キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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「救われた」とは

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プロテスタントのクリスチャン達はよく、「救われた」とか「救われている」とかいうようなことを口にするようです。同じクリスチャンであっても、カトリックや正教の信徒はそのようなことを言いません。この違いはそれぞれの教義の違いによって生じているものです。

Wikiから「信仰義認」という項目を確認してみましょう。

ja.wikipedia.org

「信仰義認」とはプロテスタント教会の考え方であって、人が、神様からその人が「義である」、つまり、「正しい人である」と認定されること、即ち、その人が「救われた」と判断できる根拠は、その人がクリスチャンとしての信仰を持っていることを自覚したことである、という考え方です。教派による違いがあるようですが、同Wikiから表を参考にしてみましょう。

教派 過程・出来事 原理 永続性 義認・聖化
ローマ・カトリック 過程 神人協力説[9] 大罪によって失われることもある 同一過程の一部
ルター派 出来事 聖霊単働説 信仰の喪失により失われることもある 義認は聖化より生じるとして分けられる
メソジスト 出来事 神人協力説 失われることもある 聖化の継続による
改革派 出来事 聖霊単働説 失われない(聖徒の永遠堅持 義認と聖化は別。キリストとの結合[10][11]

カトリックは元々「信仰義認」とは言いませんので、「ローマ・カトリック」という項目があるのは参考のためでしょう。

この表からも分かる通り、カトリックは、神から「義である」と認定されるためには、洗礼を受け、信仰を表白するだけでなく、日々のたゆまぬ努力の結果、死ぬまでの間にそれを享受する可能性がある、と考えるのですが、プロテスタントはそうではなくて、神から「義である」と認定されているものだけが、教会へ来てクリスチャンになるのだ、と考えているのです。

神から「義である」と認定されたもの、とは「救われた」ものという意味である、と説明しましたが、カトリック風に言えば「聖人」であり、正教会風にいえば、過去記事「神になる その2」で説明したとおり「神成」を達成したひと、ということになります。

つまり、プロテスタント教会の信者達は、全員聖人であって、神と全く同じ価値観を持っているのだ、と自覚しているわけです。仏教風にいえば、一人残らず悟りを得、生きながら彼岸へ到達(即身成仏)したものの集まりだ、と考えている、ということになるのです。

だから、プロテスタント信者は「救われた」だとか「救われている」と理解するように宗教教育されるのですが、それは「完璧な人間である」と理解することと等しいわけで、つまり、甚だ不遜であって、世間一般からみればとてつもなく非常識な自覚である、と言わざるを得ないでしょう。

それは酷い。プロテスタントのレベルは低い、とあざ笑ったカトリックのあなた、こんなことになっているのは、もとはと言えば、カトリックが腐敗し、民衆の射幸心を利用して金儲けをしようと目論んだことが原因だということを知るべきです。

どっちもどっち。同じようなものだと言うことでしょうね(笑)。