キリスト教の問題点について考える

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聖霊降臨とは

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使徒行伝に「聖霊降臨」と呼ばれるエピソードが記録されています。引用してみましょう。

使徒行伝2:1-15

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。
そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。
ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。

 

福音書、およびルカ福音書の続編である使徒行伝の記述は、イエス様の喩え話と、それを取り巻く喩え話、という二重の喩え話で構成されています。般若心経がお釈迦様の「方便」で構成されていることとよく似ています。何の前提を有しなくても、少しでも真実に近づくことができるように、そのように配慮されているのです。

しかし、喩え話にせよ、方便も同じですが、聞いている人を騙すことが目的ではありません。この聖霊降臨を記録した記述にも、「書いてあるその通りのことが起こったわけではないんだよ」という暴露が含まれています。次の記述です。

しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。

よく考えてみて下さい。エルサレムで、ユダヤ語を話せない外国人が、話の内容を理解することができた、というのであれば、本当か嘘かを知りたいのであれば、本人に確かめればすぐにわかることなのですから、それを「酔っているのだ」とあざ笑うことには違和感を感じます。「一同は聖霊に満たされ」と記されているのに否定するものもいたのです。

この出来事の本当の意味は、イエス様に関する説明を、それぞれの母国語に訳する通訳者の助けを借りて聞いて、その価値に共感して感動したのだ、ということを言っているわけです。重要なことは、かれらが外国人であって、異教の信者であったという点です。彼らはユダヤ教には興味がなかったが、イエス様の教えには感動したのだ、と言いたかったわけですね。だから、そんなのは酔っ払っているだけだ、と笑うものがいたのです。

聖書は嘘や迷信で満たされているわけではありません。しかし、注意深く何を言いたいのかを探りながら読み進めなければ、迷信と呪いの指南書に成り下がってしまいます。そうなってしまった例が、現在のキリスト教という宗教です。

 

※ ご指摘がありましたので追記しておきます。

一つ目

この辞典の解説の中に
『かれらが外国人であって、異教の信者であったという点です。彼らはユダヤ教には興味がなかったが・・』とありますが、ユダヤの祭りペンテコステにわざわざエルサレムに来ていたんですよ。
それと、使徒2:16-18にペテロがはっきりと酔える 違う、ヨエルの預言を引用してます。

僕は京都に住んでいるのですが、例えば毎年祇園祭にはたくさんの外国人が見物に訪れてくださいますが、彼らが祇園社牛頭天王に帰依するため、あるいは八坂神社の素戔嗚尊に参拝するために来られたとは、ちょっと考えにくいように思いますがいかがでしょうか。

酔える、じゃなくてヨエルの件についてはその通り、引用していますね。

 

二つ目

あなたも『聖書は(ヘブル的視点で)解読しないと本質は理解できない』というお立場なのですかね?

『注意深く何を言いたいのかを探りながら読み進めなければ、迷信と呪いの指南書に成り下がってしまいます。そうなってしまった例が、現在のキリスト教という宗教です。』の意味について。

 違います。日本語で、です。日本語でも『注意深く』行きたいものです(笑)。

 

三つ目

前回、あなたのツイートに反応したら、「この方は『反キリスト』の可能性があるから〜」という忠告を受けました。
あなたにとって『反キリスト』の称号が与えられるのは、最高の幸せと思い、報告します。
自分は、受洗しキリスト教の知識も豊富なあなたが、キリスト教を批判するのが好きなのです。

 たしかに大賛辞ですね。可能性も何も、僕は『反キリスト』です。その方によろしくお願いいたします(笑)。