キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

日本人がキリスト教にハマらない理由

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www.christiantoday.co.jp

 

日本におけるキリスト教の歴史は、早ければ飛鳥時代景教ネストリウス派教義)として中国からもたらされたと推察できる痕跡があり(上記記事参照)、もっと確かなものであれば、戦国時代にスペインからカトリックが伝えられています。つまり、歴史としては結構長くて、少なくとも500年以上我が国はキリスト教との関わりを持っていることになります。

ところが、現状のキリスト教徒の人数は、国民全体のわずか0.04%程度に過ぎない、と言われているのです。なぜでしょうか。

その理由について、当サイト流に推測し、次のようにまとめてみました。

 

理由1:死生観の違いを吸収できなかった

しばやんさんの次の記事をお読み下さい。

shibayan1954.blog.fc2.com

引用させていただきましょう。

「日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私達が教えること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救われないことを、非常に悲しむのである。亡くなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に、彼らの悲しんでいる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、或いは施與、或いは祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだろうかとたづねる。私は助ける方法はないと答えるばかりである。」(「聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)」岩波文庫p.119-120)

「この悲嘆は、頗る大きい。けれども私は、彼等が自分の救霊を忽がせにしないように、又彼等が祖先と共に、永劫の苦しみの処へは堕ちないようにと望んでいるから、彼等の悲嘆については別に悲しく思わない。しかし、何故神は地獄の人を救うことができないか、とか、なぜいつまでも地獄にいなければならないのか、というような質問が出るので、私は彼等の満足のいくまで答える。彼等は、自分の祖先が救われないことを知ると、泣くことを已めない。私がこんなに愛している友人達が、手の施しのようのないことについて泣いているのを見て、私も悲しくなってくる。」(同P.120)

聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)」からこの箇所を引いて、しばやんさんは次のように述べておられます。

当時の日本人が、キリスト教を受け入れがたいと思った重要なポイントがこの辺にあったのではないだろうか。自分の祖先がキリスト教を信じていなかったという理由でみんな地獄へ落ちると言われては、自分の祖先を大切に思う日本人の大半が入信できなかったことは私には当然のことのように思える。

現在の教義であれば、異教徒のまま亡くなってしまったからと言って、100%地獄へ堕ちるとは言わないのでしょうが、当時はそう教えたのでしょう。おそらく、しばやんさんのおっしゃるとおり、自分の祖先を大切に思う日本人の大半は、この説明を聞いて入信を断念したのであろうと想像できます。

しかし、考えてみればこれは腑に落ちないことです。かれらが心の底からキリスト教を信じていたのであれば、過去の人が地獄に堕ちたのは悲しいけれども、現実的に自分たちや子孫が地獄で苦しまないためには、一刻も早く入信しなくてはならない、と判断するべきであったはずだからです。

おそらく、彼らが拒否したかったのは、「そのような現実」ではなくて、「そのような考え方」だったのではないでしょうか。かれらが悲しんだのは、地獄へ堕ちた肉親ではなくて、人の一生を、そのような硬直した考えで単純に断定することしかできない、キリスト教というお粗末な思想と、それに振り回されている宣教師たちに対してだったのではないでしょうか。

キリスト教は、日本へ入ってきた時点で、ある程度排斥されていた、と見て良いと思います。宣教師の話を聞いた日本人の大半は、その偽善を見抜いていたわけです。

 

理由2:うまく記号化できなかった

宗教というのは、人生を人に説明するために、なにをどう記号化するのか、というところにそれぞれの価値があると思います。たとえば仏教であれば、人間は生きているうちに完璧な存在になれるよう努力すること、を目標にし、「死」がその最高のモデルであると考え、そのように教えたわけです(死が生よりも尊い、とか、人間は死ぬべきだ、と教えている、という意味ではありません)。これは分かりやすい記号化でした。日本人にも受け入れやすかったのです。

一方、キリスト教は、仏教と同様に、完璧な存在となれることを目標に据えることまではよかったのですが、仏教には存在しない「神」を想定に加えてしまったので説明があやふやになってしまっているように思います。某SNSを見ていても、聖書に出現する「贖い」とか「犠牲」とか言ったような言い回しをうまく消化できていない様子がわかります。遠く離れた地方で発生した宗教の、地域に独特な要素から違和感を拭い去ることができていないのです。

つまり、キリスト教は、日本人に納得できるような形での「記号化」を行うことができなかった、ということです。わかりやすく言えば、「神は絶対に存在する」と言ってはいけなかったのだ、ということです。仏様はあなた方の心の中に存在する。神社の神様は前向きに生きる人には存在するが、後ろ向きの人とは共に存在しない、というように理解するのが日本人の宗教観なのです。記号化に失敗した宗教は、日本人にとってはオカルトでしかありません。

 

理由3:好ましいサンプルが無い

キリスト教に入信すれば、このように倣うべき人間形成がなされ得るのだ、というサンプルが存在しません。某SNSを眺めていれば説明するまでも無いのですが、毎日精神障害の病状を愚痴る牧師がいたり、キリスト教徒同士がお互いの考えにケチをつけ合っていたり。キリスト教って良いものなんだな、と思わせる要素が見当たらないのです。

 

理由4:いちいち面倒くさい

キリスト教に惹かれる理由のほとんどは「西洋文化にあこがれて」のようなものだと思います。赤毛のアンを読んで長老教会に行ったり、モーツァルトのレクイエムに感動してカトリック教会の礼拝を見に行ったり、という類です。

しかし、いざ入信となると、まずは入門講座に半年から1年ほど通って、出席率と理解度を測られ、社交性はどうか、危険は無いか、などとチェックされます。晴れて受洗となった後は、やれ青年会だの祈祷会だの賛美歌の練習だので休日は潰れるし、月例献金だの特別献金だので出費もバカになりません。西洋文化に親しめればそれだけで良かったのに、こんな面倒なことになるなんて予想外だった。はやく止めておくべきだった、ということになるわけです。

毎週礼拝に出席して献金を負担し、役員もやって聖歌隊もやって、なんて、本場欧米のキリスト教国にだってそんな人はいないと思いますよ。いたとしたらネオナチのような極右運動家でしょう。

宗教なんて言うものは、信じる側の都合に合わせて気楽に利用できるようなものでなくてはならないのです。聖餐なんかも、神社の直会のように、例えば5000円以上のお祓いを行った人にはだれにでも随時に受けられる、というように、日本人の宗教観に合わせて修正できるなら、もう少しは信者も獲得できるようになっていくんじゃないでしょうか。

定額献金は、せいぜい年に1万円程度が上限でしょう。集金のためには、神社の崇敬会と同じように、年に一度振り込み用紙を信者家庭に郵送したり、賽銭箱を目立つように設置したり、教会グッズを通りすがりの人に売って小銭を稼げるようにしてはどうでしょうか。

キリスト教は「ダメダメ教」です。それをやってはダメ、それはそうしなくてはダメ、あれはダメ、どれもダメ、ダメダメダメダメ。ダメダメ教なのです。そのほうが楽、なんでもダメと言ってほしい、と希望されるタイプの人には向いているかもしれないのですが、ほとんどの日本人には、キリスト教はバカの人用の面倒くさい宗教、と思われてしまうでしょう。 

 

まあ、こんな感じで、最低限以上のインテリジェンスがある人であれば、キリスト教には深入りしないだろうと思うのですが、日本人がキリスト教にハマらない理由はこのようなものでしょう。

福音派原理主義者の聖書理解

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dot.asahi.com

 

今回も、前回記事と同じ、ノアの箱舟に関する同じ記事の話題から、前回と同じ箇所を引用してみましょう。

 世界は神が6千年前に6日間で創造したと信じるハムらのグループは、建設費約1億ドルを信者の寄付で賄った。同紙によると、建設に関わった従業員には「信仰の声明」にサインをさせ、教義に同意しない人や同性愛者は雇用しなかった。さらに、人工中絶賛成派、無神論者、同性愛者などの「悪」が「蔓延」する現代については、

「世俗化が進む今日は、まさにノアの時代に似通ってきている」(ハム)

 と同紙に語っている。 

世界が6000年前に創造された、という箇所については、ちょっとあまりにもどうかと思いますので、論外ということでそっとしておくことにして、問題は

人工中絶賛成派、無神論者、同性愛者などの「悪」

 という考え方についてです。

 

まず、「人工中絶賛成派」が悪である、という考えですが、これは十戒に「殺してはならない」という一条があるので、人工中絶は「殺す」ということなのだから即ち「悪」である、ということになっているのだと思うのですが、十戒の「殺すな」は、何が何でも絶対に殺すな、という意味ではありません。

モーセの十戒「殺してはならない」は、全ての殺人に当てはまるのではない~出エジプト記20章から - アメリカ帰国者が日々の出来事・人生・世の中などを語るブログ

というサイトにもありますが、この一条は、

この「人を殺してはならない」という個所は、旧約聖書出エジプト記20章13節に記載されているが、英語では"murder"と翻訳されており、これは明らかに不法に人を殺害したこと指す。また、聖書の原文のヘブル語では、「ラツァック」という言葉が使われ、これは人が故意に、又は計画的に、不法に人を殺害した場合だけを指している。

とある通りの意味です。

エス様は、オリブ山での変容において、ご自身が「律法」そのものであり、「預言」そのものであることを示されましたが、安息日に麦畑で麦の穂を摘んで食べて、新約下の世界では、旧約の律法にとらわれず、民衆の叡智の中に生きている神の恵み(それぞれの国によって定められた法)によって律しつつ生きていきなさい、と言われているのです。

「人工中絶は悪」という決めつけは、これからは律法に縛られるな、という指導に反していることはもちろんなのですが、仮に十戒を守りたいと考えているとしても、その元々の本意を見誤っていることになるでしょう。それぞれのケースによって理由があるのでしょうから、ひとくくりにしてどれもこれも悪、と決めつけることは、正しいこととは思えません。

 

次に「無神論者」が悪である、という考えですが、例えば、

マタイ 9:13

わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである

マタイ 18:12-13

あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。

などをみれば、イエス様からみて招いていない義人が、無神論者か原理主義者のどちらであるのかは明白だ思います。無神論者が罪人である、とか従わない一匹である、と言っているのではなくて、原理主義者の、自分は間違っていない、すでに救われた特別な存在(義人)である、というような高慢な考えが「アンチキリスト的」である、ということなのではないでしょうか。

また、マタイ 8:5、マタイ 15:21 などを読んだことがあれば、イエス様は異教徒を嫌っていたわけではなく、むしろ、異教徒に教え、その可能性の大きさを評価している、ということが言えるはずです。無神論者を「悪」だと断定することは、いかに福音書を理解していないか、また親しんでいないか、ということの証明であるかのように思います。

 

最後に「同性愛者」が悪である、ということについてですが、これに至っては、聖書のどこをひっくり返してもそんなことは一言も書かれていません。

といえば、バカなことを言うな、はっきり書いてあるではないか、と思われたでしょう。次の箇所のことでしょうか。

レビ記 18:22

あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。

しかし、この文章のどこに「同性愛者は犯罪者」だという示唆が含まれているでしょうか。これで同性愛者を断罪せねばならないのであれば、

レビ記 18:17

あなたは女とその娘とを一緒に犯してはならない。またその女のむすこの娘、またはその娘の娘を取って、これを犯してはならない。

という文章を読んで、異性愛者はそういうことをすることができるはずなので、全ての異性愛者は犯罪者だ、と言っているのと同じことだと思います。

そう言うと、私は異性愛者だがそんなことはしない、と思われた人もいるでしょう。同性愛者も同様だと思いますよ。同性愛者だからといって全部が全部誰彼となく性交渉を行うわけではないでしょう。レビ記は、淫らな性交渉を行うことを禁じているのであって、性的傾向が同性愛か異性愛かを問題にしているわけではない、ということです。

福音書を読んで、イエス様が示された法と預言に関する考えを理解することができたのであれば、「同性愛者は悪」などという非福音的な発想は行えないはずです。

 

いかがでしょうか、「人工中絶賛成派、無神論者、同性愛者などが『悪』である」としか理解できない「福音派原理主義」の人たちが信じているものは「キリスト教」であるとは言い難いでしょう。しかし、キリスト教プロテスタントといえば、一般的にまず頭に浮かぶのは「福音派原理主義」です。残念ながらそれが現実です。

福音派原理主義者の価値観

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dot.asahi.com

 

創世記に登場する「ノアの箱舟」のお話はみなさんもよくご存知だと思います。上に貼った記事は、アメリカの原理主義者たちが、その「ノアの箱舟」を、聖書に記された寸法通りに再現した、ということを伝える記事です。

記事から引用してみましょう。

箱舟博物館建設を計画したキリスト教原理主義者のグループ「答えは創世記に」の創始者ケン・ハム(64)は、米紙ニューヨーク・タイムズにこう語っている。
ノアの箱舟は、ディズニーのようなテーマパークではない。これを造ったのは、宗教的な理由だ。キリスト教信者としてメッセージを伝えるために造った」

「宗教的な理由」によってこの箱舟を作ったのだ、と言っていますね。それでは、創世記 9:9-11 を読んでみましょう。

「わたしはあなたがた及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。

神自身が「すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」と言っています。人を滅ぼす洪水は二度と起こさない、という約束、つまり、神と人との間に交わされた契約があるにも関わらず、再び箱舟を建造する宗教的なメッセージとは一体何なのでしょうか。僕には、神の約束を疑い、洪水を恐れ、神に背いて勝手に箱舟を建築することは、神への反逆であるように思えるのですがどうなのでしょうか。

記事の続きを読みましょう。

世界は神が6千年前に6日間で創造したと信じるハムらのグループは、建設費約1億ドルを信者の寄付で賄った。同紙によると、建設に関わった従業員には「信仰の声明」にサインをさせ、教義に同意しない人や同性愛者は雇用しなかった。さらに、人工中絶賛成派、無神論者、同性愛者などの「悪」が「蔓延」する現代については、

「世俗化が進む今日は、まさにノアの時代に似通ってきている」(ハム)

と同紙に語っている。

この箱舟を建築するための費用は1億ドルだったと記されています。2020年8月27日の為替レート105.99円によれば、日本円でおよそ106億円です。

いかがでしょうか。「神のものを盗むな」と言って信者から強請りとった献金で贅沢な生活をし、余った金の使いみちとして選んだ結果が「ノアの箱舟建築」だったのです。僕なら到底納得のできる金の使い方ではない、と抗議するところでしょうが、強請りとるほうのセンスも最悪ですが、実際は取られる方も似たようなものです。次の発言を見てください。

南部テキサス州ダラスから来たという自称「イエス・キリストオタク」、パトリック・ブライデニック(52)は、記者のために祈りたいと手を握ったまま、こう言った。

「箱舟はあったのだと信じている。創世記が記された死海文書だって発見されている。紀元前のものだ。自分の中のイエス・キリストが、キリスト教のメッセージをいろんな人に伝えるようにと言うので、やって来た」

旧式のカメラを記者に渡し、記念撮影を頼んできた老夫婦も、満面の笑みで臆することなく言った。

「箱舟を信じているわ。一生の思い出になる」

テーマパークだと思っているようにしか聞こえません(笑)。

次の引用で今回の記事の締めとしておきましょう。

入館記念の合成写真を見ると、記者の横には、背に鋭いとげのある恐竜が、チーターやチンパンジーとともに写っていた。地球の年齢は約45億歳で、恐竜の時代には人類は誕生しておらず、動物は進化により種を増やしてきたという現代の常識は、館内では完全に無視されている。

 

教会はブラック企業と同じ構造

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www.kirishin.com

 

キリスト教新聞電子版に、

私が教会を離れた理由 ブラック企業のパワハラと同じ構造 特集「改めて〝和解〟を問う」番外編 Ministry 2018年夏・第38号

という記事があります。匿名で寄せられた手記を記事にしたもの、と紹介されています。

記事をみますと、手記の筆者は、幼少期にいろいろな問題を抱えながら生長し、両親にも問題があって、大学時代にも、就職先の企業にも、その後の信仰生活にもいろいろな問題があり、それらをくぐり抜けてきた有様を赤裸々に綴っておられます。まあ、これだけひっきりなしに問題が発生すれば、退屈とは無縁の刺激的な毎日だったのではないかと拝察するのですが、

中でも興味深い部分を少し引用してみましょう。

私にとってこれは挫折の経験でした。しかし同時に、今まで関わってきた教会が、この会社のありように似ていることに気づきました。「ともかく会社の言うことは絶対」というような、「ともかく神が絶対」という大前提。異を唱えず従うようになることが「成長」。何があっても出社することがまっとうな社会人という価値観と同様に、何があっても礼拝に出るべきという信仰。退職者を「救いようのないダメな人」と揶揄するように、教会を離れた人を「神のみ心に沿わなかった人」と扱う姿勢。悪影響を受けるので退職者との関わりを禁ずるように、教会でもサタンの扱い。1対1の場面では、「先生が」「教会が」「祈ったら」「部長が」「会社が」「直接相談したら」と、誰も責任を取らない。全員で毎度同じ心得を復唱し、偉い人の話を聞いて最後に拍手するという全体朝礼は、教会の礼拝とそっくりでした。

入った会社がブラック企業だった、というのはお気の毒とは思いますが、それでも自分でその会社を選び、いわば好んで飛び込んだのですから、ある程度「仕方がない」と言えなくもないのでしょうが、教会が理不尽なことを言い出すのであれば、行くのをやめればいいだけだと思います。

このころ、母教会の牧師が教会会計から不当に収入を得ていたことが明るみになり、大騒ぎになりました。何年も前の総会議案の中に、「教会の積立は必要に応じて別の使途に使える」という変更をこっそりと盛り込んで賛成採決をとりつけ、会堂維持の積立を崩して自分の給与にしていたのです。子どもたちがみなバイトもせずに都会の私立大に通い、本人は人権派牧師として沖縄問題、憲法問題のため日本中を飛び回れていた理由は、ベテラン地方公務員以上の高収入でした。私が幼いころから20年間真理を求めて頼った牧師は、羊の弱みに付け込んで徹底的に食い荒らす狼のような詐欺師でした。私がブラック企業の給料から信仰の証として納めた何十万円もの献金も闇に解けました。信仰の土台が音を立てて崩れた瞬間でした。

お気の毒とは思うのですが、20年間付き合い続けた牧師の詐欺的傾向を見抜けないなんてどうかしてるとしか思えませんよね。全く何も気づかなかったのでしょうか。

まあ、キリスト教の奇妙奇天烈な教義に疑問一つ感じもしないで、毎週懲りずに変な説教を聴きに通うような輩は、詐欺牧師にしてみれば格好の餌食なのかもしれませんけど。

みなさんもどうぞ気をつけてください(笑)。

福音とパラドクス

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9to5mac.com

前回の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

に次のようなコメントを頂きました。

信者が資産をすべて売らなければならないのなら、誰かが買わなければなりません。この教えをまじめに実践しようとすると、社会が成り立たなくなるというか、まじめでない人に冨が集中しますね。
理解が浅いのかもしれませんが、変な教義だと思います。 

確かにその通りですよね。

僕は、教会が付けた手垢で真っ黒になった聖書解釈から、なるべく純潔に近くなるよう、余計なものを取り除いてご紹介しようと努めていたつもりだったのですが、悪臭を嗅ぎ分ける力を完全に回復できていないことを教えて頂いた気持ちがします。

もう一度マタイの福音書 19:21-22 を読んでみましょう。

エスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。 

これは、福音書の中でも最も重要な提言です。総ての所有物を売却し、その対価を貧しいもののために使いなさい、とあって、無一文になって、初めて、イエス様に従っていきる資格が得られるのだ、と説明されているのです。

この言葉には、物理的な所有物ばかりでなく、様々な欲望、中でも自尊心を捨て去ることが重要だ、という意味合いが含まれているでしょうが、物理的な所有物を処理するためには「売り払う」という方法が示されています。

コメントをくださった方は、「売り払う」人がいるのであれば「買い求める」人もいるはずで、その方法である限り、社会全体が良くなることは永遠にあり得ないのではないか、と言っておられるのです。

本当にそのとおりだと思いました。福音書を元にしたキリスト教的な実践では、世界中のすべての人が幸福になることは不可能だということになるでしょう。売るためには買う人が必要です。そもそも、世の中の人の半分は幸福になることができない方法だったのです。また、貧しい者に施して貧しいものが豊かになるということは、貧しかったとき、つまり、何も所有しなかったときに幸福であったものが、施しを受け、豊かになると不幸になる、ということになるでしょう。世の終わりまで、このパラドクスが繰り返されるわけです。

福音書の提言が部分的な正しさを示しているとしても、その各々が正しいシステムに乗って循環してはいないということです。いくら真面目に実践したとしても、全世界が一斉に真理を知り、同時に幸福を得ることは無い、ということだったのです。

門はどれぐらい狭いのか

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www.catholic365.com

某つぶやき系SNSに、次のような書き込みがありました。

エスと友になれるなら地上の富など何の価値もない。
この価値観がキリスト教の本質の一つ。
誤解されがちだけれどお金を持っていることが罪ではない。だとしたら資産家はだれもクリスチャンになれない。問題なのはお金を愛する(お金に固執する)こと。つまり拝金主義

おっしゃっていることの辻褄が合っていないような気がしますね。「地上の富などには何の価値もない」ということはつまり罪だ、ということになるだろうと思うのですが、その直後に「お金を持っていることは罪ではない」とも言っています。メチャクチャなことを言っている、と言えるのではないでしょうか。

マタイの福音書 19:21-22 を読んでみましょう。

エスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。 

おわかりでしょうか、必要な分を少しだけ手元に残して、残りを売払いなさい、とは言っていないのです。総てのものを売り払いなさい、と言っているわけです。財布を持っているなら、その人は拝金主義者であり、銀行に預金口座があれば、その人は拝金主義者だと言っているわけです。

それでは、一体だれが「完全になれた」と言えるのでしょうか。

マタイの福音書 7:13-14 を読んでみましょう。

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。 

 誰が、その「狹い門」を入ることができるのか、それは、イエス様の勧めに従って「総ての持ち物」を売り払い、貧しい人々に施した人です。ことに「私はキリスト教徒である」というような何の価値もない自意識を捨ててしまうことができる人がそうです。おわかりでしょうか、キリスト教徒は、非キリスト教徒よりもふさわしくない、ということになるわけです。

では、今までにだれがその門を入ったのでしょうか。おそらく、いままでに誰一人入ることができた人はいないでしょう。

あえて言えば、イエス様と一緒に十字架にかけられた二人の盗賊のうちの一人、ディスマス(右盗)ただ一人だけなのかもしれません。

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

 

少なくとも、キリスト教徒である限り絶対に無理です。だって、イエス様が

帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。

と言い切っているのに、

誤解されがちだけれどお金を持っていることが罪ではない。

と、勝手に否定して言い直し、あまつさえ他人まで巻き込んで道を外させて平気なわけでしょう?

キリスト教というのは、このように、額装された神の言葉を眺めながら、したり顔で自分勝手に解釈して楽しむための娯楽クラブに過ぎない、ということです。

モレク、バアル、アフラ・マズダーとユダヤ・キリスト教の関係

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sekaisi-syoyou.blogspot.com

ユダヤの神話 - Wikipedia」に興味深い説明があります。見てみましょう。

イスラエル人たちが神と結んだ契約については繰り返し語られているが、申命記のそれはアッシリアが属国に結ばせた宗主権条約文と類似の構造を持つことが指摘されている。つまり、大国と属国との契約関係を、イスラエル人は神と自分達との契約に置き換えたのである。 

「律法」の一部は、宗主国であるアッシリアから課された、属国イスラエルに対する宗主権条約とよく似たものであった、と指摘されています。

これは、神のモデルが宗主国アッシリアという国家であった、ということなのか、そうとまでは言わなくとも、アッシリアとの間に交わした約束事を、固く記憶に留めるために、神との約束事(律法)に見立てて聖書に記した、ということなのか、いずれにせよ、事実(アッシリアとの条約)と建前(モーセに示された神の律法)には隔たりがあるように感じます。

 

話は少々変わりますが、聖書には「モレク」「バアル」などと言った異教の神々が登場します。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

いずれも、カナンと周辺に流行していた宗教であって、イスラエル国内でもその教勢は盛んであった様子が聖書に記されています。

列王記上 16:29-32

ユダの王アサの第三十八年にオムリの子アハブがイスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年イスラエルを治めた。オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。

 聖書は、これら異教の神を徹底的に否定しています。

レビ記 20:5

わたし自身、顔をその人とその家族とに向け、彼および彼に見ならってモレクを慕い、これと姦淫する者を、すべて民のうちから断つであろう。

異教に迎合するものを「姦淫」を行うもの、として批判し、断罪していますね。聖書の神はこれらの神々に比べると後発であって、新しい神、新興の宗教であったことを読み取ることができると思います。

不思議なことは、聖書に、ペルシアの宗教であるゾロアスター教とその神の名が一度も出てこないことです。唯一それらしきものが登場するのは、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でも少し触れているのですが、ダニエル書の次の記述です。

ダニエル書 10:13

ペルシア王国の天使が21日間わたしに抵抗したが大天使長のひとり、ミカエルが助けにきてくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。

「ペルシア王国の天使」とはゾロアスター教の天使を指す、ということは疑いようのない事実と言えるでしょうが、他の箇所には一切出てきませんし、「ゾロアスター」という言葉も、「アフラ・マズダー」と言う名前さえも一切聖書には記されていません。「バアル」や「モレク」は出てくるのに、です。捕囚のころのゾロアスター教といえば花形宗教です。宗教の中の宗教とでも言うべきほどの隆盛を誇った宗教であって、今で言えばキリスト教や、イスラーム、仏教ほどの勢いがあったはずです。これが一切聖書では語られていないのですから不思議です。

この理由は、おそらく、ペルシアはイスラエルにとって捕囚から解放してくれた大恩ある偉大な新しい宗主国であって、悪口や讒言を書き記したくなかったから、ということなのでしょう。信長のときに、キリスト教は日本人を奴隷商品として海外に出荷したり、信徒にした日本人をけしかけて寺社に放火したり僧侶や神祇官を殺したり、結構酷いことを行っていますが、日本の教育がそれらを表立って批判しないのは、欧米諸国が日本が成長するためのお手本だったから遠慮したためです。これと同じで、宗教を含め、ペルシアの悪口を文書上であれ公に表現することは、外交上したくなかった、ということだったのでしょう。

しかし、その名は直接には聖書に記されていないとしても、ユダヤ教の習慣や思想の多くはゾロアスター教から影響を受けているように思われます。

  • 天使と悪魔
  • 洪水伝説
  • 善悪二元的
  • 終末的世界観

と言ったような事柄、それと、「贖う」という神と人間の契約関係ですね。イスラエルはペルシアによってバビロニアから買い取ってもらった、ということを、神と人間との間柄についての価値観に置き換えて考えているのではないでしょうか。「救済」についても同様に考えることができるでしょう。神(ペルシアという大国)はイスラエルを敵地から救い出して天国(祖国)へと導いてくれる存在である、というわけです。

さらに、キリスト教について考えてみれば、ゾロアスターの支流であるミトラス教の影響を受けているのですから、結果として、実質的にはゾロアスター教キリスト教と名を変えて、今日なお隆盛である、と言えなくも無いように思います。