キリスト教の問題点について考える

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神になる その2

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前回記事「神になる」では、キリスト教徒の最終的な目的が「神になる」であることの説明を行いましたが、今回ももう少し続けましょう。

Wiki神成 (正教会)」によれば、ペトロの手紙二の次の言葉

また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。

を根拠とし、四世紀のアレクサンドリア主教アタナシオスによりまとめられた考えであると説明されています。正教会では「神成」その他の教会では「神化」という語で表されるともありますね。

アタナシオスは「神が人となったのは、人が神になるためであった」と述べて「神になる」の思想を集約した、とあります。

人が神になるための思想体系がキリスト教であって、そのモデルがイエスという人物なのです。Wikiの記述を引くのであれば、

人間は信仰生活を通して神に似る、即ちイエス・キリストの神の本性にあずかり、イエス・キリストが神格化したより真正な人間性を獲得する。人にとってのこのプロセスを神成と呼ぶ。

となるわけです。

大乗仏教において、お釈迦様を、生きた人間でありながら、悟りに至った者のモデルであるとして、人はだれでもお釈迦様のように頂点を目指すことができるのだ、と教えるのと似ています。

宗教とは、本来生きているもののための生き方の追求手段の一つであるべきなのです。実際、いずれも当初の志はそうだったのだと思います。キリスト教が(仏教も同じですが)、葬式宗教に成り下がってしまったのは、大部分の要求が、高度な精神性よりも、猥雑な迷信の部分にあったからです。大衆化して本質を失ってしまっているわけです。

Wikiにも、

「人が神に成る」という言葉はそれだけを取上げればかなり危険で誤解を招きかねないが、神成は正教会の教えの根幹にある。特別な人にではなく全ての人に関係すること、および、何か特異な事をするのではなく、全く普通に信仰生活を励む事によって神成がなされていく事が強調される。

とあるように、根幹であるといいながら、説明するのが困難なので、と尻込みしている様子がわかります。

キリスト教の成立は、これまで色々な記事でご紹介しましたとおり、胡散臭いものですが、なにはともあれキリスト教という宗教があるわけで、それを良くして行くこともできたのではないかと思いますが、真実を押し隠して死後の恐怖を看板にしているようでは、悪習悪癖と評価する以外にはありません。