キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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「フリー聖餐」とは

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最近「フリー聖餐」という言葉を耳にします。Wikiの「フリー聖餐」を見てみましょう。

フリー聖餐(ふりーせいさん)とは、キリスト教の聖餐論で、洗礼を受けているか受けていないか、またキリスト教信仰の有無に関わらずに、礼拝参加者に聖餐に与からせること。公開聖餐、未受洗者配餐とも言う。オープン聖餐(オープン・コミュニオン)とは、必ずしも同義ではない。

と説明されているようです。

肯定論の根拠としては

芳賀力によれば、フリー聖餐肯定論の主張は概ね以下のようなものである。

「せっかく教会に来てくれたのに、洗礼をうけていないから聖餐は受けられませんというのでは、締め出しているようで申し訳ない。まず一緒に楽しくパンを食べ、ぶどう酒を飲むことを体験してもらって仲間になってもらえば、そこから洗礼を受ける者も現れるのではないかというわけです。主イエスも罪人呼ばわりされていた人たちと一緒に食事をしたではないか。それに福音書には五千人、四千人の給食の話も伝わっている。あれは神の国が来た時に、ユダヤ人(五千人)も異邦人(四千人)もすべての者が招かれて祝宴を催す、その先取りであって、そこには洗礼を授けていたという記事は、マルコ・マタイ・ルカなどの共観福音書には見当たらない。聖餐式の原型と言われる最後の晩餐にしても、そこには主を裏切ったユダも加わっていた。だから信仰だとか洗礼だとか、とやかく言わないで、その場にいる者全員に、大人も子供も、たとえ意味が分からなくてもパンを食べぶどう酒を飲んでもらおう」
—芳賀力『洗礼から聖餐へ』11ページ

また、世界教会協議会(WCC)のエキュメニカル運動の中で、一部の人たちが「神ご自身が教会を飛び越して、直接世界にさまざまな仕方で働きかけておられ、教会はただその神の宣教に参加しているだけだ」と考えるべきという主張をしており、聖餐の行為自体が神の宣教への参与なのだから、未受洗者に陪餐してもらうことが伝道であり、それが世界の趨勢だという主張もある。

富田正樹は、フリー聖餐を肯定する論述の中で、「人間には贖いが必要ではない」と述べている。

 とあり、否定論の根拠は、

2006年6月27日、日本基督教団の信仰職制委員会は、教規第135条「信徒は、陪餐会員および未陪餐会員に分けて登録しなければならない。ただし、未陪餐会員のない教会ではこの限りでない。」および第138条(1)「未陪餐会員とは、幼児で父母の信仰に基づきバプテスマを領し、まだ聖餐に陪しえない者をいう。」、第136条「陪餐会員とは、信仰を告白してバプテスマを領した者、または未陪餐会員で堅信礼または信仰告白式を了した者をいう。」を根拠に、未受洗者が聖餐に与ることはできず、未受洗者への配餐を教会総会および教会役員会で決議した場合、教規に違反する決議となるため無効である、と答申した。

これは、日本基督教団の教憲教規に照らし合わせての判断であり、東野尚志は「どうしても、この一致の要を共有できないのであれば、新しい教団を造ればよいのである。それを妨げるものは地上には存在しない。」と述べた。

とあります。

どちらの主張もそれぞれごもっともというところでしょう。肯定派の信徒はご自分の気持ちに叶う肯定派の教会へ所属すればよろしいでしょうし、否定派もまた然りです。

ただ、肯定派について一言申し上げるとすれば、

『大人も子どもも、意味の分かる人もわからない人もみな共に、と言うのであれば、なぜ、人と人とを区別するための儀式である「礼典」にこだわるのですか、そんなこと、止めてしまえば早いのではないですか。 』

ということでしょう。意味がわからなくておこなっても別に構わない、というのであれば、それは、おこなわなくても構わない、ということです。人と人とを区別することが不適当であるように感じるのであれば、キリスト教徒であると自覚すること、それそのものが不適当であるはずです。

事実、救世軍とクエーカーは洗礼も聖餐も行いません。キリスト教の本質は儀式を執り行うことのなかには存在しない、と理解しているからです。

エス様が最後の晩餐で、このことを私の記念として行いなさい、と述べられたのは、キリストの示唆が日常生活の中だけに生きるべきであることを明らかにするためであったのです。少なくとも宗教や儀式に成り下がってはならない、という切実な願いを伺い知ることができるでしょう。しかし、実際はキリスト教という宗教が、聖餐式という儀式を行っているのです。実に裏腹で陳腐な現実です。

おわかりでしょうか、「聖餐式」がフリーであろうとなかろうとその結果に大差は無い、ということです。また、洗礼を受けた人が、受けていない人に比較して明らかに優れているかといえば、別に何も無いように思えます(笑)。