「マナの使い方」というサイトを見つけました。上記のサイトです。
キリスト教界では日々の生活の中で時間を取り分けて聖書を読み、祈りに専念することを、ディボーションとか、メディテーション、静思の時などと呼んでいます。
とありますが、僕は初耳でした。キリスト教用語というよりは、精神医学とか心理学の用語と言ったほうが正確なんじゃなかろうかと思うのですがどうでしょうか。「お祈り」と言えば通じるんだし、そのほうが早いと思います。
某都知事がまた懲りもせず「エッセンシャルワーカー」などと言うもので、案の定「エッセンシャルワーカーってどういう意味」という人がたくさん出てきています。あのひとは、まず「非常時」という言葉の意味を理解することから始めたほうがいいのではないかと思います。できれば、二度と選ばれないようにと願うばかりです。
記事に戻りましょう。こうもあります。
個人で行うディボーションはなかなか続かないのが現実ではないでしょうか。
「長続きしない」
「聖書のどこを読んでいいかわからない」
「読んだ聖書箇所の意味がよくわからない」
「ワンパターンになってしまう」
この表現は、キリスト教的には間違いです。「祈り」というのであれば、最低でも、一人の人と神の二者で行うものであるのですから、「個人で行うディボーション」ということはそもそも成立しないはずだからです。
しかし、それは「キリスト教的」には、ということであって、実際には神がいて、人と会話が行われるわけではありません。神なんて空想に過ぎないのです。だから、「長続きしない」わけです。
このサイトの記事は、「ディボーション」を上手に行うためには、
教会で月刊ディボーション雑誌「マナ」を使ってみてはいかがでしょうか。体系的でバランスのとれた聖書テキストの選定、日本人執筆者による解説とメッセージ、また、書き込みのできる欄も設けてあるので、ディボーション手帳、祈りの日記として活用できます。
我社の出版物を購入しなさい、と言っていますね。いかがでしょうか、キリスト教徒であっても、神と対話しようとするためには、無料では上手く行かないのだ、ということのようです(笑)。