キリスト教の問題点について考える

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キリスト教と人種差別

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キリスト教は差別の元凶である、と言うことができるでしょう。キリスト教の神は、地上のあらゆる人の中からイスラエルだけを選び出して祝福し、他のすべての民を呪ったと、聖書にはそう記されています。

モーセ十戒にある「殺してはならない」とは「イスラエル人を殺してはならない」という意味であって、異教徒は含まれていないのです。

聖書から学んでみましょう。 民数記 31:7-10

彼らは主がモーセに命じられたようにミデアンびとと戦って、その男子をみな殺した。その殺した者のほかにまたミデアンの王五人を殺した。その名はエビ、レケム、ツル、フル、レバである。またベオルの子バラムをも、つるぎにかけて殺した。またイスラエルの人々はミデアンの女たちとその子供たちを捕虜にし、その家畜と、羊の群れと、貨財とをことごとく奪い取り、そのすまいのある町々と、その部落とを、ことごとく火で焼いた。 

神は、イスラエル人のために、非イスラエル人を用意された、と聖書には記されています。イスラエルは、非イスラエルを自らの用と為すために、それらの命を含めていつでも奪い取って構わないと理解しているわけです。聖書には、イスラエル人は優れた者であって、非イスラエル人は劣ったものであると記されています。

福音書にも差別思想が顕れています。 ルカによる福音 10:30-37

エスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

Wikiによるこの箇所の解説「善きサマリア人のたとえ」にはこの箇所に対するマーティン・ガードナーの解釈として、

ガードナーは著書『奇妙な論理〈1〉—だまされやすさの研究』(早川書房、ISBN 4150502722)において「イエスが愛されるべき真の「隣人」の例としてサマリア人を選んだのは、古代エルサレムではサマリア人は軽蔑された少数民族だったからだということを、悟る人はほとんどいない」(136頁)と指摘。(原著は1952年のアメリカ合衆国で出版されたものなので、その当時の読者に対し)「「サマリア人」のかわりに「黒人」をおいたときはじめて、あなたはこのたとえ話の意味を、当時キリストのことばをきいた人々が理解したとおりに、理解するはずである」(前掲、同)と述べた。

と記されていますが、私の考えでは、これは、サマリア人のような、人から軽蔑されている存在であっても、神の恵みを表す行動をすることができるのだから、お前たちはなおさらだ、ということを説明しているのであって、サマリア人に対する差別がいけないことであると言っているわけではありません。

キリスト教徒は、このような聖書の記述にみる精神性に従って、結果、非キリスト教徒である黒人を捕獲し、売買、使役したのだ、というわけです。旧約聖書におけるイスラエルと非イスラエル人の関係は、新約聖書キリスト教徒と非キリスト教徒に置き換えられました。キリスト教徒は、神はキリスト教徒を選んで祝福し、非キリスト教徒を蔑んで呪っている、と考えているのです。

上に貼ったキャッチアイ画像は、映画「ヘアスプレー」の一場面です。

「INTEGRATION NOT SEGREGATION」と書かれたプラカードを掲げている、ニッキー・ブロンスキーが演じる主人公の少女トレイシーが、ジョン・トラボルタが演じるママに、次のように歌います。

「今は1960年代よ。時代は変わったの。新しい未来が始まっているわ。」

それからさらに60年余りを数えているわけですが、トレイシーの予測通り、新しい未来が来ていると言っていいのでしょうか。

映画でも、トレイシーの友人の母が、常にロザリオを手放さない敬虔なキリスト教徒でガチガチの差別主義者として描かれていたのですが、キリスト教という元凶が絶えない限り、この世から差別は無くならないのでしょうね。