キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタントの元信徒が運営するキリスト教批判ブログです

オープン聖餐とフリー聖餐

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gracelutheranlakewood.org

過去記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

ではフリー聖餐についての考えをご紹介しましたが、そもそもフリー聖餐とは、またオープン聖餐という考え方もあるのですが、それぞれどういうことなのか、その違いはどうなのか、ということについてご紹介しておきたいと思います。

カトリック信者の方で、プロテスタントは今頃になってフリー聖餐だ、オープン聖餐だ、と騒いでいるが、カトリックの聖体拝領は元々オープン聖餐だ、と発言した人がいましたが、オープン聖餐ということを間違って理解されているようです。

プロテスタント聖餐式は、元来、一つの教会に所属する倍餐会員だけで行われるのが普通です。教会によっては、聖餐用の盃にそれを使用する信徒の名前が刻印されていて、専用となっているものがある場合もあるほどです。

カトリックでは、カトリック信徒であれば、世界中のどの教会であれ、カトリック教会のミサにおいて、何の問題もなく聖餐に参加できるのですが、プロテスタントでは、たとえばメソジスト会員が、旅行先で所属教会以外のメソジスト教会聖餐式に出席したとしても、その聖餐に参加することはできません。

この違いは、聖餐に対する理解の違いから生じています。カトリックは聖餐を、人間として生きていく上で必要不可欠なものであると理解していますので、いつでも、そのときの一番近くにある教会にいけば、聖餐に参加することができるわけです。

しかし、プロテスタント教会は聖餐を人間にとって必要なものとは考えているわけではありませんので、たとえ同系列教会の会員であっても、訪問客のために聖餐のパンとぶどう酒を用意するという習慣が無い、ということです。

このような習慣を改めて、カトリックや正教はちょっと無理でしょうが、プロテスタント間であれば、たとえば、聖公会の信徒が改革教会の、あるいは、ナザレン教会の信徒がルーテル教会聖餐式で聖餐に参加できるようにしよう、ということがオープン聖餐という考え方です。

このように、プロテスタントの異なる教派間で聖餐できるようにしよう、というのがオープン聖餐なのであって、カトリック間であれば所属教会でなくても聖餐に参加できるからと言っても、それはオープン聖餐とは言わないのです。

フリー聖餐は、オープン聖餐に加えて、未倍餐会員であっても、異教徒であっても、聖餐に参加できるようにしよう、という考え方です。この考え方も、洗礼や聖餐が人間にとって必要不可欠である、と考えるカトリックからすれば突拍子もない暴挙であって、議論の余地もないことであるように思われるのでしょうが、プロテスタントでは洗礼が必要不可欠なのではなくて、キリスト教を信仰していることを表明しさえすれば、その人はキリスト教徒である、ということになりますので、洗礼がまだだから聖餐には参加できない、という理屈は成り立たないのではないか、という考え方が出てくるわけです。

上記でご紹介した過去記事「フリー聖餐とは」でも申し上げたのですが、私としましては、そんなに区別することに抵抗を感じるのは、キリスト教そのものが良くない文化世界なのだからであって、そこからやめてしまうのが手っ取り早くて最も正しい選択だと思うわけです。

プロテスタント教会にもある性犯罪

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www.theamericanconservative.com

過去の記事、

 

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

などでは、カトリック教会に存在する性犯罪の問題についてご紹介したのですが、プロテスタント教会も無関係ではありません。上に貼ったリンクにある通り、アメリカのバプテスト教会でも性的虐待があったことが報じられています。

AFPニュースの日本語記事から引用しましょう。

www.afpbb.com

【2月13日 AFP】米国最大のプロテスタント教派、南部バプテスト連盟(Southern Baptist Convention)の指導者やボランティアおよそ380人が、性的虐待を行っていた疑いがあることが発覚した。テキサス州の新聞社2社の報道によると、1998年以降の被害者は700人以上に上るという。

 被害者のほとんどが子どもで、最年少は3歳。告発された加害者が教会内で働き続けていたケースもあったという。報道を受けて教会側は、実際の被害者数がさらに多い可能性を認め、被害者らに名乗り出るよう促した。

日本でも、京都の八幡市にある「聖神中央教会」という教会の牧師が、信者の少女を強姦するという事件がありました。

ja.wikipedia.org

 

カトリック教会は、世界で最も規模が大きいキリスト教の団体であって、南部バプテスト連盟はアメリカ最大のプロテスタント教派です。犯罪者の数も比例して多かったでしょうが、その犯罪者を告発したい、と望む勢力も少なくなかったので、無事にこの問題が世に暴露されたわけです。

しかし、他にも同様の問題が埋もれてしまっているだろうということは、容易に想像できることです。現に、過去記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

で少し申し上げたように、私自身、駿河台のニコライ堂を見学におとずれた際に、正教徒のおじさんに誘われて自宅に連れ込まれ、危ない目に会いそうになったことがありました。

どうも見ていると、キリスト教にのめり込むタイプのひとは、淫乱気質が強いように思います。異性愛であれ同性愛であれ、そのこと自体に良しも悪しもないということは理解しているつもりですが、淫乱は良くありません。犯罪に直結するような性癖だと思いますし、実際上記のような事件が発生しているのです。

そのようになりたくなければ、また、そう思われたくないのであれば、すくなくともキリスト教とは関わり合いになるべきではないでしょう。

カオダイ教とキリスト教

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vnexpress.net

カオダイ教という宗教をごぞんじでしょうか。Wikiでは、

ja.wikipedia.org

ホーチミン市から北西約100kmのタイニン省ベトナム語:Tĩnh Tây Ninh/ 省西寧)ホアタイン市社(ベトナム語:Thị xã Hòa Thành/ 市社和城)に総本山がある。信徒数は約100万から300万と言われ、タイニン省の人口の7割あるいは3分の2がカオダイ教の信者だと言われる。カオダイとはベトナム道教最高神玉皇上帝のことであり、総本山教会堂の祭壇中央に信者を見下ろすように設置される目だまは、カオダイの神の目である。これは天眼と呼ばれ「宇宙の原理」「宇宙の至上神」の象徴とする。この目玉はカオダイ教のシンボルマークでもある。

と説明されています。

シンボルマークの目玉は、キリスト教の三位一体を表す図像によく似ているようにも思われます。

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Trinity symbol

www.alamy.com

 

Wikiには、次のような説明もあります。

教義では、キリスト教的な要素、特に聖職者の階級制度を採用していると言われるなどカトリックの側面が見られる一方で、古来からの精霊崇拝の要素も見られる。孔子老子、釈迦、観音菩薩、キリスト、ムハンマド、さらには李白太上老君老子)、ソクラテストルストイヴィクトル・ユーゴーなどを聖人や使徒と仰ぐ。1959年に死んだファン・コン・タックという人物がカオダイの新たな教祖として祀られている。タックはキリスト教徒であったが仏教、儒教、老教、キリスト教神道を束ね世界の救済を行ったとされる。

カオダイは第1回目の人類救済のために釈迦の姿を借り現世へ現れ、第2回目はキリストと老子の姿を借りて現れた。現在、3回目の人類救済のために東西諸宗教を統合したとされる。 

宗教とは、まさに、このようにして歩みだすものと理解することができるでしょう。発足当時の有力な宗教の特徴を取り入れて、それらの教義を脚色することによって新しい宗教を立ち上げるわけです。

キリスト教も同様だったのでしょう。キリスト教は、ユダヤ教ミトラス教ゾロアスター教アラビア神話ギリシャ神話ローマ神話メソポタミア神話エジプト神話といったような様々な宗教から一部の要素を盗み取って成立したのだ、といえるわけです。

キリスト教にとって都合が良かった大きな理由は、その盗み取りを実施した勢力に、ローマ帝国という国家が一枚噛んでいたことです。おかげで盗み取りの痕跡は首尾よく抹消されました。実際、現代のほとんどのキリスト教徒は、イエス様の出現が即ちキリスト教の発生である、と刷り込まれていて、そう信じ込んでいるように見えます。

もう一度Wikiカオダイ教から引用してみましょう。

カオダイ教ベトナム語:Đạo Cao Đài/ 道高臺)は、ベトナム新宗教。1926年、ファム コン タック(ベトナム語: Phạm Công Tắc/  , 1890年- 1959年)[1]とレ・ヴァン・チャウン(ベトナム語:Lê Văn Trung/ 黎文忠, 1876年 - 1934年12月19日)によって唱えられた。五教(儒教道教、仏教、キリスト教イスラム教)の教えを土台にしたことから、カオダイ=高臺(高台)と名付けられた。

自ら、色々な宗教を土台にしていることをのべていますね。キリスト教のように隠蔽しようとはしていません。優れているのはどちらのスタンスでしょうか。

聖書がクリスチャンの道具であること

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dailyverses.net

聖書、とりわけ福音書にあるイエス様の言葉は、クリスチャンの道具として活用されるのを耳目にします。特に次の箇所です。

マタイ 7:1-6

人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 

聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

僕は一度、教会で、「そんなに口汚く人を罵るものではありませんよ」と言ってしまったことがあるのですが、そういったとたん、その人の目が三角形に変形し、つり上がって、頬を紅潮させ、いわゆる「怒髪天」の状態になって「君は私を裁くのか、裁くものは裁かれる。君も裁かれるんだぞ」と、恐怖の大予言を授かってしまったことを覚えています。

しかし、僕はこの人をさばいているでしょうか。さばいているのではなくて、指摘、または提案をおこなっている、と理解すべきだと思うのですがどうでしょうか。

この例の他にも、「裁くな」の箇所を濫用するクリスチャンは多いように思います。「目の梁」についてもも同様でしょう。

「豚に真珠」については、ある牧師が、講壇からいくら良い説教をしても、聞き手が良くなければ無駄なことで、豚に真珠を投げてやるようなものだ。できればそんな馬鹿げた仕事はしたくない、というようなことを大真面目で話するのを聞いたことがあります。

聴衆が豚かどうかより、お前の説教が真珠かどうかのほうが問題なんじゃないのか、と胸の内に思ったことを思い出します。

いかがでしょうか、クリスチャンなどと言う手合は、神の真理に惹かされてそうなったものはほとんどいません。便利な装身具を手に入れておくか、程度の欲得ずくに過ぎないのです。「クリスチャン」というゲーマーにとって「聖書」とは、「キリスト教」というゲームのなかの、ソードやシールドといった「アイテム」に過ぎないのです。

随分高額な料金が必要な糞ゲーだと思いますよ。ちなみに「神学」というのはこのゲーム用のマニュアルとして発展した似非学問です。宇宙一どうでもいい分野だと思います(笑)。

インディアン寄宿学校

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www.history.com

「インディアン寄宿学校」とは何のことか、ごぞんじでしょうか。Wiki

ja.m.wikipedia.org

を見てみましょう。

インディアン寄宿学校(インディアンきしゅくがっこう、Indian boarding school)とは、19世紀後半から20世紀にかけて主としてアメリカ合衆国やカナダで作られたインディアンの若年者を同化教育(Americanization)するための私立施設。

とあります。また、

この施設はアメリカ合衆国における人種的多数派である白人キリスト教徒によって経営され、「Reservation(保留地)」のインディアンの少年少女達を親元から強制的に取り上げ、先祖伝来の宗教、言語を禁止して、「インディアンを殺し、人間を救う」を合言葉に、キリスト教や欧米文化の学習、英語教育などを行っていた。ペンシルベニア州に創設された「カーライル・インディアン工業学校」がその第一号学校として有名である。

と記されています。カナダにおいては、

アメリカよりも早く、1840年代に「インディアン寄宿学校」が発足している。成り立ちや目的は、アメリカと同じく民族浄化のためのもので、カナダ最後の「インディアン寄宿学校」が閉鎖されたのは、1996年になってようやくのことであった。

とあり、1996年(つい、この間)までこの施設があったというのですから驚きです。

どのような教育だったのかといいますと、

聖書の暗記とキリスト教の祈祷が強制され、部族の信仰は弾圧され禁止された。英語以外の言葉で話すことは禁じられ、話せば「汚い」言葉を話した罰として教師に石鹸を食べさせられたり、石鹸で口をゆすがされたり、ビンタを食うなどした。もちろん、彼らの幼い心は深い心的外傷を負った。白人の食べ物しか食べさせられず、インディアンの伝統食は許されなかった。児童生徒たちに許された娯楽はフットボールや野球といった白人の遊びだけで、伝統的な遊びは許されなかった。

とあり、また、

寄宿学校制度の初期には、学校の衛生状態が劣悪だったために、天然痘やその他の白人の病気をうつされた児童が数十人単位で死亡する例も多かった。

という説明があります。また、

強制就学であるにもかかわらず、私立の寄宿学校の年間学費は、1940年代当時で50ドルという高額なものだった。これはインディアン児童の親に対しても多大な経済的負担を強いるものであった。

という記述にも驚かされます。

聖書には事実が淡々と叙述されているとしか読み取ることができないキリスト教徒は、聖書が異教徒の殲滅を教唆していると思い込み、自らの利益と相量り比べた結果、このようにネイティブをコントロールする道を選んだのです。例えば次の記述です。

申命記 20:10-14

一つの町へ進んで行って、それを攻めようとする時は、まず穏やかに降服することを勧めなければならない。もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。もし穏やかに降服せず、戦おうとするならば、あなたはそれを攻めなければならない。そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主が賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。

聖書とは、このような禍々しい差別と憎しみを生み出す暗黒の書であり、悪魔とはそれに踊らされているキリスト教徒のことなんじゃないのか、と言いたくなります。

アメリカは中国の少数民族に対する態度を批判できるのでしょうか。

2000年、BIA副長官ケビン・ガバー(1997~2001年まで就任。 彼はポーニー族である)は、寄宿学校を始めとする施政にまつわる、数十億ドルに上るインディアン基金のBIAによる不正隠匿を認めたうえで、過去百数十年にわたる部族強制移住同化政策の犯罪性を認め、全米のインディアン部族に対し、涙に濡れながら歴史的な謝罪を行った。以下は彼によるその声明である。インディアン部族で満員の会場は、涙と嗚咽、拍手で沸きかえった。

「私達は二度と貴方がたの宗教、言語、儀式、また部族のやり方を攻撃することはありません。私達は二度と、貴方がたの子供を里子に出させ、自分たちを恥ずべきものと教えるつもりはありません。」

大げさな口調で大味な感動を揺さぶり起こして大衆の涙を誘おうとするのはアメリカの常套手段ですが、それにしても結局汚れたカネが絡んでいるのですね(笑).

ディボーション(笑)

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wlpm.or.jp

「マナの使い方」というサイトを見つけました。上記のサイトです。

キリスト教界では日々の生活の中で時間を取り分けて聖書を読み、祈りに専念することを、ディボーションとか、メディテーション、静思の時などと呼んでいます。

とありますが、僕は初耳でした。キリスト教用語というよりは、精神医学とか心理学の用語と言ったほうが正確なんじゃなかろうかと思うのですがどうでしょうか。「お祈り」と言えば通じるんだし、そのほうが早いと思います。

都知事がまた懲りもせず「エッセンシャルワーカー」などと言うもので、案の定「エッセンシャルワーカーってどういう意味」という人がたくさん出てきています。あのひとは、まず「非常時」という言葉の意味を理解することから始めたほうがいいのではないかと思います。できれば、二度と選ばれないようにと願うばかりです。

記事に戻りましょう。こうもあります。

個人で行うディボーションはなかなか続かないのが現実ではないでしょうか。
「長続きしない」
「聖書のどこを読んでいいかわからない」
「読んだ聖書箇所の意味がよくわからない」
「ワンパターンになってしまう」

この表現は、キリスト教的には間違いです。「祈り」というのであれば、最低でも、一人の人と神の二者で行うものであるのですから、「個人で行うディボーション」ということはそもそも成立しないはずだからです。

しかし、それは「キリスト教的」には、ということであって、実際には神がいて、人と会話が行われるわけではありません。神なんて空想に過ぎないのです。だから、「長続きしない」わけです。

このサイトの記事は、「ディボーション」を上手に行うためには、

教会で月刊ディボーション雑誌「マナ」を使ってみてはいかがでしょうか。体系的でバランスのとれた聖書テキストの選定、日本人執筆者による解説とメッセージ、また、書き込みのできる欄も設けてあるので、ディボーション手帳、祈りの日記として活用できます。

我社の出版物を購入しなさい、と言っていますね。いかがでしょうか、キリスト教徒であっても、神と対話しようとするためには、無料では上手く行かないのだ、ということのようです(笑)。

教会でクラスター発生

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www.tokai-tv.com

愛知県豊田市キリスト教教会で、新型コロナウイルスクラスターが発生したという報道がありました。上記東海テレビの記事から引用しましょう。

 12日までに29人の感染が判明していた集会所のクラスターでは、新たに豊田市の10歳未満から60代の男女7人が陽性とわかりました。大村知事は13日の会見でこのクラスターがキリスト教の教会で発生したことを明らかにしました。

 この教会では、午後2時から4時までと午後6時から8時までの2部制でそれぞれ50人と80人が集まって会話や食事をしていたということですが、教会の管理者によると、検温やマスクの着用、換気は実施し、席の間隔もあけていたということです。

 大村知事は「宗教行事かもしれないがこういうコロナの状況で密になって大声で歌ったことは極めて遺憾」などと述べ、豊田市と協議して厳正に対処するとしています。

イースター礼拝に大勢の信者が集まり、大声でうたを歌っていた、という他の記事もあります。ロックとかフォークソング礼拝だったのでしょうか。

いずれにせよ、キリスト教徒が神の指導を守ろうとして、神の家に集まって神をほめ讃えた結果、死をもたらす病を蔓延させてしまったわけです。神が存在すると言うのであれば、神は人が新型コロナに感染し、できれば、死に絶えてしまえ、と望んでいることになりますね。

以前見た「神は死んだのか」という映画を思い出しました。

synca.jp

クリスチャンの学生が、無神論者の哲学教師に、神は存在しない、と認めるように強要されて苦しむのですが、この教師は最後に交通事故に遭って死んでしまいます。事故の現場には偶然牧師がいて、今、神を認めれば死後幸福になれる、さあ、どうするんだ、と、瀕死の教師に迫ります。そう言われて無神論者の教師は、神を認める、と答えるのですが、牧師はさらに、もうすぐ神に会えるぞ、とささやきます。

牧師が「もうすぐ救急車が来るから頑張れ」とは言わず、「もうすぐ死ぬから死後の準備をしろ」と言うことにも驚くのですが、「神を認めさえすれば死後は安楽」と言って、神の意志を代弁することにも違和感があります。本当にそうなのでしょうか。

少なくとも、キリスト教徒にとって神とは、死ななければ会えない存在なんだな、と思いました。キリスト教の神は「死んだ者の神」に過ぎないのです。

豊田のイースター礼拝に集まったクリスチャンたちも早く神に会いたかったのでしょうか。