キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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茶道の心とキリスト教

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kengunlutheranchurch.blogspot.com

上に貼った写真とサイトは日本福音ルーテル健軍教会の「茶道の心を学ぶ」という記事です。引用してみましょう。

この日は、昨年来日した米国からの短期信徒宣教師の方々の日本文化研修の日でした。岩野房子先生のお宅で、茶道のもてなしのこころを学びした。

とあります。

たしかに、茶の湯にはもてなしの心得が含まれていて、重要な学習項目の一つであると思います。しかしそれは、いわば、茶杓で棗から茶を掬うときは云々と同じような問題なのではないかと思います。

南方録の覚書から引用してみましょう。

小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て、修行得道することなり。

侘び茶とは、本来、仏教の教えを学んで悟りを志すことである。と言っています。もう少し読んで見ましょう。

家居の結構、食事の珍味を楽しみとするは俗世の事なり。家はもらぬほど、食事はうえぬほどにて足る事なり。是仏の教え、茶の湯の本意なり。水を運び、薪をとり、湯を沸かし、茶を点てて、仏にそなえ人にほどこし、吾ものむ。花を立て香を焚く、みなみな仏祖の行いの跡を学ぶなり。

茶を点てるということは、まずは仏に供え、その法を尊ぶことであり、その心があって初めて人をもてなすことができるのだ、と言っていますね。茶を点てること、花を立てること、香を焚くこと、全てお釈迦様のみ教えに触れ、知ることである、とも言っています。

さて、キリスト教の教会で茶の湯を学ぶとは、一体どういうことなのでしょうか。仏の法に帰依して清浄無垢の仏世界に思いを致したい、と望んだからでしょうか。

おそらくは違うでしょうね。儀式的な作法でもって菓子を食わせて茶を飲ませて見せて、どうだ、おもしろかっただろう、菓子も茶も格別美味かっただろう、どうなんだ、というわけです。そんなことは「もてなし」とは言いません。「見世物」というのです。しかも、キリスト教会を訪れたキリスト教徒に対して、仏教の修法を意味もわけも分からずただ「演じて」見せただけです。申し訳ありませんが、これほど無意味で滑稽なことは他にはないでしょう。キリスト教に対する理解も同じくこの程度のことなのではないでしょうか。

話は変わるのですが、以前、京都のある寺に外国人の青年が雲水として入ったのですが、彼はカトリック信者でもあったので、日曜日には近くのカトリック教会のミサに参加して聖体を拝領していたのだそうです。仏教は宗教ではありませんし、境内にはたいてい鎮守の神が祀られていることでもあり、雲水がクリスチャンでもある、という状態はあり得ないわけでもないのでしょうが、よほど理解のある師家(指導者)だったのではないかと推察します。

お釈迦様は宗教に拘泥することも迷いであって、悟りから遠ざかる 所以の一つである、と指摘されています。

キリスト教徒が茶の湯を学んではいけない、と言うつもりはないのですが、意味わかってやってるの、とは言いたい感じがします。茶道、華道は、仏教を学び極めようと志した人に与えられた一つの道であるわけです。普段は偶像崇拝だと蔑んでいるくせに、都合によっては表面だけつまみ食いしているわけですよね。それは程度低いよね、と言わざるを得ません。