キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

福音とパラドクス

f:id:christian-unabridged-dict:20200820124123j:plain

9to5mac.com

前回の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

に次のようなコメントを頂きました。

信者が資産をすべて売らなければならないのなら、誰かが買わなければなりません。この教えをまじめに実践しようとすると、社会が成り立たなくなるというか、まじめでない人に冨が集中しますね。
理解が浅いのかもしれませんが、変な教義だと思います。 

確かにその通りですよね。

僕は、教会が付けた手垢で真っ黒になった聖書解釈から、なるべく純潔に近くなるよう、余計なものを取り除いてご紹介しようと努めていたつもりだったのですが、悪臭を嗅ぎ分ける力を完全に回復できていないことを教えて頂いた気持ちがします。

もう一度マタイの福音書 19:21-22 を読んでみましょう。

エスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。 

これは、福音書の中でも最も重要な提言です。総ての所有物を売却し、その対価を貧しいもののために使いなさい、とあって、無一文になって、初めて、イエス様に従っていきる資格が得られるのだ、と説明されているのです。

この言葉には、物理的な所有物ばかりでなく、様々な欲望、中でも自尊心を捨て去ることが重要だ、という意味合いが含まれているでしょうが、物理的な所有物を処理するためには「売り払う」という方法が示されています。

コメントをくださった方は、「売り払う」人がいるのであれば「買い求める」人もいるはずで、その方法である限り、社会全体が良くなることは永遠にあり得ないのではないか、と言っておられるのです。

本当にそのとおりだと思いました。福音書を元にしたキリスト教的な実践では、世界中のすべての人が幸福になることは不可能だということになるでしょう。売るためには買う人が必要です。そもそも、世の中の人の半分は幸福になることができない方法だったのです。また、貧しい者に施して貧しいものが豊かになるということは、貧しかったとき、つまり、何も所有しなかったときに幸福であったものが、施しを受け、豊かになると不幸になる、ということになるでしょう。世の終わりまで、このパラドクスが繰り返されるわけです。

福音書の提言が部分的な正しさを示しているとしても、その各々が正しいシステムに乗って循環してはいないということです。いくら真面目に実践したとしても、全世界が一斉に真理を知り、同時に幸福を得ることは無い、ということだったのです。