「ユダヤの神話 - Wikipedia」に興味深い説明があります。見てみましょう。
イスラエル人たちが神と結んだ契約については繰り返し語られているが、申命記のそれはアッシリアが属国に結ばせた宗主権条約文と類似の構造を持つことが指摘されている。つまり、大国と属国との契約関係を、イスラエル人は神と自分達との契約に置き換えたのである。
「律法」の一部は、宗主国であるアッシリアから課された、属国イスラエルに対する宗主権条約とよく似たものであった、と指摘されています。
これは、神のモデルが宗主国アッシリアという国家であった、ということなのか、そうとまでは言わなくとも、アッシリアとの間に交わした約束事を、固く記憶に留めるために、神との約束事(律法)に見立てて聖書に記した、ということなのか、いずれにせよ、事実(アッシリアとの条約)と建前(モーセに示された神の律法)には隔たりがあるように感じます。
話は少々変わりますが、聖書には「モレク」「バアル」などと言った異教の神々が登場します。
いずれも、カナンと周辺に流行していた宗教であって、イスラエル国内でもその教勢は盛んであった様子が聖書に記されています。
列王記上 16:29-32
ユダの王アサの第三十八年にオムリの子アハブがイスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年イスラエルを治めた。オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。
聖書は、これら異教の神を徹底的に否定しています。
レビ記 20:5
わたし自身、顔をその人とその家族とに向け、彼および彼に見ならってモレクを慕い、これと姦淫する者を、すべて民のうちから断つであろう。
異教に迎合するものを「姦淫」を行うもの、として批判し、断罪していますね。聖書の神はこれらの神々に比べると後発であって、新しい神、新興の宗教であったことを読み取ることができると思います。
不思議なことは、聖書に、ペルシアの宗教であるゾロアスター教とその神の名が一度も出てこないことです。唯一それらしきものが登場するのは、
christian-unabridged-dict.hatenablog.com
でも少し触れているのですが、ダニエル書の次の記述です。
ダニエル書 10:13
ペルシア王国の天使が21日間わたしに抵抗したが大天使長のひとり、ミカエルが助けにきてくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。
「ペルシア王国の天使」とはゾロアスター教の天使を指す、ということは疑いようのない事実と言えるでしょうが、他の箇所には一切出てきませんし、「ゾロアスター」という言葉も、「アフラ・マズダー」と言う名前さえも一切聖書には記されていません。「バアル」や「モレク」は出てくるのに、です。捕囚のころのゾロアスター教といえば花形宗教です。宗教の中の宗教とでも言うべきほどの隆盛を誇った宗教であって、今で言えばキリスト教や、イスラーム、仏教ほどの勢いがあったはずです。これが一切聖書では語られていないのですから不思議です。
この理由は、おそらく、ペルシアはイスラエルにとって捕囚から解放してくれた大恩ある偉大な新しい宗主国であって、悪口や讒言を書き記したくなかったから、ということなのでしょう。信長のときに、キリスト教は日本人を奴隷商品として海外に出荷したり、信徒にした日本人をけしかけて寺社に放火したり僧侶や神祇官を殺したり、結構酷いことを行っていますが、日本の教育がそれらを表立って批判しないのは、欧米諸国が日本が成長するためのお手本だったから遠慮したためです。これと同じで、宗教を含め、ペルシアの悪口を文書上であれ公に表現することは、外交上したくなかった、ということだったのでしょう。
しかし、その名は直接には聖書に記されていないとしても、ユダヤ教の習慣や思想の多くはゾロアスター教から影響を受けているように思われます。
- 天使と悪魔
- 洪水伝説
- 善悪二元的
- 終末的世界観
と言ったような事柄、それと、「贖う」という神と人間の契約関係ですね。イスラエルはペルシアによってバビロニアから買い取ってもらった、ということを、神と人間との間柄についての価値観に置き換えて考えているのではないでしょうか。「救済」についても同様に考えることができるでしょう。神(ペルシアという大国)はイスラエルを敵地から救い出して天国(祖国)へと導いてくれる存在である、というわけです。
さらに、キリスト教について考えてみれば、ゾロアスターの支流であるミトラス教の影響を受けているのですから、結果として、実質的にはゾロアスター教はキリスト教と名を変えて、今日なお隆盛である、と言えなくも無いように思います。