キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

「不思議なキリスト教」に群がる人たち

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アダムの創造 ミケランジェロ 西洋絵画美術館


ふしぎなキリスト教」という講談社の現代新書があります。このブログをご訪問くださる方でしたら耳にされたことがあるでしょう。それで、その内容を批判する

というサイトがあることは予てから知っていました。知っていた、というよりは、このサイトを発見したので「ふしぎなキリスト教」という著作物があることを知ったのです。以前のブログでも取り上げましたが、最近また新しいことがわかりました。次のサイトです。

こういう批判サイトを開設するのは、キリスト教がよくわかっていない新興キリスト教のにわか信徒か、単立教会のなんちゃって牧師か、いずれそういう手合が脊髄反射しちゃってるんだろうと思っていたのですが、実際は日本ハリストス正教会の神父だったのです。

と言ってもさほど驚きはしませんでした。駿河台のニコライ堂など、何回か正教の礼拝を見学したり、信者や教役者と話したことがありますが、どうもチャラチャラしているというか、不真面目な感じのする人は多かったです。ニコライ堂の礼拝を見学していたときに、東大で教えている、というフランス人の信者のおじさんに誘われて、広尾の自宅までのこのこ付いていったことがあるのですが、結局同性愛目的だということがわかって、早々に退散した、というようなこともありました。礼拝式など荘厳で建物も立派なのですが、まあ、見掛け倒し、中身はスカスカ、ということなんでしょうか。

そもそも、ただケチをつけているような稚拙な内容に、ムキになって殴りかかっているようなもので、とても滑稽な感じです。

前のサイトでも取り上げた内容なのですが、再度引用してみましょう。

疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 - ふしぎなキリスト教 @ ウィキ - アットウィキ

橋爪氏は「人間の目の前をヤハウェが歩き回っている」「だいたい人間と同じ大きさ」と、「創世記を読んで受ける印象」をまとめた上で、「神がもともと姿もなく、世界の外にあって世界を創造した絶対の存在であることと、人間に姿が似ていて、エデンの園を歩き回ったりしていることは、矛盾しないか。」と述べている。

 これに対しての神父の批判が

前提がどちらも間違っている。

「人間の目の前をヤハウェが歩き回っている」「だいたい人間と同じ大きさ」そのような記述は創世記のどこにも無い。「主なる神の歩まれる音を聞いた」(創世記3:8)の記述を念頭に置いているのかもしれないが、ここでは「音」しか聞こえておらず、姿は見えていない(この「音」の単語・訳語を巡り解釈は割れており、瑣末な問題とは捉えられない)。「だいたい人間と同じ大きさ」に至っては、一切記述がない。「かたちに似せて」作ったものであっても、等身大とは必ずしも限らないことは、世間にある人形、ぬいぐるみ、模型などを見ても明らかであろうが、橋爪氏には「似せて」=「等身大」というふしぎな思い込みがあるようである。

また、「神が世界の外にあって」というのも典拠不明の珍説。少なくともキリスト教ではそのように教えられていない。橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、ここにも橋爪氏の大枠で一貫した誤解が示されている。→聖書篇(p75, p76)、神学篇(p312)も参照。

勝手に、誰も言っても書いてもいない、自分の思い込みを二つ並べ「矛盾しているのでは?」と問いかける橋爪氏。誰も言っても書いても居ないふしぎな独自解釈を前提に、独自議論を展開してふしぎがる。ふしぎ拡大再生産。

 

 創世記 3:8-13を読んでみましょう。

彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。

 神がだいたい自分たちと同じ大きさであることを知っているから、アダムは神の顔を避けて身を隠そうとした、と理解するべきでしょうね。また、神は「あなたはどこにいるのか」と呼びかけています。神の身長が10メートルほどあるのであれば、聞くまでもなくわかるはずです。聖書が示唆する論理的な意味合いを別にするのであれば、この箇所が読者に与える印象は、「人間の目の前をヤハウェが歩き回っている」「だいたい人間と同じ大きさ」で間違いないと思います。それに、文章を読んで受ける印象さえ、万人が一様でなければならないものでしょうか。

「世界の外にあって世界を創造した」は、上のミケランジェロフレスコ画で、神が空中から指をもって、アダムを創造していることからもわかるように、神は、空中、すなわち異なる世界から、間接的にこの世を創造したのだろう、と考えることはそう外れたことではないと思います。であれば、足音が聞こえるほどアダムのそばにいた、と記述されていることとは矛盾しないか、と思うことは自然なことだと思います。

「そう思ってはいけない」「そう思っていると表明してはならない」と言って、人の心までおもうがままに操ろうとするのがキリスト教側のやり口だということがよくわかりますよね。