キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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共産主義とキリスト教

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キリスト教の批判を続けていますと、「共産主義者」とか「唯物論者」と言われることがあります。僕は、共産主義者でも唯物論者でもないのですが、それらが悪いことは思いませんので、残念ながら、そう言われたところで、全くダメージは受けません。

共産主義を、対岸の敵のように考えているキリスト教徒は多いと思います。たしかに、中国や旧ソ連などでは共産党によって弾圧されました。しかし、キリスト教が目指す政治形態は、今日、社会主義共産主義と呼ばれるものなのですから、「共産主義者」と言っても、それは罵ることにはなりません。かれらは、「キリスト教を虐める『中国共産党』」という意味で「共産主義者」と言って人を罵っているつもりなのでしょうが、共産主義を罵ることは、自分自身が目指している理想を罵ることになってしまうでしょう。

太平洋戦争で、日本基督教団は軍や政府におもねって、戦勝を願うために伊勢神宮に参拝し、日本基督教団号 - Wikipedia という名前の戦闘機を献納したりしていますが、そのことを自白したと言っても、チャラになるわけではありません。

第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白 - 日本基督教団公式サイト

一貫して戦争反対を叫び続けた日本共産党のほうがよほど立派に思えます。

 

キリスト教が共産社会をめざしているとは初耳だ、と思う人もいるかと思いますが、カトリックや正教、一部のプロテスタント教会には「修道院」というものがあり、修道士や修道女が生活していますが、かれらの社会は共産社会です。イエス様の理想を、神の国の予型として実践しているわけです。

 

例えば次の箇所などに表されています。

マタイによる福音 19:29-30

おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。

共産主義社会においては、労働の多寡は評価されません。実際には、一定の成果を達成するところの能力は人によって差があり、早く達成するものと遅いものの差があるだろうが、神の国でも同様に個別には評価されない、ということを言っているのです。

しかし、そういう団体としての評価には納得できない、違和感を感じる、という人は、天の国にはふさわしくない。あなた方は「いっさいを捨てて、あなたに従いました」というが、実際には何ひとつ捨てていない。まず、そのこだわりと偏見を捨ててしまいなさい、と言っているわけです。

一切を捨てる、ということがいかに困難なことか、仏教では、56億年たったころにできるかもしれないね、といいます。無理ではないが、なかなか難しいだろう、ということです。キリスト教においても同様です。一人や二人達成できたとしても神の国は到来しない。世代を経て理解が浸透し、やがてすべての人に行き渡るには何世代も先のことだろう。早ければすぐにでも理解する人もいるが、おそければ何世代も先のことだ。だから辛抱強く待ちなさい、ということですね。

聖書から気に入ったところを切り出してネットに貼り付けて (・∀・)イイネ!! なんて言って「キリスト教」だと思ってるのはちょっとちがうでしょうね(笑)。