キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

創世記に見る進化の痕跡

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www.learnreligions.com

しばしば話題に取り上げられることですので、ご存じの方もおられるのではないかと思いますが、創世記の冒頭で、神が人間を創造した、ということが二回説明されています。見てみましょう。まず、一回目です。

創世記 1:26-28

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 

 次に二回目の創造は、

創世記 2:7-8

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。 

常識的に考えれば、これは、創世記が二つの異なる伝承神話を底本に持つことの痕跡であって、編者がなるべくそれらのオリジナル性を損なわないように、と気遣いながら創世記を作成した、ということになるでしょう。

しかるに、原理主義者たちは、聖書を、事実の記録であるとしか理解しようとしません。しかしそうであるのであれば、なぜ創世記で神は人間を二回創造した、と記述されているのでしょうか。

僕であれば次のように考えるでしょう。即ち、一回めの創造では、人間はまだ不完全な状態であったのです。そして、二回目の創造によって「完全な人間」となった、つまり、「進化」したというわけです。進化は神の手によってなされた、ということであって、現代の科学が示す「進化論」という仮説は、見事に聖書と一致する、と評価することができる、ということになるのですが、あくまで、聖書を原理主義者的に、偏った読み方をした場合にだけ、そのような理解を導き出す事ができるわけです。

しかし、実際には、原理主義者たちは、進化論とは無神論者の考え方である、と決めつけて、神が進化という手段を用いて創造の業を行った、という可能性については考えることができません。

聖書には神が行った事実がそのまま記録されている、というのであれば、なぜ、人間が二度創造されているのでしょうか。また、ついでに言えば、太陽より先に地球が創造されていますが、そんなことがあり得るのでしょうか。ひょっとして原理主義者の皆さんの脳内は天動説のままなんでしょうか(笑)。

前記事、「キリスト教と進化論」に、原理主義者と思われる人物によって次のようなコメントが書き込まれました。

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

抜粋します。

自分が進化論で疑問に思うのは良心の存在です。
進化論が本当なら例えば人種差別は悪ではなくなります。
この世で正しいものの一つは他民族から臓器
を抜き取ったりする中国共産党でもおかしくなくなると思います。
自称クリスチャンだったヒットラーの行いも悪ではなくなってしまいます。

原理主義者だから進化論が大嫌い、という気持ちはよくわかるのですが、進化論が本当であれば人種差別が悪で無くなる、と言うところの理由がさっぱりわかりません。わかることと言えば、原理主義者が論理的であるかないか、ということと、神ではなくて主義主張を信仰している、ということぐらいなものでしょう(笑)。

 

キリスト教と進化論

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www.ei-sta.com

キリスト教原理主義的な一部の教派は、進化論を否定して、世界の創生は聖書の創世記に記されているとおりに、神によってなされた、と考えているのだそうです。

上に引用したサイトから引用してみましょう。

アメリカ全国の生物学教師を対象にしたアンケートでは、こんな結果が出ています。

授業で進化論を取り入れていない 60%
進化論を明確に教える 28%
創造論だけを教えている 13%

ccdbdbcb

アメリカ人の4割が進化論を否定しているという調査結果がありますが、住んでいたのがアメリカ南部という保守的な土地だったこともあり、わたしの周りでは7割ほどの人が進化論否定派でした。
やはり宗教的な背景が強く影響しているようで、プロテスタントのほとんどが進化論に否定的。

よくあることですが、あまりアタマの良くないクリスチャンの人たちは、聖書に比喩や文学的表現があるということを知ろうとしません。会議の議事録のようなものだと理解しようとしているようです。それで、聖書には「進化」という言葉が出現しないのだから進化論は認めない、ということになるのだと思うのですが、僕は別にそれがいけないことだとは思いません。それぞれ自由ですし、アメリカの学校がどのように教育の方針を決めようが、議会制民主主義による決定であるのであれば、それらを尊重すればよいのです。

ただし、ちょっとおかしいんじゃないの、と思う点はあります。進化論は現代の科学の成果が示す一つの仮説であるわけですが、それだけが独立していきなり存在するわけではありません。数学、物理学、生物学、医学、薬学、理学、工学といった、様々な分野の研究結果が関連して導き出した、総合的な考えである、と言うことができると思います。

つまり、電気、電子、モータリゼーションといったような科学の成果がもたらす恩恵には浴するくせに、なぜ進化論だけを違うと言い張るのですか、ということです。聖書に反するから、と言うのであれば、聖書には電気利用についての説明はありません。パソコンやスマホからSNSを楽しみながら進化論を否定したところで、チョコレートケーキを貪りながら砂糖の毒性を説明しているようなもので説得力というものが生じませんよね。

進化論を否定しても説得力が失われない人、といえばアーミッシュぐらいなものなんじゃないでしょうか。

 

フェミミズムとキリスト教

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www.dailymail.co.uk

フェミニズムキリスト教に関連性は無いだろう、と思っていました。キリスト教の根幹を成すのは男尊女卑であって、聖書にもそのことが明確に示されているからです。読んでみましょう。

テモテ前書 2:9-15

また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。 

気持ち良いぐらい、バッサリと女性を差別していますね。

しかし、世の中には「フェミニスト神学」というものが存在するらしいのです。見てみましょう。

ja.wikipedia.org

引用してみましょう。

女性の視点からの神学的批判は19世紀末のエリザベス・スタントンにまで遡ることができる。スタントンは、『女性の聖書』(1898年)を著して聖書の中の女性差別に注目し、「これは神の言葉を聞きまちがえた男たちの言葉である」と言い切った。

普通は、少しでも間違いがある文書は、それ全体に価値が無い、と判断すべきだと思うのですが、聖書の中の女性に対する男性の評価だけが間違いである、と、理解しようとしているわけです。そんな奇妙奇天烈、奇々怪々なことが世の中にあるでしょうか。

話は変わるのですが、フェミニストといえばT女史を思いだしますが、彼女には非常に優れたところがあると思います。他の誰よりもよく声が通る、という点です。声質も良いのでしょうが、発声も優れているのでしょう。他の誰かが彼女の発言を抑え込もうと割り込んで成功したところを見たことがありませんし、彼女が割り込みをかけて失敗したところもみたことがありません。これほど罵り合いに適した声の持ち主はなかなか他にはいないと思うのですが、惜しむべきことは、その論点が今ひとつはっきりしないこと、さほど重要とは思えないことです。

「救われた」とは

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www.medienwerkstatt-online.de

プロテスタントのクリスチャン達はよく、「救われた」とか「救われている」とかいうようなことを口にするようです。同じクリスチャンであっても、カトリックや正教の信徒はそのようなことを言いません。この違いはそれぞれの教義の違いによって生じているものです。

Wikiから「信仰義認」という項目を確認してみましょう。

ja.wikipedia.org

「信仰義認」とはプロテスタント教会の考え方であって、人が、神様からその人が「義である」、つまり、「正しい人である」と認定されること、即ち、その人が「救われた」と判断できる根拠は、その人がクリスチャンとしての信仰を持っていることを自覚したことである、という考え方です。教派による違いがあるようですが、同Wikiから表を参考にしてみましょう。

教派 過程・出来事 原理 永続性 義認・聖化
ローマ・カトリック 過程 神人協力説[9] 大罪によって失われることもある 同一過程の一部
ルター派 出来事 聖霊単働説 信仰の喪失により失われることもある 義認は聖化より生じるとして分けられる
メソジスト 出来事 神人協力説 失われることもある 聖化の継続による
改革派 出来事 聖霊単働説 失われない(聖徒の永遠堅持 義認と聖化は別。キリストとの結合[10][11]

カトリックは元々「信仰義認」とは言いませんので、「ローマ・カトリック」という項目があるのは参考のためでしょう。

この表からも分かる通り、カトリックは、神から「義である」と認定されるためには、洗礼を受け、信仰を表白するだけでなく、日々のたゆまぬ努力の結果、死ぬまでの間にそれを享受する可能性がある、と考えるのですが、プロテスタントはそうではなくて、神から「義である」と認定されているものだけが、教会へ来てクリスチャンになるのだ、と考えているのです。

神から「義である」と認定されたもの、とは「救われた」ものという意味である、と説明しましたが、カトリック風に言えば「聖人」であり、正教会風にいえば、過去記事「神になる その2」で説明したとおり「神成」を達成したひと、ということになります。

つまり、プロテスタント教会の信者達は、全員聖人であって、神と全く同じ価値観を持っているのだ、と自覚しているわけです。仏教風にいえば、一人残らず悟りを得、生きながら彼岸へ到達(即身成仏)したものの集まりだ、と考えている、ということになるのです。

だから、プロテスタント信者は「救われた」だとか「救われている」と理解するように宗教教育されるのですが、それは「完璧な人間である」と理解することと等しいわけで、つまり、甚だ不遜であって、世間一般からみればとてつもなく非常識な自覚である、と言わざるを得ないでしょう。

それは酷い。プロテスタントのレベルは低い、とあざ笑ったカトリックのあなた、こんなことになっているのは、もとはと言えば、カトリックが腐敗し、民衆の射幸心を利用して金儲けをしようと目論んだことが原因だということを知るべきです。

どっちもどっち。同じようなものだと言うことでしょうね(笑)。

なぜ偶像崇拝がダメなのか

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tabicoffret.com

十戒では偶像を礼拝することが禁止されています。見てみましょう。

出エジプト記 20:4

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。

とありますね。確かに、偶像を礼拝することが禁じられているように見えます。では、偶像崇拝はどういう理由で禁止されているのでしょうか。

偶像崇拝に関する、説教を含むいくつかの論説をネット上で検索して読んで見たのですが、偶像崇拝を行う事によって生じる具体的な弊害について言及しているものは全く存在しませんでした。そのほとんどは、

『真の神で無いものを拝むことになるから』

という理由で禁止されているのだ、と説明しているのですが、そうするとどうなるのかは説明されていません。知りたいのはそのことです。だから、なぜ偶像崇拝がダメなのか、を教えてほしいわけです。

偶像を崇拝すると自律神経が冒されて呼吸ができなくなって死んでしまうのか、あるいは脳の細胞が破壊されて廃人のようになってしまうのか、または犯罪とみなされて告訴されるのでしょうか。「殺すなかれ」はこのためでしょう。あるいは犯罪とまでは言わなくても、精神性が汚れてしまうからでしょうか。「父母を敬え」はこの問題に触れるかもしれません。では、偶像を崇拝するなとは何のためになのでしょうか。

仏教を例に挙げて考えてみましょう。仏教は本来仏像を礼拝する偶像崇拝ではないのですが、仏教徒の中には仏像が神だと考えている人がいるかも知れません。ですから、この際かんたんのために仏教は偶像崇拝である、と仮定しましょう。それで、仏教徒は全員偶像崇拝者になるわけですが、具体的に、どのような報いを得てしまうと言うのでしょうか。仏教徒キリスト教徒よりも何が劣っているのでしょうか、また、キリスト教徒はどのような点において仏教徒よりも優れているのでしょうか。

京都に住んでいますと、毎朝路傍の石仏に花を手向け、今日も一日、どうかこの地方が平和でありますように、と、素朴な祈りを捧げる人々の姿を見るのですが、牧師が講壇の上から口を捻じ曲げながら、他の宗教や教派の悪口や皮肉を言うのを聞くよりはよほど大きな神の恵みを感じることができると思います。

偶像崇拝がダメと教わりながら、あいつの家は偶像崇拝だから家族全員地獄逝き、などとクソゲー感覚で他人と接することしかできなくなってしまう、キリスト教の教えというのはそういう反社会的なものなのではないでしょうか。

偶像崇拝上等じゃないですか。なにが悪いんですか。偶像崇拝を禁じる反社会的集団よりも、偶像崇拝者のほうが精神的には上流にしか見えません。

なんてことをいうと、大抵の自称非偶像崇拝者たちはこう言います。

『死んで地獄に堕ちてから後悔するなよ。』

 

キリスト教と人種差別

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www.imdb.com

キリスト教は差別の元凶である、と言うことができるでしょう。キリスト教の神は、地上のあらゆる人の中からイスラエルだけを選び出して祝福し、他のすべての民を呪ったと、聖書にはそう記されています。

モーセ十戒にある「殺してはならない」とは「イスラエル人を殺してはならない」という意味であって、異教徒は含まれていないのです。

聖書から学んでみましょう。 民数記 31:7-10

彼らは主がモーセに命じられたようにミデアンびとと戦って、その男子をみな殺した。その殺した者のほかにまたミデアンの王五人を殺した。その名はエビ、レケム、ツル、フル、レバである。またベオルの子バラムをも、つるぎにかけて殺した。またイスラエルの人々はミデアンの女たちとその子供たちを捕虜にし、その家畜と、羊の群れと、貨財とをことごとく奪い取り、そのすまいのある町々と、その部落とを、ことごとく火で焼いた。 

神は、イスラエル人のために、非イスラエル人を用意された、と聖書には記されています。イスラエルは、非イスラエルを自らの用と為すために、それらの命を含めていつでも奪い取って構わないと理解しているわけです。聖書には、イスラエル人は優れた者であって、非イスラエル人は劣ったものであると記されています。

福音書にも差別思想が顕れています。 ルカによる福音 10:30-37

エスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

Wikiによるこの箇所の解説「善きサマリア人のたとえ」にはこの箇所に対するマーティン・ガードナーの解釈として、

ガードナーは著書『奇妙な論理〈1〉—だまされやすさの研究』(早川書房、ISBN 4150502722)において「イエスが愛されるべき真の「隣人」の例としてサマリア人を選んだのは、古代エルサレムではサマリア人は軽蔑された少数民族だったからだということを、悟る人はほとんどいない」(136頁)と指摘。(原著は1952年のアメリカ合衆国で出版されたものなので、その当時の読者に対し)「「サマリア人」のかわりに「黒人」をおいたときはじめて、あなたはこのたとえ話の意味を、当時キリストのことばをきいた人々が理解したとおりに、理解するはずである」(前掲、同)と述べた。

と記されていますが、私の考えでは、これは、サマリア人のような、人から軽蔑されている存在であっても、神の恵みを表す行動をすることができるのだから、お前たちはなおさらだ、ということを説明しているのであって、サマリア人に対する差別がいけないことであると言っているわけではありません。

キリスト教徒は、このような聖書の記述にみる精神性に従って、結果、非キリスト教徒である黒人を捕獲し、売買、使役したのだ、というわけです。旧約聖書におけるイスラエルと非イスラエル人の関係は、新約聖書キリスト教徒と非キリスト教徒に置き換えられました。キリスト教徒は、神はキリスト教徒を選んで祝福し、非キリスト教徒を蔑んで呪っている、と考えているのです。

上に貼ったキャッチアイ画像は、映画「ヘアスプレー」の一場面です。

「INTEGRATION NOT SEGREGATION」と書かれたプラカードを掲げている、ニッキー・ブロンスキーが演じる主人公の少女トレイシーが、ジョン・トラボルタが演じるママに、次のように歌います。

「今は1960年代よ。時代は変わったの。新しい未来が始まっているわ。」

それからさらに60年余りを数えているわけですが、トレイシーの予測通り、新しい未来が来ていると言っていいのでしょうか。

映画でも、トレイシーの友人の母が、常にロザリオを手放さない敬虔なキリスト教徒でガチガチの差別主義者として描かれていたのですが、キリスト教という元凶が絶えない限り、この世から差別は無くならないのでしょうね。

茶道の心とキリスト教

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kengunlutheranchurch.blogspot.com

上に貼った写真とサイトは日本福音ルーテル健軍教会の「茶道の心を学ぶ」という記事です。引用してみましょう。

この日は、昨年来日した米国からの短期信徒宣教師の方々の日本文化研修の日でした。岩野房子先生のお宅で、茶道のもてなしのこころを学びした。

とあります。

たしかに、茶の湯にはもてなしの心得が含まれていて、重要な学習項目の一つであると思います。しかしそれは、いわば、茶杓で棗から茶を掬うときは云々と同じような問題なのではないかと思います。

南方録の覚書から引用してみましょう。

小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て、修行得道することなり。

侘び茶とは、本来、仏教の教えを学んで悟りを志すことである。と言っています。もう少し読んで見ましょう。

家居の結構、食事の珍味を楽しみとするは俗世の事なり。家はもらぬほど、食事はうえぬほどにて足る事なり。是仏の教え、茶の湯の本意なり。水を運び、薪をとり、湯を沸かし、茶を点てて、仏にそなえ人にほどこし、吾ものむ。花を立て香を焚く、みなみな仏祖の行いの跡を学ぶなり。

茶を点てるということは、まずは仏に供え、その法を尊ぶことであり、その心があって初めて人をもてなすことができるのだ、と言っていますね。茶を点てること、花を立てること、香を焚くこと、全てお釈迦様のみ教えに触れ、知ることである、とも言っています。

さて、キリスト教の教会で茶の湯を学ぶとは、一体どういうことなのでしょうか。仏の法に帰依して清浄無垢の仏世界に思いを致したい、と望んだからでしょうか。

おそらくは違うでしょうね。儀式的な作法でもって菓子を食わせて茶を飲ませて見せて、どうだ、おもしろかっただろう、菓子も茶も格別美味かっただろう、どうなんだ、というわけです。そんなことは「もてなし」とは言いません。「見世物」というのです。しかも、キリスト教会を訪れたキリスト教徒に対して、仏教の修法を意味もわけも分からずただ「演じて」見せただけです。申し訳ありませんが、これほど無意味で滑稽なことは他にはないでしょう。キリスト教に対する理解も同じくこの程度のことなのではないでしょうか。

話は変わるのですが、以前、京都のある寺に外国人の青年が雲水として入ったのですが、彼はカトリック信者でもあったので、日曜日には近くのカトリック教会のミサに参加して聖体を拝領していたのだそうです。仏教は宗教ではありませんし、境内にはたいてい鎮守の神が祀られていることでもあり、雲水がクリスチャンでもある、という状態はあり得ないわけでもないのでしょうが、よほど理解のある師家(指導者)だったのではないかと推察します。

お釈迦様は宗教に拘泥することも迷いであって、悟りから遠ざかる 所以の一つである、と指摘されています。

キリスト教徒が茶の湯を学んではいけない、と言うつもりはないのですが、意味わかってやってるの、とは言いたい感じがします。茶道、華道は、仏教を学び極めようと志した人に与えられた一つの道であるわけです。普段は偶像崇拝だと蔑んでいるくせに、都合によっては表面だけつまみ食いしているわけですよね。それは程度低いよね、と言わざるを得ません。