キリスト教の問題点について考える

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キリスト教のチューリップとは

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キリスト教のチューリップ」をごぞんじでしょうか。ウィキペディアの「ドルト信仰基準」をみてみましょう。

ドルト信仰基準(ドルトしんこうきじゅん)あるいはドルト信条(ドルトしんじょう)は、1618年ドルトレヒト会議で決められた信仰基準。

オランダ改革派出身のヤーコブス・アルミニウスの死後、1610年に彼の支持者たちが、自分たちの信条を定めた『建白書』(Remonstrantie)を提出し、アルミニウス主義の認可を政府に求めた。これが元で1618年にドルトレヒト会議が開かれ、その際に信仰基準が決められた。この会議では、アルミニウス主義は公式に認められなかった。その基準は、改革派教会長老派教会といったカルヴァン主義の特徴を5つの特質として明確にしたことで神学史上大きな意味がある。

  1. 全的堕落(Total depravity) - 堕落後の人間はすべて全的に腐敗しており、自らの意志で神に仕えることを選び取れない。
  2. 無条件的選び(Unconditional election) - は無条件に特定の人間を救いに、特定の人間を破滅に選んでいる(予定説)。
  3. 制限的・限定的贖罪(Limited atonement) - キリストの贖いは、救いに選ばれた者だけのためにある。
  4. 不可抵抗的恩恵(Irresistible grace) - 予定された人間は、神の恵みを拒否することができない。
  5. 聖徒の堅忍(Perseverance of the saints) - いったん予定された人間は、最後まで堅く立って耐え忍び、必ず救われる。

この頭文字をとって「TULIP」(チューリップ)の神学と呼ばれる。「カルヴィニズムの五箇条」として、カルヴァン主義の中心的な教理として扱われることがあるが、このドルト信仰基準はあくまでアルミニウス主義陣営の信条に対抗してつくられたものである。

とあります。改革派成立当初からあった、改革派の信条、と思っている人が多いように思いますが、ウィキの説明にある通り、アルミニウス主義の台頭に触発されて開催された、「ドルト会議」において決定された事柄である、というところが実際です。

このような考え(全的堕落)があるので、福音派など、カルバン主義に依拠する教会は、聖書は人が著したものではなく、神が人に憑依して直接著したものだと主張するわけです。全的に堕落した人間には聖書を記述する能力がないはずだと理解しているからです。

これに対してアルミニウス主義は何を主張しているのでしょうか、ウィキペディアの「アルミニウス主義」を見てみましょう。

アルミニウス主義アルミニウスしゅぎ)は、オランダ改革派出身のヤーコブス・アールミニウス(ハルメンセン)カルヴァン主義神学予定説に疑問を持ったことから生まれた、中知ミドル・ノウレッヂ主義神学も含むカルビニスム修正主義神学カルヴァン主義傍流神学である。

論争途中で亡くなったアルミニウスの死後、1610年に、彼の支持者たちが、ウーテンボハールトを中心に自分たちの信条を定めた『建白書』(Remonstrantie)を提出、アルミニウス主義の認可を政府に求めたことから、レモンストランスと呼ばれた。この問題を解決するために1618年ドルトレヒト会議がもたれたが、この会議では、アルミニウス主義は、公式に認められなかった。現在では、メソジストホーリネスなどがこの立場を取っている。

とあります。主張の内容はさまざまあるようですが、最も印象的で、おそらくは保守的なカルバン主義者たちが反発したであろうと思われる箇所は、

カルヴァン主義同様、アルミニウスも「全的堕落」「全的無能力」の教理を受け入れた。ただし、この世に生を受けた人で、全的堕落の状態のままで放置されている者は一人もいない、キリストの十字架による贖いの恵みによって、少なくとも神の呼び掛け・救いへの招きに応答する能力が恢復されたと考えたのである。これに対し、カルヴァン主義は、「全的堕落」をこのような能力すらない堕落した状態であると考える。

であって、「条件的選び」として、

神はあらかじめだれがキリストを信じるか見ており、その予知に基づいて信じる者を天国へ選ぶことを決める。救いは信仰に条件づけられているので、万人救済主義ユニバーサリズム)ではなく、救いの備えが、万人のものであるとする。

と定義しているところがそれであろうと思われます。

しかし双方とも、そのように主張するのであれば、結論として「教会へ行く必要性が何も無い」ということになってしまいます。

人類が全的に堕落していて回復の可能性がなく、神の決定を変更することもできないというのであれば、何のために教会へ行くのでしょうか。また、万民に救いの備えがあるというのであれば、教会へ行く必要は失われるはずです。つまり、そういうのであれば、教会も不必要になった。だから、教会組織は解散しよう、と言って実際に解散してこそそれらの主義主張は、社会において完全に実践されることになるはずです。

なぜそうはならないのでしょうか。それはつまり、人間が宗教に求めるものの究極の実態は「迷信」だからです。カトリックや正教のように、誰でも教会の言う通りにしていれば救われて天国で神と相まみえることができますよ、と考えていたいから、頑張って献金をするのですよ。