キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタントの元信徒が運営するキリスト教批判ブログです

太宰治とキリスト教

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太宰治キリスト教に関心があったようです。特に内村鑑三に共感を示していたようで、いくつかの随筆などにそのことを記しています。見てみましょう。

太宰治 作家の像 から一部引用

塚本虎二氏の、「内村鑑三の思い出」を読んでいたら、その中に、
ある夏、信州の沓掛くつかけの温泉で、先生がいたずらに私の子供にお湯をぶっかけられた所、子供が泣き出した。先生は悲し相な顔をして、『俺のすることは皆こんなもんだ、親切を仇にとられる。』と言われた。」
 という一章が在ったけれど、私はそれを読んで、暫時、たまらなかった。川の向う岸に石を投げようとして、大きくモオションすると、すぐ隣に立っている佳人にひじが当って、佳人は、あいたた、と悲鳴を挙げる。私は冷汗流して、いかに陳弁しても、佳人は不機嫌な顔をしている。私の腕は、人一倍長いのかも知れない。

太宰治 碧眼托鉢 ――馬をさへ眺むる雪の朝かな―― から一部引用

いい読みものがなかった。二三の小説は、私を激怒させた。内村鑑三の随筆集だけは、一週間くらい私の枕もとから消えずにいた。私は、その随筆集から二三の言葉を引用しようと思ったが、だめであった。全部を引用しなければいけないような気がするのだ。これは、「自然。」と同じくらいに、おそろしき本である。

太宰治 一問一答 から一部引用

「あなたは、クリスチャンですか。」
「教会には行きませんが、聖書は読みます。世界中で、日本人ほどキリスト教を正しく理解できる人種は少いのではないかと思っています。キリスト教に於いても、日本は、これから世界の中心になるのではないかと思っています。最近の欧米人のキリスト教は実に、いい加減のものです。」

太宰治 世界的 から一部引用

 ヨーロッパの近代人が書いた「キリスト伝」を二、三冊読んでみて、あまり感服できなかった。キリストを知らないのである。聖書を深く読んでいないらしいのだ。これは意外であった。

駆込訴え」など、聖書からテーマを得た作品もあります。特に僕の印象に残っているのは「きりぎりす」という作品です。そういう解説があるわけではありませんので、これは僕の感想に過ぎないのですが、福音書にある「放蕩息子の喩え」を逆から解説しているように感じました。

放蕩息子の喩え」では、父からもらった財産で散々に遊び呆けている状態が「死」んでいる状態であって、遊び尽くした結果、財産をなくしてやっと真実に気がついて改心し、父の下に帰って心から許しを乞うたことが「復活」であることが説かれていますが、太宰は「きりぎりす」で、無名の画家と結婚した主人公の、結婚当初の貧しくも楽しい幸福な日々が、夫の名が上がって裕福になるにつれて、つまらない、不幸な毎日に変化してしまう、ということが描かれています。みてみましょう。まず当初の生活ぶりは、

私は、ほとんど身一つで、あなたのところへ参りました。淀橋よどばしのアパートで暮した二年ほど、私にとって楽しい月日つきひは、ありませんでした。毎日毎日、あすの計画で胸が一ぱいでした。あなたは、展覧会にも、大家たいかの名前にも、てんで無関心で、勝手な画ばかり描いていました。貧乏になればなるほど、私はぞくぞく、へんに嬉しくて、質屋にも、古本屋にも、遠い思い出の故郷のようななつかしさを感じました。お金が本当に何も無くなった時には、自分のありったけの力を、ためす事が出来て、とても張り合いがありました。だって、お金の無い時の食事ほど楽しくて、おいしいのですもの。つぎつぎに私は、いいお料理を、発明したでしょう?

そして裕福になると。

あなたの団体の、第一回の展覧会は、非常な評判のようでございました。あなたの、菊の花の絵は、いよいよ心境が澄み、高潔な愛情が馥郁ふくいくにおっているとか、お客様たちから、おうわさを承りました。どうして、そういう事になるのでしょう。私は、不思議でたまりません。ことしのお正月には、あなたは、あなたの画の最も熱心な支持者だという、あの有名な、岡井先生のところへ、御年始に、はじめて私を連れてまいりました。先生は、あんなに有名な大家たいかなのに、それでも、私たちの家よりも、お小さいくらいのお家に住まわれて居られました。あれで、本当だと思います。でっぷり太って居られて、てこでも動かない感じで、あぐらをかいて、そうして眼鏡越しに、じろりと私を見る、あの大きい眼も、本当に孤高なお方の眼でございました。私は、あなたの画を、はじめて父の会社の寒い応接室で見た時と同じ様に、こまかく、からだが震えてなりませんでした。先生は、実に単純な事ばかり、ちっともこだわらずに、おっしゃいます。私を見て、おう、いい奥さんだ、お武家ぶけそだちらしいぞ、と冗談をおっしゃったら、あなたは真面目まじめに、はあ、これの母が士族でして、などといかにも誇らしげに申しますので、私は冷汗を流しました。母が、なんで士族なものですか。父も、母も、ねっからの平民でございます。そのうちに、あなたは、人におだてられて、これの母は華族でして、等とおっしゃるようになるのではないでしょうか。そら恐しい事でございます。

引用のしかたが下手かもしれません。お許しください。

いかがでしょうか、太宰は福音書が物語る比喩の真髄を本当によく理解していたと感じます。イエス様がなぜ放蕩息子の帰還を良いこととして語ったのか、それは、大金を無駄に捨てたとしても、それによって真実を識ることは、出し惜しみをして真実と無縁でいることよりも優れているからです。金持ちの青年に、まずは全財産を貧しいものにやってしまえ、と言ったことも同じです。

太宰の優れた小品のひとつです。まだ読んでいない、というかたは、ぜひこの機会にお読み下さい。