キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

カドゥケウスの杖

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www.crossfit.com

いつもツイッタでお話相手になってくださっている方が、病院のロゴにはヘビがいるよね、というお話をしておられました。

僕は、救急車や病院にヘビのマークがあるのは、旧約聖書のエピソードから採用されているのだ、と思い込んでいましたので、民数記の次の箇所を書き込んでリプライしてしまったのですが、

民数記 21:4-9

民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。

その直後に、別の方が次のようにリプライされました。

カドゥケウスの杖ですね。

ja.m.wikipedia.org

これは、キリスト教に批判的であるはずの僕としたことがうっかりしていました。医療のシンボルにヘビのマークが用いられているのは、聖書のエピソードがオリジナルになっていると思いこんでいたからです。

聖書は古いもの、と思われているかも知れませんが、聖書(キリスト教でいう旧約聖書)が書物として現れるのは、せいぜい遡っても紀元前500年頃、イエス様が現れるよりもたかだか500年ほど以前にすぎません。NHKのテキストから説明をお借りしましょう。

textview.jp

旧約聖書」、つまり「ユダヤ教の聖書」はいくつもの文書(英語では「book」)の集合体であり、古代ユダヤ教が展開する中で、徐々に作られていった。いつ、どのように編纂されたのだろうか。千葉大学文学部教授の加藤隆(かとう・たかし)氏にうかがった。まとまりのあるものが最初に成立したのは前5世紀から前4世紀頃で、ユダヤ民族がペルシアの支配下にあった時期です。ユダヤ教民族宗教としてそれなりに本格的に成立したと言えるのは、「出エジプト」の出来事の時です。前13世紀のことです。この時から、聖書の最初の部分が生じるまで、8、900年の時間が流れています。ユダヤ教には長い間、「聖書」は存在しませんでした。ユダヤ教は聖書に基づいて存在しているのではない、ということになります。

 一方、ギリシャ神話の最も古い文献はホメーロスの「イーリアス」などが紀元前9世紀にまで遡ることができますので、ギリシャ神話にあるケーリュケイオン、あるいは、より正確にいうのであればアスクレーピオスの杖のお話を、民数記側がパロディとして持ち出しているのであろう、と推察できるでしょう。つまり、みんなの知っているあのギリシャ神話のヘビの杖の逸話は、実は出エジプトの故事に基づいているんだよ、というようなことを言いたかったのかもしれません。しかしほとんどの場合、パロディされる側はパロディする側より上位です。聖書の著者は、ギリシャ神話ヘブライ神話よりも上位であることを無意識に告白してしまっているわけです。

おそらく、聖書が著された当時、聖書を読んだ人たちは、文中に含まれる論理的な箇所も、情緒的な示唆も、おそらくは現代の読者よりも、もっと深く具体的に理解できたのでしょう。おわかりでしょうか、上で引用したNHKテキストの説明にある通り、聖書は、ユダヤ王国が瀕死の状態になって、初めて生まれてきた文書なのです。その実体は、極右勢力によるヘイトに満ちた聞き苦しい捨て台詞のようなものです。

俺の言っていることが一番正しいんだぞ、いいか、本当だぞ、神だぞ『カミ』だ。どうだ参ったか。

と言っているようなものです。普通なら、ああ、そうですか、とにっこり笑ってそっとしておくレベルなのですが、「それは大変」と操られてしまっているのがクリスチャンと呼ばれる人たちです。

くだんの親愛なるツイッターさんは、聖書の『自分にとって益になる部分をピックアップして(読んで)ます』とおっしゃいました。

僕は、尊敬を込めて『理想的な聖書理解だと思いますよ!』とお答えしておきました。