キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

キリスト教の理念は団体主義であること

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Eastern Orthodox Christian - 2/3 - Religious Holidays

 

福音書を見てみましょう。少し長くなりますが引用してみます。

ルカによる福音 14:16-27

そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。

僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。

大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。

持ち物、つまり我欲、仏教で言う煩悩を捨ててしまえない者は、いくら理屈を学んで理解したとしても、神の国に至ることはできない。イエス様は同じことを何度も何度も、喩えを変えて、別の表現で繰り返し教えています。

仏教は、極端に言えば仮説に向かっての試行錯誤、ということになるでしょうから、色々な方法、即ち宗派が存在することは、いわば当たり前のことなのでしょうが、キリスト教には結論があって、まして一神教なのですから、教派に分裂している現状は不自然なこと、と言うことができるでしょう。

正教徒は、プロテスタントの信者は一人乗りのボートで、カトリックの信者は豪華客船にのって神の国へ向かっている、と喩えます。そして正教徒自身は、既に神の国へ到達している、というわけです。正教会聖餐式での祈祷文には次のようなものがあります。

既に真の光を見,天の聖神を受け,正しき教を得て,分れざる聖三者を拝む,彼我等を救い給えばなり

生きながらにして「真の光」を見、仏教でいう「正見」を極めた、つまり神の姿を見、「天の聖神(聖霊)」を受けた、即ち神と同等になること、つまり神成、仏教でいう「成仏」を達成することができたのだと言っているわけです。これが正しいキリスト教の理解です。

そして、ルカ福音書の喩えを見る限り、個人的にではなく、社会として実践するべきなのだと教えている、と考えるべきでしょう。そして、イエス様自身が、理想的な社会は共産的な社会である、と教えています。

結局、「正しいキリスト教」はどの教会なのか、と言うと、団体的で共産的な教会、つまり「正教会」である、ということになるでしょう。カトリックには「教皇」という君主が君臨していますので共産的とは言えません。団体的とは、教会組織に社会的な役割、つまり「権威」が与えられている、という意味です。

記事「神になる」「神になる その2」では「人が神になる」の思想が、実際のキリスト教の目的だということをご紹介しましたが、これも、具体的な教説として保存しているのは、実際には正教会だけでしょう。

西洋風で、ちょっと見栄えのする新しい属性、つまり、アクセサリーとしてキリスト教を選んだのであれば、イエス様が捨ててしまうように教えている「持ち物」を一つ増やしただけの話になってしまうでしょう。

罪だの救いだの、洗礼や聖餐や律法や礼拝などといった迷信的な事柄は、どれも「人が神になる」ための方法の一つ、仏教でいう「方便」にすぎないのです。

本当のキリスト教徒になりたいのであれば、正教が一般的であって、地域も学校も職場にも正教の影響があり、寝ても覚めても正教的習慣に従う、そのような国に生まれ変わらない限り無理でしょうね。

共産主義とキリスト教

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www.buzzfeed.com

 

キリスト教の批判を続けていますと、「共産主義者」とか「唯物論者」と言われることがあります。僕は、共産主義者でも唯物論者でもないのですが、それらが悪いことは思いませんので、残念ながら、そう言われたところで、全くダメージは受けません。

共産主義を、対岸の敵のように考えているキリスト教徒は多いと思います。たしかに、中国や旧ソ連などでは共産党によって弾圧されました。しかし、キリスト教が目指す政治形態は、今日、社会主義共産主義と呼ばれるものなのですから、「共産主義者」と言っても、それは罵ることにはなりません。かれらは、「キリスト教を虐める『中国共産党』」という意味で「共産主義者」と言って人を罵っているつもりなのでしょうが、共産主義を罵ることは、自分自身が目指している理想を罵ることになってしまうでしょう。

太平洋戦争で、日本基督教団は軍や政府におもねって、戦勝を願うために伊勢神宮に参拝し、日本基督教団号 - Wikipedia という名前の戦闘機を献納したりしていますが、そのことを自白したと言っても、チャラになるわけではありません。

第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白 - 日本基督教団公式サイト

一貫して戦争反対を叫び続けた日本共産党のほうがよほど立派に思えます。

 

キリスト教が共産社会をめざしているとは初耳だ、と思う人もいるかと思いますが、カトリックや正教、一部のプロテスタント教会には「修道院」というものがあり、修道士や修道女が生活していますが、かれらの社会は共産社会です。イエス様の理想を、神の国の予型として実践しているわけです。

 

例えば次の箇所などに表されています。

マタイによる福音 19:29-30

おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。

共産主義社会においては、労働の多寡は評価されません。実際には、一定の成果を達成するところの能力は人によって差があり、早く達成するものと遅いものの差があるだろうが、神の国でも同様に個別には評価されない、ということを言っているのです。

しかし、そういう団体としての評価には納得できない、違和感を感じる、という人は、天の国にはふさわしくない。あなた方は「いっさいを捨てて、あなたに従いました」というが、実際には何ひとつ捨てていない。まず、そのこだわりと偏見を捨ててしまいなさい、と言っているわけです。

一切を捨てる、ということがいかに困難なことか、仏教では、56億年たったころにできるかもしれないね、といいます。無理ではないが、なかなか難しいだろう、ということです。キリスト教においても同様です。一人や二人達成できたとしても神の国は到来しない。世代を経て理解が浸透し、やがてすべての人に行き渡るには何世代も先のことだろう。早ければすぐにでも理解する人もいるが、おそければ何世代も先のことだ。だから辛抱強く待ちなさい、ということですね。

聖書から気に入ったところを切り出してネットに貼り付けて (・∀・)イイネ!! なんて言って「キリスト教」だと思ってるのはちょっとちがうでしょうね(笑)。

パレスチナとイスラエル

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www.afpbb.com

 

前回の記事「地の塩とは」を書いたあとで、聖書のこの箇所について、死海沿岸の塩の塊のことを知って説教されているのだろうか、と思い、検索してみました。

ざっと見た限りでは、知ってか知らずかはわかりませんが、塩の塊について言及しているものは見当たりません。「地の塩」の「地」は放置されている状態です。まあ、それはいいでしょう。教会の説教なんてそんなもんです。今更、もっと勉強して正しい説教をしろとは思いもしませんし、言うつもりもありません。

そんな中で、ちょっと目を引いた説教がありました。一部引用しましょう。

www.hanamaki-christ-church.jp

塩は、私たちにとってどういう存在でしょうか。私たちは料理をするときにはほとんど毎回塩を使います。塩は料理の味付けをするために欠かせないものです。また塩は食べ物の腐敗を防ぐために用いられます。昔のパレスチナにおいてもそれは同様で、塩は大切な生活必需品でした。

言葉尻を捕まえるような細かい話なのかもわかりませんが「昔のパレスチナ」とは何のことでしょうか。「パレスチナ」とは、西暦135年、ローマがユダヤ人の蜂起を鎮圧し、エルサレムへの立ち入りを禁止、イスラエルを廃止してパレスチナに改名したことに始まる名称で、パレスチナとは、旧約聖書にある「ペリシテ人」に因んだものです。

当時、「ペリシテ人」という民族が実在したわけではありませんが、聖書に記されているイスラエル人の仇敵の名前をイスラエルの土地に与えたのは、ローマのイスラエルに対する侮辱だったわけです。

聖書には、お前たちユダヤ人が侵攻してペリシテ人からカナンを奪い取ったと記されているではないか。今度はお前たちが出ていってペリシテに返してやるのだ。だから、この土地の名前は「パレスチナ(ペリシテのラテン語)」にすればよい、というわけです。以降、1948年にイスラエルが建国されるまで、イスラエルの全地域は「パレスチナ」だったわけです。

ローマによってイスラエルパレスチナという国に変更され、アラブ人に与えられて2000年近く経ったところへ、急に元へ戻すよ、と言われてもそう簡単には行きません。喧嘩になってしまいますよね。それが今の「パレスチナ問題」だというわけです。

話を元にもどしますが、ですので、イエス様の時代には「パレスチナ」という地域は存在しなかったのです。この牧師は「昔のパレスチナ」と言っていますが、そういう事情を知って、それでもそう言ったほうが信者にわかりやすいだろうからと判断してそう言ったのでしょうか。

おそらく、それは無駄な期待でしょう。何も知らず、なんとなく雰囲気だけで説教をしているのです。説教というのは聖書の解説です。聖書を解説するということは、神を解説するということであるはずです。それに、そんないい加減なやっつけ仕事でいいのでしょうか。しかし、この程度だというところがキリスト教の実際なのでしょうね。

地の塩とは

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www.deadsea.com

 

前記事「聖霊降臨とは - キリスト教大辞典」に、以下のご指摘がありました。

あなたも『聖書は(ヘブル的視点で)解読しないと本質は理解できない』というお立場なのですかね?

『注意深く何を言いたいのかを探りながら読み進めなければ、迷信と呪いの指南書に成り下がってしまいます。そうなってしまった例が、現在のキリスト教という宗教です。』の意味について。 

そして以下のようにお答えしたのですが、

違います。日本語で、です。日本語でも『注意深く』行きたいものです(笑)。

 

これ、早合点してお答えしてしまったようです。ヘブライ語に精通していなければ理解できないと考えているのか、と聞かれた、と早合点してしまいました。そうではなくて「ヘブル的視点」が必要と考えているのか、ということだったのですね。

改めてお答えしますと、ある程度は必要だろうと考えています。たとえば、次の福音書の箇所です。

マタイによる福音 5:13

あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。

 日本では、塩と言えば海水から精製したものであって、米屋とかスーパーなどで購入するもの、という理解になるでしょうが、死海周辺においては、上の写真のように塩の塊がゴロゴロあって、周辺の住民はいつでもこれを持って帰って、塩として使用することができたわけです。

このような状況がわからなければ、「あなたがたは、地の塩である」の真意を汲み取ることができないでしょう。塩のように、地面に転がっていて、必要なときにすぐに役にたつ、そのような、人にとってなくてはならない存在になりなさい、と言っているわけですが、写真のように塩が地面に落ちている状況を知らない限り、何のことなのかはっきりしないのでは無いかと思います。

また、「塩のききめがなくなったら」とは、塩がただの白い粉になってしまったら、という意味?ってことになりますよね。でも、塩が写真のような状況であることがわかれば、「なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」の意味を理解することができるでしょう。

残念ながら、ヘブル的視点が全く無い状態でも聖書は理解できるよ、とは言えないでしょうね。それほど「普遍的」な内容ではありません。そういう説明を省いて読み進めると、勝手な解釈が発生して、多くの場合、迷信につながっていると思います。

聖霊降臨とは

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myocn.net

 

使徒行伝に「聖霊降臨」と呼ばれるエピソードが記録されています。引用してみましょう。

使徒行伝2:1-15

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。
そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。
ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。

 

福音書、およびルカ福音書の続編である使徒行伝の記述は、イエス様の喩え話と、それを取り巻く喩え話、という二重の喩え話で構成されています。般若心経がお釈迦様の「方便」で構成されていることとよく似ています。何の前提を有しなくても、少しでも真実に近づくことができるように、そのように配慮されているのです。

しかし、喩え話にせよ、方便も同じですが、聞いている人を騙すことが目的ではありません。この聖霊降臨を記録した記述にも、「書いてあるその通りのことが起こったわけではないんだよ」という暴露が含まれています。次の記述です。

しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。

よく考えてみて下さい。エルサレムで、ユダヤ語を話せない外国人が、話の内容を理解することができた、というのであれば、本当か嘘かを知りたいのであれば、本人に確かめればすぐにわかることなのですから、それを「酔っているのだ」とあざ笑うことには違和感を感じます。「一同は聖霊に満たされ」と記されているのに否定するものもいたのです。

この出来事の本当の意味は、イエス様に関する説明を、それぞれの母国語に訳する通訳者の助けを借りて聞いて、その価値に共感して感動したのだ、ということを言っているわけです。重要なことは、かれらが外国人であって、異教の信者であったという点です。彼らはユダヤ教には興味がなかったが、イエス様の教えには感動したのだ、と言いたかったわけですね。だから、そんなのは酔っ払っているだけだ、と笑うものがいたのです。

聖書は嘘や迷信で満たされているわけではありません。しかし、注意深く何を言いたいのかを探りながら読み進めなければ、迷信と呪いの指南書に成り下がってしまいます。そうなってしまった例が、現在のキリスト教という宗教です。

 

※ ご指摘がありましたので追記しておきます。

一つ目

この辞典の解説の中に
『かれらが外国人であって、異教の信者であったという点です。彼らはユダヤ教には興味がなかったが・・』とありますが、ユダヤの祭りペンテコステにわざわざエルサレムに来ていたんですよ。
それと、使徒2:16-18にペテロがはっきりと酔える 違う、ヨエルの預言を引用してます。

僕は京都に住んでいるのですが、例えば毎年祇園祭にはたくさんの外国人が見物に訪れてくださいますが、彼らが祇園社牛頭天王に帰依するため、あるいは八坂神社の素戔嗚尊に参拝するために来られたとは、ちょっと考えにくいように思いますがいかがでしょうか。

酔える、じゃなくてヨエルの件についてはその通り、引用していますね。

 

二つ目

あなたも『聖書は(ヘブル的視点で)解読しないと本質は理解できない』というお立場なのですかね?

『注意深く何を言いたいのかを探りながら読み進めなければ、迷信と呪いの指南書に成り下がってしまいます。そうなってしまった例が、現在のキリスト教という宗教です。』の意味について。

 違います。日本語で、です。日本語でも『注意深く』行きたいものです(笑)。

 

三つ目

前回、あなたのツイートに反応したら、「この方は『反キリスト』の可能性があるから〜」という忠告を受けました。
あなたにとって『反キリスト』の称号が与えられるのは、最高の幸せと思い、報告します。
自分は、受洗しキリスト教の知識も豊富なあなたが、キリスト教を批判するのが好きなのです。

 たしかに大賛辞ですね。可能性も何も、僕は『反キリスト』です。その方によろしくお願いいたします(笑)。

カルトに注意

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polemicsreport.com

 

キリスト教にも「カルト」は存在します。「統一教会」「モルモン教」「ものみの塔」などが代表格ですが、「ヨハン早稲田キリスト教会」「摂理(キリスト教福音宣教会)」「KGK キリスト者学生会」なども社会問題を引き起こしている団体です。

これら以外では、単立の教会ですね。ただ一つだけの教会、または10程度の教会で教派を名乗るような教会、「~チャペル」だとか「ジーザス」なんとかが名前に付いてるのは特に要注意ですね。「チャペル」というのは、学校や病院などに付属する礼拝堂を意味する言葉です。そういう本来の意味を度外視して、なんとなくそれっぽいから、というような理由で法人名を決めているというだけで、いかに軽薄な団体かということをうかがい知ることができるでしょう、ということですよね。

また、単立の教会で、牧師が親子など身内ばかりというのはもう最悪でしょうね。親族経営の教会なんて、考えただけで身震いするほど劣悪です。そんなとこを選んで足を踏み入れるほうも、人間としてどうかと思うレベルでしょう。

 

当ブログの記事

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

なんかも参考にしてください。

 

キリスト教に興味を持って、どこかへ一度行ってみたいんだけど、というような場合で、無難なところはどこかと言えば、カトリック聖公会プロテスタントであれば日本基督教団に所属している教会、あとは改革派、日本キリスト教会バプテスト教会、あたりであれば、絶対にとは言いきれませんが、おそらくは大丈夫でしょう。

また、福音派に属する教会であればやめておきましょう。

福音派」によれば、

のいずれかに所属していれば福音派と見分けられるとのことです。

友達に誘われたんだけど、大丈夫かな、というような場合、上に書いた、「統一教会」「モルモン教」「ものみの塔」「ヨハン早稲田キリスト教会」「摂理(キリスト教福音宣教会)」「KGK キリスト者学生会」のいずれかであれば、絶対にやめておきましょう。危うきに近寄らないことは、君子としての常識です。

次のサイトの記述内容を参考にしてください。

 

それらでは無いんだけど、あんまり聞いたこと無いな、というような場合は、やめて置くのがもっとも賢明ですが、迷う場合は、その団体のサイトを確認して見れば割りとわかります。たいていの場合、牧師紹介のページがありますから見てみましょう。

たとえばこんな感じ

19xx年xx市生まれ。
xx歳で献身して牧師の道を志しxx歳で牧師の按手を受けて、xx夫人と共にxxxチャペル牧師として牧会活動を続けている。
国内はもとより、アメリカ・ヨーロッパ、アジア等で50カ国以上で活躍し、福音宣教に生涯を捧げている。

xxxチャペル創立牧師、xx宣教神学研究院名誉理事、xxx人福音宣教会会長。
19xx年 キリスト教指導者名誉博士
19xx年 名誉宣教学博士
19xx年 名誉神学博士

胡散臭い経歴の見本とも言えるようなものですよね。

どの都道府県のなんという教会のなんという牧師、または監督から按手を受けたのか、そのまえに、どの大学の学士、修士、博士を修めたのか、なぜ書けないのでしょうか。

この経歴では、教会員生活を経験せずに、いきなりxxチャペルを興していることになりますので、牧師というよりは実業家ですよね。金儲け以外の目的は無い、ということです。

海外で活躍した、とありますが、なんという団体でどのような活動をしたのかが不明です。

3つの名誉博士のタイトルがあるように書かれていますが、名誉博士とは、高等教育機関から授与される学位なのですから、その教育機関の名称を書かなければ何の意味もありません。

こういうばかばかしい経歴は、もう見ただけで、この団体の目的は詐欺だな、と見抜けなければなりません。そういう常識的な力をつけること、これは社会人としての義務だと考えるべきでしょう。

ニーチェ

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www.a-inquiry.com

 

しろうと哲学者トリス氏の生活と意見」というブログがありました。このブロガーはクリスチャンなのだそうです。その中に「【哲学】ニーチェのキリスト教批判:社会的弱者を憐れむのは間違いである」という記事がありましたので一部引用してみましょう。

ニーチェは19世紀ドイツの哲学者で、キリスト教を強く批判したことで知られている人。彼によれば、キリスト教とは社会的弱者が感染する病気のようなものだそうだ。この世で成功する見込みのない負け犬たちは、金持ちや権力者に対する怨念から、神や来世という幻想をつくりだした。自分たち弱者は天国に行き、地獄に落とされた金持ちや権力者が永遠の業火で焼かれるのを見下ろして楽しむのだ。悪党どもよ神の裁きを思い知れ、というわけである。ニーチェはこのようにして、クリスチャンの意識のうちに潜む「陰湿なよろこび」をえぐりだす。また彼は、貧しい人や病気に苦しむ人、弱い立場にある人を憐れむのは間違いであると主張した。強さこそ正義であると考えたのである。

ニーチェという人は本当に偉い人だったんだなと思います。彼の言うとおり、教会には病人や貧乏人などのマイノリティーで溢れかえっています。

『クリスチャンの意識のうちに潜む「陰湿なよろこび」をえぐりだす。また彼は、貧しい人や病気に苦しむ人、弱い立場にある人を憐れむのは間違いであると主張した。強さこそ正義であると考えたのである。』まさにその通りだと思います。キリスト教宗教改革によって、反社会的な集合に成り下がってしまったわけです。

僕は、弱いことは悪いことではないと感じますが、正しいことでは無いとも思います。聖書にも

エペソ書簡 6:10

最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。

とありますよね。弱いことは間違い、と言うのは言いすぎかもしれませんが、少なくとも正しい状態だとは言えないでしょう。そして、多くの弱者たちは、憐れんでほしいとは願っていないでしょう。必要なことは、弱い人がその状態でうまく生活していくためのインフラを充実させることです。そしてそれは社会全体が行うべきことです。宗教というのは、いわば「趣味」のようなものに過ぎないのですから、中途半端にしたり顔で口を挟むから話がややこしくなってしまうわけです。

さらに引用してみましょう。

信仰とは、命がけで守るものだ。「イエスなんてただの偽善者だよ」「神様なんているわけない」というようなただの悪口なら言わせておけばよい。しかし、まともな批判には真っ向から立ち向かうべきではないだろうか。キリスト教が今日あるのは、使徒パウロ使徒ヨハネアウグスティヌスやルターなど教養あるクリスチャンたちがわたしたちのために戦い、勝利してくれたからである。マタイ25章の「タラントンのたとえ」を持ち出すまでもなく、知性の賜物を授かっているクリスチャンは、それを眠らせておいてはならない。信仰が攻撃されたときは、反論を提出する義務を負っているとわたしは思う。

 ニーチェの思想は「まともな批判」だと認めざるを得ないようです。

そして次の発言を御覧ください。

「神は死んだ」と主張したニーチェは、発狂して死んだ。ニーチェを崇拝し、社会的弱者を大量虐殺したヒトラーは自殺した。わたしたちクリスチャンは、この事実から何かを学び取ることができるのではないか。

キリスト教を批判すると発狂して死んでしまうんだぞ、と言いたいのでしょうか。とても聡明とは言えない、聞き苦しい発言だと思います。

キリスト教徒に発狂する人は一人もいないのでしょうか。それに、『社会的弱者を大量虐殺したヒトラーは自殺した。』といいますが、ヒトラーは教会の協力があったから社会的弱者を大量虐殺できたのですよ。ご存知ないようですね。 ライヒスコンコルダート - Wikipedia をお読み下さい。

ナチスとバチカン も参考になるでしょう。