キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

キリスト教の理念は団体主義であること

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Eastern Orthodox Christian - 2/3 - Religious Holidays

 

福音書を見てみましょう。少し長くなりますが引用してみます。

ルカによる福音 14:16-27

そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。

僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。

大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。

持ち物、つまり我欲、仏教で言う煩悩を捨ててしまえない者は、いくら理屈を学んで理解したとしても、神の国に至ることはできない。イエス様は同じことを何度も何度も、喩えを変えて、別の表現で繰り返し教えています。

仏教は、極端に言えば仮説に向かっての試行錯誤、ということになるでしょうから、色々な方法、即ち宗派が存在することは、いわば当たり前のことなのでしょうが、キリスト教には結論があって、まして一神教なのですから、教派に分裂している現状は不自然なこと、と言うことができるでしょう。

正教徒は、プロテスタントの信者は一人乗りのボートで、カトリックの信者は豪華客船にのって神の国へ向かっている、と喩えます。そして正教徒自身は、既に神の国へ到達している、というわけです。正教会聖餐式での祈祷文には次のようなものがあります。

既に真の光を見,天の聖神を受け,正しき教を得て,分れざる聖三者を拝む,彼我等を救い給えばなり

生きながらにして「真の光」を見、仏教でいう「正見」を極めた、つまり神の姿を見、「天の聖神(聖霊)」を受けた、即ち神と同等になること、つまり神成、仏教でいう「成仏」を達成することができたのだと言っているわけです。これが正しいキリスト教の理解です。

そして、ルカ福音書の喩えを見る限り、個人的にではなく、社会として実践するべきなのだと教えている、と考えるべきでしょう。そして、イエス様自身が、理想的な社会は共産的な社会である、と教えています。

結局、「正しいキリスト教」はどの教会なのか、と言うと、団体的で共産的な教会、つまり「正教会」である、ということになるでしょう。カトリックには「教皇」という君主が君臨していますので共産的とは言えません。団体的とは、教会組織に社会的な役割、つまり「権威」が与えられている、という意味です。

記事「神になる」「神になる その2」では「人が神になる」の思想が、実際のキリスト教の目的だということをご紹介しましたが、これも、具体的な教説として保存しているのは、実際には正教会だけでしょう。

西洋風で、ちょっと見栄えのする新しい属性、つまり、アクセサリーとしてキリスト教を選んだのであれば、イエス様が捨ててしまうように教えている「持ち物」を一つ増やしただけの話になってしまうでしょう。

罪だの救いだの、洗礼や聖餐や律法や礼拝などといった迷信的な事柄は、どれも「人が神になる」ための方法の一つ、仏教でいう「方便」にすぎないのです。

本当のキリスト教徒になりたいのであれば、正教が一般的であって、地域も学校も職場にも正教の影響があり、寝ても覚めても正教的習慣に従う、そのような国に生まれ変わらない限り無理でしょうね。