キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

門はどれぐらい狭いのか

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www.catholic365.com

某つぶやき系SNSに、次のような書き込みがありました。

エスと友になれるなら地上の富など何の価値もない。
この価値観がキリスト教の本質の一つ。
誤解されがちだけれどお金を持っていることが罪ではない。だとしたら資産家はだれもクリスチャンになれない。問題なのはお金を愛する(お金に固執する)こと。つまり拝金主義

おっしゃっていることの辻褄が合っていないような気がしますね。「地上の富などには何の価値もない」ということはつまり罪だ、ということになるだろうと思うのですが、その直後に「お金を持っていることは罪ではない」とも言っています。メチャクチャなことを言っている、と言えるのではないでしょうか。

マタイの福音書 19:21-22 を読んでみましょう。

エスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。 

おわかりでしょうか、必要な分を少しだけ手元に残して、残りを売払いなさい、とは言っていないのです。総てのものを売り払いなさい、と言っているわけです。財布を持っているなら、その人は拝金主義者であり、銀行に預金口座があれば、その人は拝金主義者だと言っているわけです。

それでは、一体だれが「完全になれた」と言えるのでしょうか。

マタイの福音書 7:13-14 を読んでみましょう。

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。 

 誰が、その「狹い門」を入ることができるのか、それは、イエス様の勧めに従って「総ての持ち物」を売り払い、貧しい人々に施した人です。ことに「私はキリスト教徒である」というような何の価値もない自意識を捨ててしまうことができる人がそうです。おわかりでしょうか、キリスト教徒は、非キリスト教徒よりもふさわしくない、ということになるわけです。

では、今までにだれがその門を入ったのでしょうか。おそらく、いままでに誰一人入ることができた人はいないでしょう。

あえて言えば、イエス様と一緒に十字架にかけられた二人の盗賊のうちの一人、ディスマス(右盗)ただ一人だけなのかもしれません。

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

 

少なくとも、キリスト教徒である限り絶対に無理です。だって、イエス様が

帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。

と言い切っているのに、

誤解されがちだけれどお金を持っていることが罪ではない。

と、勝手に否定して言い直し、あまつさえ他人まで巻き込んで道を外させて平気なわけでしょう?

キリスト教というのは、このように、額装された神の言葉を眺めながら、したり顔で自分勝手に解釈して楽しむための娯楽クラブに過ぎない、ということです。