キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

大審問官

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epicworldhistory.blogspot.com

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」という作品に「大審問官」というサブタイトルのある一節があります。

主人公アレクセイの兄、イワンが、自作の劇詩をアレクセイに読み聞かせる場面です。大変に長い劇詩なのですが、冒頭と最後の部分を引用してみましょう。

それにしても、なぜおまえはわしらの邪魔をしに来たのだ? おまえはわしらの邪魔をしに来たのだ。それはおまえにもわかっておるはずだ。しかし、おまえが明日どんなことが起こるか知っておるかな? わしはおまえが何者かは知らぬ、また知りたくもない。おまえは本当のキリストか、それとも贋物(にせもの)か、そんなことはどうでもよい、とにかく、明日はおまえを裁判して、邪教徒の極悪人として火烙(ひあぶ)りにしてしまうのだ。すると今日おまえの足を接吻した民衆が、明日は、わしがちょっと合い図をしさえすれば、おまえを焼く火の中へ、われ勝ちに炭を掻(か)きこむことだろう、おまえはそれを知っておるのか? おそらく知っていられるであろうな』と彼は片時も囚人(めしうど)から眼を離そうとしないで、考えこむような風に、こう言い足したのだ

<中略>

くり返して言うが、明日はおまえもその従順な羊の群れを見るだろう。彼らは、わしがちょっと手で合い図をすれば、われがちにおまえを焼く炬火へ炭を掻(か)きこむことだろうよ。それはつまり、おまえがわれわれの邪魔をしに来たからだ。実際、もし誰か、最もわれわれの炬火に焼かれるにふさわしい者があるとすれば、それはまさしくおまえだ。明日はおまえを焼き殺してくれるぞ。Dixi(これでおしまいだ)

カトリック教会の異端審問官」なる人物をして語らしめてはいるものの、これはお察しの通り、すべてのキリスト教徒の内心の暴露に他なりません。

福音書には、ついて来たければ、今すぐすべての持ち物を捨てなさい、と書いてあることも、教えを述べ伝えるものは無一文で着替えも持たず、物乞いをしながら行きなさい、と書いてあることもよく知ってはいるものの、実際には誰一人そうしようとはしません。そんなことはしたくないからです。

信仰とは、カトリックプロテスタントが、あるいは旧式ミサ派と新式ミサ派が、または創造論派と進化論派が、社会派と教会派が、中絶反対派と賛成派が対立して勝敗を極めることである、と思い込んでいる者たちにとって、突然キリストが目の前に現れて、

「私が言ったことはそんなことでは無いよ。そんなことはどうでもいいんだよ」

と言われてしまうことは都合の悪いことです。だから、そう口走ろうとするキリストが現れるたびに、彼を捉えては、この大審問官のように、燃え盛る炭火に投げ込んで焼き殺しているのです。

ガダラ人と悪霊と豚

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htrinityportland.org

マタイによる福音書の八章に、ガリラヤ湖の向こう(東)側、ガダラ人の地におけるエピソードが記されています。過去記事「ガダラ人の地」では、このエピソードについて、後にイエス様が捕らえられる原因の一つとなった、イエス様自身の短絡的な動機による無分別な行動だったのではないか、と書いたのですが、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

それでは、この箇所の福音メッセージとしての意味としてはどのようなものがあるのでしょうか。再度記事を読んでみましょう。三つの共観福音書すべてに同じエピソードが記されていますが、マタイから引用します。

マタイによる福音書 8:28-34

それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。

 「おびただしい豚の群れが飼ってあった」という説明から、この「ガダラ人の地」は異教徒の居住区域であったことがわかります。また、この少し前、マタイ 8:22 のイエス様の発言

エスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。

から、この悪霊につかれたふたりの者とは、神がかりになって、神や死者の霊を装い、礼金をだまし取っていた詐欺師だったのだろうと想像することができます。おそらくそのようなことはこれらの地方の宗教的慣習であって、二人の男は宗教祭司だったのでしょう。

豚が水の中で死んでしまった、という記述からは、イエス様の指摘によって、ふたりの神がかりの嘘が顕になり、その地方の民衆が長年にわたってそれらの嘘に振り回され続けていたのだ、という事実が明らかになった、という意味を読み取ることができるでしょう。

そして、町中の人々がイエスに会って、この地方から出ていってくれと頼んだ、ということの理由は、我々は、彼らの宗教的行為が真実では無いことも、欺瞞に満ちていることも承知しているが、それでいいと思っている。たしかに、あなたの言っていることは正しいと思うし、そのようにすべきだろうとも理解できるのだが、少なくとも、我々は変化を求めていない。大きな問題がないのであれば、現状を維持できればそれで十分だと考えている。今はこの地方にあなたは必要ない。ということだったのではないでしょうか。

つまり、この「イエス様を拒否する町中のもの」は、現代のキリスト教徒の、「墓場から出てきた乱暴者の詐欺師」は神父や牧師の予型として福音書に記されているのだ、ということなのです。

 

バイデン大統領に「破門状」

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jbpress.ismedia.jp

「バイデン大統領に「破門状」突きつけた全米カトリック教団」という記事がありました。少し見てみましょう。

 米国はキリスト教プロテスタントの国と思われがちだが、全人口の22%(7041万人)はカトリック教徒が占めている。

 その10人に1人は共和党員。キリスト教プロテスタント原理主義者(エバンジェリカルズ)とともに2020年の大統領選挙ではドナルド・トランプ氏を当選させた原動力だった。

 そのカトリック教団全米司教会議が6月16日、カトリック教徒としては史上2番目のジョー・バイデン大統領に事実上の「破門状」を突き付けた。

カトリック教徒の初代大統領はジョン・F・ケネディ

 

 同会議はカトリック教徒にとっては最重要の「聖体の秘跡」(Communion)を施さない、との決議草案を賛成多数で採択したのだ。

 正式の決定は11月に行われる会議で決まるが、「今回の決定が覆される可能性は小さい」(カトリック教会関係者)。

 理由はバイデン氏が、カトリック教徒しては越えてはならない人工妊娠中絶問題に寛大なスタンスをとり続けてきたことだ。

 これは「戒律に反する」もので、日曜礼拝をするのはいいが、「聖体の秘跡」には参加させないというのである。

日本の宗教団体が、これほど政治問題に介入したら大変なことになると思います。仮に、カトリック信徒である麻生さんが、教会の方針に反するような発言をしたからといって、その理由で、日本のカトリック教会が麻生さんを破門にする、というようなことはおそらく無いのではないかと思います。アメリカという国は、政教分離といいながら宗教に政治が振り回されているようで、ちょっと変な国ですよね。

死刑の問題についてもそうなのですが、この中絶の問題も、それを行う必要がある、という認識が社会には存在する、という現実をどのようにすればいいのか、という視点が失われているのではないかと思います。

実の父親に、あるいは薬物中毒者によって強姦されて妊娠してしまったような場合、そのような子であっても、生んで育てよ、と命じるのは社会として正しいのでしょうか、しかしこの場合はそうしろと言っていることになります。

しかし、何が何でも絶対に中絶してはならない、というのであれば、そのような子を引き取って養育するような行政システムについて考えるべきなのではないでしょうか。

そもそも、中絶を禁止する宗教的理由とは何なのでしょうか。胎児が地獄に堕ちるからでしょうか、神が実在するのであれば、生まれずして摘み取られてしまった胎児を憐れまないはずはないでしょう。もし生まれたなら受けたであろう数々の苦難を免れて、神の懐に抱かれて楽園に安らいでいるはずだと言えるでしょう。

では、医師か妊婦が殺人犯になってしまうことを防ぐためにでしょうか。ちょっとそうとは思えませんよね。結局は、教会の意向に逆らうような真似をするな、と言っているだけのことなのでしょう。しかし、カトリック信徒にとって聖体を拝領することは、生きていくために必要不可欠なことであるはずです。ですので、それを禁ずるということは、その人が死んでも別に構わない、と判断した、ということになると思うのですが、その点はどうなのでしょうかね。

もう少し引用してみましょう。

 カトリック教会と言えば、司祭たちによる少年に対する性的暴行が絶えない。

 礼拝をはじめ教会の儀式には神父をアシストをする少年たちも欠かせない。そこで神父の地位を利用したセクハラ行為が横行している。

 米主要メディアのある宗教担当記者はこうコメントする。

カトリック教会の最高機関が自分たちのことは棚に上げて、と世俗的には考えられるのだが、人工妊娠中絶問題はカトリックの信仰ドクトリンだ」

信仰ドクトリンというのであれば、強姦は十戒に反する行為です。その結果生じる生命を、教会はどのように宗教的な意味づけをするつもりなのでしょうか。洗礼台帳の父親の欄には何と記入させるのでしょうか。

創世記に見る進化の痕跡

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www.learnreligions.com

しばしば話題に取り上げられることですので、ご存じの方もおられるのではないかと思いますが、創世記の冒頭で、神が人間を創造した、ということが二回説明されています。見てみましょう。まず、一回目です。

創世記 1:26-28

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 

 次に二回目の創造は、

創世記 2:7-8

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。 

常識的に考えれば、これは、創世記が二つの異なる伝承神話を底本に持つことの痕跡であって、編者がなるべくそれらのオリジナル性を損なわないように、と気遣いながら創世記を作成した、ということになるでしょう。

しかるに、原理主義者たちは、聖書を、事実の記録であるとしか理解しようとしません。しかしそうであるのであれば、なぜ創世記で神は人間を二回創造した、と記述されているのでしょうか。

僕であれば次のように考えるでしょう。即ち、一回めの創造では、人間はまだ不完全な状態であったのです。そして、二回目の創造によって「完全な人間」となった、つまり、「進化」したというわけです。進化は神の手によってなされた、ということであって、現代の科学が示す「進化論」という仮説は、見事に聖書と一致する、と評価することができる、ということになるのですが、あくまで、聖書を原理主義者的に、偏った読み方をした場合にだけ、そのような理解を導き出す事ができるわけです。

しかし、実際には、原理主義者たちは、進化論とは無神論者の考え方である、と決めつけて、神が進化という手段を用いて創造の業を行った、という可能性については考えることができません。

聖書には神が行った事実がそのまま記録されている、というのであれば、なぜ、人間が二度創造されているのでしょうか。また、ついでに言えば、太陽より先に地球が創造されていますが、そんなことがあり得るのでしょうか。ひょっとして原理主義者の皆さんの脳内は天動説のままなんでしょうか(笑)。

前記事、「キリスト教と進化論」に、原理主義者と思われる人物によって次のようなコメントが書き込まれました。

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

抜粋します。

自分が進化論で疑問に思うのは良心の存在です。
進化論が本当なら例えば人種差別は悪ではなくなります。
この世で正しいものの一つは他民族から臓器
を抜き取ったりする中国共産党でもおかしくなくなると思います。
自称クリスチャンだったヒットラーの行いも悪ではなくなってしまいます。

原理主義者だから進化論が大嫌い、という気持ちはよくわかるのですが、進化論が本当であれば人種差別が悪で無くなる、と言うところの理由がさっぱりわかりません。わかることと言えば、原理主義者が論理的であるかないか、ということと、神ではなくて主義主張を信仰している、ということぐらいなものでしょう(笑)。

 

キリスト教と進化論

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www.ei-sta.com

キリスト教原理主義的な一部の教派は、進化論を否定して、世界の創生は聖書の創世記に記されているとおりに、神によってなされた、と考えているのだそうです。

上に引用したサイトから引用してみましょう。

アメリカ全国の生物学教師を対象にしたアンケートでは、こんな結果が出ています。

授業で進化論を取り入れていない 60%
進化論を明確に教える 28%
創造論だけを教えている 13%

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アメリカ人の4割が進化論を否定しているという調査結果がありますが、住んでいたのがアメリカ南部という保守的な土地だったこともあり、わたしの周りでは7割ほどの人が進化論否定派でした。
やはり宗教的な背景が強く影響しているようで、プロテスタントのほとんどが進化論に否定的。

よくあることですが、あまりアタマの良くないクリスチャンの人たちは、聖書に比喩や文学的表現があるということを知ろうとしません。会議の議事録のようなものだと理解しようとしているようです。それで、聖書には「進化」という言葉が出現しないのだから進化論は認めない、ということになるのだと思うのですが、僕は別にそれがいけないことだとは思いません。それぞれ自由ですし、アメリカの学校がどのように教育の方針を決めようが、議会制民主主義による決定であるのであれば、それらを尊重すればよいのです。

ただし、ちょっとおかしいんじゃないの、と思う点はあります。進化論は現代の科学の成果が示す一つの仮説であるわけですが、それだけが独立していきなり存在するわけではありません。数学、物理学、生物学、医学、薬学、理学、工学といった、様々な分野の研究結果が関連して導き出した、総合的な考えである、と言うことができると思います。

つまり、電気、電子、モータリゼーションといったような科学の成果がもたらす恩恵には浴するくせに、なぜ進化論だけを違うと言い張るのですか、ということです。聖書に反するから、と言うのであれば、聖書には電気利用についての説明はありません。パソコンやスマホからSNSを楽しみながら進化論を否定したところで、チョコレートケーキを貪りながら砂糖の毒性を説明しているようなもので説得力というものが生じませんよね。

進化論を否定しても説得力が失われない人、といえばアーミッシュぐらいなものなんじゃないでしょうか。

 

フェミミズムとキリスト教

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www.dailymail.co.uk

フェミニズムキリスト教に関連性は無いだろう、と思っていました。キリスト教の根幹を成すのは男尊女卑であって、聖書にもそのことが明確に示されているからです。読んでみましょう。

テモテ前書 2:9-15

また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。 

気持ち良いぐらい、バッサリと女性を差別していますね。

しかし、世の中には「フェミニスト神学」というものが存在するらしいのです。見てみましょう。

ja.wikipedia.org

引用してみましょう。

女性の視点からの神学的批判は19世紀末のエリザベス・スタントンにまで遡ることができる。スタントンは、『女性の聖書』(1898年)を著して聖書の中の女性差別に注目し、「これは神の言葉を聞きまちがえた男たちの言葉である」と言い切った。

普通は、少しでも間違いがある文書は、それ全体に価値が無い、と判断すべきだと思うのですが、聖書の中の女性に対する男性の評価だけが間違いである、と、理解しようとしているわけです。そんな奇妙奇天烈、奇々怪々なことが世の中にあるでしょうか。

話は変わるのですが、フェミニストといえばT女史を思いだしますが、彼女には非常に優れたところがあると思います。他の誰よりもよく声が通る、という点です。声質も良いのでしょうが、発声も優れているのでしょう。他の誰かが彼女の発言を抑え込もうと割り込んで成功したところを見たことがありませんし、彼女が割り込みをかけて失敗したところもみたことがありません。これほど罵り合いに適した声の持ち主はなかなか他にはいないと思うのですが、惜しむべきことは、その論点が今ひとつはっきりしないこと、さほど重要とは思えないことです。

「救われた」とは

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www.medienwerkstatt-online.de

プロテスタントのクリスチャン達はよく、「救われた」とか「救われている」とかいうようなことを口にするようです。同じクリスチャンであっても、カトリックや正教の信徒はそのようなことを言いません。この違いはそれぞれの教義の違いによって生じているものです。

Wikiから「信仰義認」という項目を確認してみましょう。

ja.wikipedia.org

「信仰義認」とはプロテスタント教会の考え方であって、人が、神様からその人が「義である」、つまり、「正しい人である」と認定されること、即ち、その人が「救われた」と判断できる根拠は、その人がクリスチャンとしての信仰を持っていることを自覚したことである、という考え方です。教派による違いがあるようですが、同Wikiから表を参考にしてみましょう。

教派 過程・出来事 原理 永続性 義認・聖化
ローマ・カトリック 過程 神人協力説[9] 大罪によって失われることもある 同一過程の一部
ルター派 出来事 聖霊単働説 信仰の喪失により失われることもある 義認は聖化より生じるとして分けられる
メソジスト 出来事 神人協力説 失われることもある 聖化の継続による
改革派 出来事 聖霊単働説 失われない(聖徒の永遠堅持 義認と聖化は別。キリストとの結合[10][11]

カトリックは元々「信仰義認」とは言いませんので、「ローマ・カトリック」という項目があるのは参考のためでしょう。

この表からも分かる通り、カトリックは、神から「義である」と認定されるためには、洗礼を受け、信仰を表白するだけでなく、日々のたゆまぬ努力の結果、死ぬまでの間にそれを享受する可能性がある、と考えるのですが、プロテスタントはそうではなくて、神から「義である」と認定されているものだけが、教会へ来てクリスチャンになるのだ、と考えているのです。

神から「義である」と認定されたもの、とは「救われた」ものという意味である、と説明しましたが、カトリック風に言えば「聖人」であり、正教会風にいえば、過去記事「神になる その2」で説明したとおり「神成」を達成したひと、ということになります。

つまり、プロテスタント教会の信者達は、全員聖人であって、神と全く同じ価値観を持っているのだ、と自覚しているわけです。仏教風にいえば、一人残らず悟りを得、生きながら彼岸へ到達(即身成仏)したものの集まりだ、と考えている、ということになるのです。

だから、プロテスタント信者は「救われた」だとか「救われている」と理解するように宗教教育されるのですが、それは「完璧な人間である」と理解することと等しいわけで、つまり、甚だ不遜であって、世間一般からみればとてつもなく非常識な自覚である、と言わざるを得ないでしょう。

それは酷い。プロテスタントのレベルは低い、とあざ笑ったカトリックのあなた、こんなことになっているのは、もとはと言えば、カトリックが腐敗し、民衆の射幸心を利用して金儲けをしようと目論んだことが原因だということを知るべきです。

どっちもどっち。同じようなものだと言うことでしょうね(笑)。