にはこうあります。

あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、
わたしはあなたを愛するがゆえに、
あなたの代りに人を与え、
あなたの命の代りに民を与える。

念のため、KJVの該当箇所も参照しておきましょう。

Since thou wast precious in my sight, thou hast been honourable, and I have loved thee: therefore will I give men for thee, and people for thy life.

どちらにも「高価」という言葉はでてきません。値段が高いといいたいのであれば、high price とか、expensive とかいう言葉があってしかるべきですが、ありません。

precious という言葉に「貴重な」と言う意味はありますが、価が、という限定の意味は含まれていないのです。

イザヤ書のこの箇所が何を言っているのかといいますと、「イスラエル(神と喧嘩するもの)」と名を改められたヤコブアブラハムの孫であり、イサクの子であるヤコブイスラエル十二部族の祖である十二人の子息たちの親であり、イスラエル神権国家の祖である、特別な恩寵を享受したものである、と言っているわけであって、値段が高いとか安いとかを言っているわけではありません。

また、ヤコブが貴重な存在だと説明しているからといって、読者全般を同じように評価しているわけではないと思います。

どの訳の聖書に「高価」という言葉が使われているのかわからないのですが、SNSでよく目にするということは、実際にそう訳している聖書が存在するということなのでしょう。

しかし、よく考えてほしいと思います。そんな箇所にそんな言葉がでてくるのは自然かどうかということをです。お見受けしたところ、聖書には「どのような単語が」出現するのか、ということが興味の全てであるような人がほとんどのようです。

献金機になりたい、というのであればそれでもかまわないのでしょうけど。

比叡山延暦寺と日蓮聖人

discoverjapan-web.com

比叡山延暦寺日蓮聖人、といいますと特に関係ないのでは、と思われるかもしれないのですが、上記のサイトの記事を読んでみますと、

大講堂には比叡山で修行した各宗派の祖師像が厳かに鎮座する。
右から、釈迦が説いた法華経を根本経典とした日蓮聖人(日蓮宗の開祖)、禅宗に帰した道元禅師(日本曹洞宗の開祖)と栄西禅師(日本臨済宗の開祖)、後に大津市園城寺三井寺)を総本山とした天台寺門宗の智證大師 (天台寺門宗の開祖)。

とあって、日蓮聖人などの他宗の祖師たちが比叡山に学んだ天台学僧であったことを忘れずに、比叡山の東塔にある大講堂内に木像を祀って記念し続けていることがわかります。

また、次のサイトによれば、

ja.m.wikipedia.org

比叡山の横川にある定光院という寺院は、天台宗の寺院でありながら、日蓮聖人が天台教学を学んだ地であることから、その管理を日蓮宗徒が行っている、ということを知ることができます。

仏教は、宗派の別にそれぞれであろうとも、目的は同じ一つであって、方法が違うだけである、と理解するわけです。たとえ自派から分離した宗派であっても、それが悪いことであるとは考えません。

奈良仏教と真言宗以外の、ほとんどの宗派は、天台宗から派生したものであると言えるでしょう。

 

では、キリスト教の場合はどうでしょうか。バチカンのサン・ピエトロには、ツヴィングリやルター、カルバンなどを記念する像があるでしょうか。

いまさら言うまでもなく、むしろ逆であることはご存知の通りでしょう。実際には反目し合ったり、争いの元になったりしているというところが現実です。

 

あまり正しい比較とは言えないであろうことはよくわかっているのですが、もしも、この仏教的な考え方がキリスト教にあったらどうであっただろうか、と思うこともあります。