「しろうと哲学者トリス氏の生活と意見」というブログがありました。このブロガーはクリスチャンなのだそうです。その中に「【哲学】ニーチェのキリスト教批判:社会的弱者を憐れむのは間違いである」という記事がありましたので一部引用してみましょう。
ニーチェは19世紀ドイツの哲学者で、キリスト教を強く批判したことで知られている人。彼によれば、キリスト教とは社会的弱者が感染する病気のようなものだそうだ。この世で成功する見込みのない負け犬たちは、金持ちや権力者に対する怨念から、神や来世という幻想をつくりだした。自分たち弱者は天国に行き、地獄に落とされた金持ちや権力者が永遠の業火で焼かれるのを見下ろして楽しむのだ。悪党どもよ神の裁きを思い知れ、というわけである。ニーチェはこのようにして、クリスチャンの意識のうちに潜む「陰湿なよろこび」をえぐりだす。また彼は、貧しい人や病気に苦しむ人、弱い立場にある人を憐れむのは間違いであると主張した。強さこそ正義であると考えたのである。
ニーチェという人は本当に偉い人だったんだなと思います。彼の言うとおり、教会には病人や貧乏人などのマイノリティーで溢れかえっています。
『クリスチャンの意識のうちに潜む「陰湿なよろこび」をえぐりだす。また彼は、貧しい人や病気に苦しむ人、弱い立場にある人を憐れむのは間違いであると主張した。強さこそ正義であると考えたのである。』まさにその通りだと思います。キリスト教は宗教改革によって、反社会的な集合に成り下がってしまったわけです。
僕は、弱いことは悪いことではないと感じますが、正しいことでは無いとも思います。聖書にも
エペソ書簡 6:10
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
とありますよね。弱いことは間違い、と言うのは言いすぎかもしれませんが、少なくとも正しい状態だとは言えないでしょう。そして、多くの弱者たちは、憐れんでほしいとは願っていないでしょう。必要なことは、弱い人がその状態でうまく生活していくためのインフラを充実させることです。そしてそれは社会全体が行うべきことです。宗教というのは、いわば「趣味」のようなものに過ぎないのですから、中途半端にしたり顔で口を挟むから話がややこしくなってしまうわけです。
さらに引用してみましょう。
信仰とは、命がけで守るものだ。「イエスなんてただの偽善者だよ」「神様なんているわけない」というようなただの悪口なら言わせておけばよい。しかし、まともな批判には真っ向から立ち向かうべきではないだろうか。キリスト教が今日あるのは、使徒パウロや使徒ヨハネ、アウグスティヌスやルターなど教養あるクリスチャンたちがわたしたちのために戦い、勝利してくれたからである。マタイ25章の「タラントンのたとえ」を持ち出すまでもなく、知性の賜物を授かっているクリスチャンは、それを眠らせておいてはならない。信仰が攻撃されたときは、反論を提出する義務を負っているとわたしは思う。
ニーチェの思想は「まともな批判」だと認めざるを得ないようです。
そして次の発言を御覧ください。
「神は死んだ」と主張したニーチェは、発狂して死んだ。ニーチェを崇拝し、社会的弱者を大量虐殺したヒトラーは自殺した。わたしたちクリスチャンは、この事実から何かを学び取ることができるのではないか。
キリスト教を批判すると発狂して死んでしまうんだぞ、と言いたいのでしょうか。とても聡明とは言えない、聞き苦しい発言だと思います。
キリスト教徒に発狂する人は一人もいないのでしょうか。それに、『社会的弱者を大量虐殺したヒトラーは自殺した。』といいますが、ヒトラーは教会の協力があったから社会的弱者を大量虐殺できたのですよ。ご存知ないようですね。 ライヒスコンコルダート - Wikipedia をお読み下さい。
ナチスとバチカン も参考になるでしょう。