「神になる」と聞くと、反キリスト的、異端的、というイメージになるのではないかと思いますが、実はこれ、「神になる」という思想は、正式なキリスト教の基本的で最終的な目的です。
「神になる」という言葉からは、神のような能力を得て、魔法のような奇跡の業を行えるようになる、というようなイメージが思い起こされるのではないかと思うのですが、そうではなくて、神と全く等しい価値観を得た状態になることを、「神になる」と言っているのです。
イエス様は福音書でそうしなさいと教えています。見てみましょう。
マタイによる福音 5:48
あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
キリスト教で「完全な者」とは神以外にあり得ません。しかし、キリストであるイエス様は「あなたがたも完全な者となりなさい」と言って、人も神になり得るのだと教えています。
そして、そのためにまず何をすればよいかを教えています。
マタイによる福音書 19:21
「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
このブログをご訪問下さるかたは、キリスト教への関心が深いかただと思いますので、この解釈をご紹介しましたが、この本来の意味をきちんと理解出来ている教会、また教役者はそうそういないと思います。いても、説明して正しい理解を促せなかった場合、良くない結果を生じてしまう危険が目に見えていますのでなかなか言わないのです。
罪だの、契約だのと、回りくどく色々な説明をしていますが、また、天国だの地獄だの、多神教を吸収して百花繚乱のようになってしまっていますが、要するに言いたいことは、「神になれ」というただひとつのことだったわけです。
仏教ではこれを「菩提」と表現し、誤解を恐れずに、人はだれでも極楽に往生できる、つまり、如来と同じ存在になることができる、と教えています。極楽とは、正確に言えば死後の世界ではなくて人自身の状態のことを言います。そして、すべての煩悩(福音書でいう「持ち物」)を捨てて涅槃(すべてを知り尽くした状態)を体現したかのように見える「死」を指して「成仏」などというわけです。宗教の根幹はどれも似たようなものだということでしょうね。
死後の刑罰を恐れるのではなくて、神(理想の状態)に近づこうと指導するのであれば、キリスト教という教えにも少しは見るべきところがあるかもしれません。しかし、残念なことに、天国だの地獄だの、許しだの償いだのといった迷信的な部分にばかり囚われていて、人間がいかに迷信好きかということがわかるばかりです。そのほうが簡単ですからね(笑)。