聖書、とりわけ福音書にあるイエス様の言葉は、クリスチャンの道具として活用されるのを耳目にします。特に次の箇所です。
マタイ 7:1-6
人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
僕は一度、教会で、「そんなに口汚く人を罵るものではありませんよ」と言ってしまったことがあるのですが、そういったとたん、その人の目が三角形に変形し、つり上がって、頬を紅潮させ、いわゆる「怒髪天」の状態になって「君は私を裁くのか、裁くものは裁かれる。君も裁かれるんだぞ」と、恐怖の大予言を授かってしまったことを覚えています。
しかし、僕はこの人をさばいているでしょうか。さばいているのではなくて、指摘、または提案をおこなっている、と理解すべきだと思うのですがどうでしょうか。
この例の他にも、「裁くな」の箇所を濫用するクリスチャンは多いように思います。「目の梁」についてもも同様でしょう。
「豚に真珠」については、ある牧師が、講壇からいくら良い説教をしても、聞き手が良くなければ無駄なことで、豚に真珠を投げてやるようなものだ。できればそんな馬鹿げた仕事はしたくない、というようなことを大真面目で話するのを聞いたことがあります。
聴衆が豚かどうかより、お前の説教が真珠かどうかのほうが問題なんじゃないのか、と胸の内に思ったことを思い出します。
いかがでしょうか、クリスチャンなどと言う手合は、神の真理に惹かされてそうなったものはほとんどいません。便利な装身具を手に入れておくか、程度の欲得ずくに過ぎないのです。「クリスチャン」というゲーマーにとって「聖書」とは、「キリスト教」というゲームのなかの、ソードやシールドといった「アイテム」に過ぎないのです。
随分高額な料金が必要な糞ゲーだと思いますよ。ちなみに「神学」というのはこのゲーム用のマニュアルとして発展した似非学問です。宇宙一どうでもいい分野だと思います(笑)。