キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

なぜいちじくは枯れたのか

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parstoday.com

聖書には、ぶどう、オリーブ、麦、いちじくなどの農産物の話題があらわれます。それらは「神の恵み」を象徴する場合がほとんどですが、ことに「いちじくの木」はイスラエルを、「いちじくの実」はイスラエルの民の信仰を表していると考えられています。聖書を読んでみましょう。

エレミヤ書 24:1-6

見よ、主の宮の前に置かれているいちじくを盛った二つのかごがあった。その一つのかごには、はじめて熟したような非常に良いいちじくがあり、ほかのかごには非常に悪くて食べられないほどの悪いいちじくが入れてあった。主はわたしに、「エレミヤよ、何を見るか」と言われた。わたしは、「いちじくです。その良いいちじくは非常によく、悪いほうのいちじくは非常に悪くて、食べられません」と答えた。
主の言葉がまたわたしに臨んだ、「イスラエルの神、主はこう仰せられる、この所からカルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を、わたしはこの良いいちじくのように顧みて恵もう。わたしは彼らに目をかけてこれを恵み、彼らをこの地に返し、彼らを建てて倒さず、植えて抜かない。

イスラエルの国土をいちじくの木に、イスラエルに実った正しい信仰はいちじくの実にたとえられている、ということがよくわかりますね。

しかしながら、イエス様は福音書でいちじくの木を枯らしてしまっています。読んでみましょう。

マタイによる福音書 21:18-22

朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。

福音書は喩え話で成り立っています。イエス様自身が「これは喩え話ですよ」と言って話が始まるときもあるのですが、この場合はそうではなくて、たとえ話をしているのは福音書の著者であって、イエス様は喩え話の中に組み込まれている、つまり、この箇所で「いちじく」は「イスラエルの良い信仰の実り」を表象しているのです。

同じ福音書の、その少し前の箇所を読んでみましょう。

マタイによる福音書 21:12-16

それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。

唯一神殿でさえ、異教の偶像や猥雑な小物、守札を商う小屋、見世物小屋、神殿に収める賽銭のための高利両替商などで賑わっていて、その儲けのほとんどは祭司たちに入るわけです。つまり、イスラエルにはもはや信仰の実りは全く無かったわけです。

いちじくは、イエス様が枯らせたのではなくて、すでに枯れていることをイエス様が暴露したに過ぎなかったわけです。

次の弟子たちの言葉、

「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」

これは、「なぜ、そのように真実を見抜くことができるのですか」と読み替えればわかりやすくなります。それに対する、

「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。

という答えには、自分の欲望に影響されず、他人の欲望に同調しない、強い意志を心のなかに据え置くことができる者には、真実を見抜く力が生まれ出る。余計なもの、不要なものを求めない、あるべき姿が生き生きと見えてくるのだ、という意味が含まれていることがわかると思います。

いかがでしょうか。聖書の解釈に「保守」「リベラル」「右派」「左派」などと言うものは無い、ということをご理解いただければ、と思います。

キリスト教が偶像を崇拝していること

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www.catholicworldreport.com

キリスト教は(ユダヤ教もですが)偶像を崇拝することを禁じています。

出エジプト記 20:4-6

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

しかし、聖書は、神の容姿を説明しています。

創世記 1:27

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

上に引用したサイトの記事にもある通り、ヨハネ福音書には、

ヨハネ福音書 1:18

いまだかつて、神を見たものはいない

とあるものの、実際には、鏡で自分自身をみれば、また、他の人を見れば、それを、「神に似た姿」である、と理解することができるわけです。

完全な意味で「偶像」を礼拝しないというのであれば、つぎのような基準に従うべきだと言えるでしょう。

  • 神がいるかいないかと推測してはならない。
  • 神に関する一切の情報に接してはならない。
  • 神を想像してはならない。
  • 何者に対しても祈念してはならない。
  • 死後の仮定を想像してはならない。

こんなところでしょうか。おおまかに言って、このような事柄を守っているのであれば、偶像崇拝をしていない、と言うことができるわけです。

しかしながら、ユダヤキリスト教の正典である旧約聖書には、神の容姿についての説明があったり、キリスト教の正典である新約聖書には、神自身が人の目に見える形で、この世に出現したと説明されていて、キリスト教徒は、その「人」でもあるものを「神」として礼拝しているわけです。

おわかりでしょうか、キリスト教という宗教は、笑ってしまうぐらいコテコテの「偶像崇拝」なのです。カトリックも正教もプロテスタントも同じことです。礼拝堂の中に聖人像があるかないかというのは、ほんの些細な違いに過ぎません。神の姿を想像することができる時点で、それは立派な偶像たり得るのですから。

キリスト教偶像崇拝を禁じている理由は、「他の偶像」を拝んで利益を横流しするな、ということに過ぎない、ということです。

「演出ミサ」って何?

 

 

 

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www.menofthewest.net

 

『「演出ミサ」に見る危険性と青年の教会離れ』という記事がありました。内容は、カトリック教会における現代的なミサの有り様を批判するものです。一部引用してみましょう。

フォークミサがいけないと主張するほど私は狭量ではない。なかには素晴らしいものもある。しかし、「若者にはフォークミサ」というワンパターンの発想に嫌気がさしている。ちなみに若者向けのミサではカトリックとは無関係な楽曲をとりいれるケースも見られる。たとえば、ひと昔前にヒットした映画の主題歌、「翼をください」が閉祭の歌として用いられる。同様にマイケル・ジャクソンらが歌った"We are the world"なども使われる。しかし、歌謡曲をミサで用いること自体が非常識であり、このような風潮に憤懣やるかたない青年も多い。「俺が教会に求めるものはこんな安っぽいものではない。こんなことをさせられるために俺は洗礼を受けたのではない!」という隠れた差別への反発が彼らの心のうちにはある。教会で遊ぶのも結構だが、けじめくらいはつけなければ話にならない。「教会って堅苦しい所じゃないよ」と友人を誘いたい気持ちはわかる。しかし、聖なる要素がどこにも見出し得ぬ教会には魅力のかけらもない。好奇心に満ちた未信者の期待を裏切るだけである。 

カトリック聖歌集」という、プロテスタントで言えば、昔の「賛美歌」にあたる古い聖歌集がありますが、この171番に「いばらの冠」という有名なコラールがあります。

バッハのマタイ受難曲中に現れる有名なコラールと同じ曲ですので、おそらく多くの方はカトリック聖歌がバッハのコラールを拝借しているのだろう、と考えているのではないかと思うのですが、実はそうではありません。

カトリック聖歌の171番とバッハのコラールには、ある共通の原曲があります、資料をお示しできなくて残念なのですが、フランスの古謡(俗曲)がそれです。教会で歌われる聖歌や賛美歌といえど、昔から民衆は、巷で歌い慣れた、また聞き慣れた親しみのあるものであることを求めたのです。

また、ゴシック建築は、今でこそ教会建築のお手本のように扱われていますが、発生した当初は「グロテスク」だの「教条主義的」だのと散々な悪評価だったことをご存知でしょうか。

僕としては、キリスト教人口が増加してほしいとは希望していませんし、増加するべきだとも思ってはいないのですが、まあ、こんな感じでは根付かないよね、と思うわけです。

ユダヤが優先される理由

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www.history.com

エス様は福音書

マタイによる福音書 15:24

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」

と発言しておられます。しかし他の箇所では異邦人の女性の発言を褒めているし、百卒長の信仰を評価したり、ニネベを例にあげたりして、異邦人が救われることを説明しているのです。なぜでしょうか。

このことを理解するためには、まず、イエス様がイスラエルの神を「父」と呼ぶことの理由を正しく知る必要があります。イエス様が神様を「父」と呼ぶ理由は、「神と人の関係が親子関係のように親しくなったことを理解させるため」のように考える場合がほとんどではないかと思うのですが、違います。そうではなくて、今まで「神」と理解していたものに対して、これからはもうそのような拙い考え方を捨てて、イスラエルの精神性の源流をなす父性的象徴として「父」と理解するようにしよう、と提言されているわけです。「聖書の著者たち」と言ってもいいのかもしれませんが、唯一神教的な習慣に慣れ親しんだユダヤの国民に対する効果的なアプローチとしては「父」と表現するべきだったのでしょう。

思考能力に問題がある人がこれを考えると「三位一体」などという奇想天外な結論を導き出すわけです(笑)。

そしてこれからは、「神に選ばれた民」というようなこだわりを捨て、「自分自身に執着すること」が何よりも恐ろしい平和に対する敵であることを知り、ユダヤの国民がそのことをまず理解した上、全世界を牽引するところのリーダーとなりながら、真の平和を実現するために全世界へ向けて「離散(ディアスポラ)」するのだよ、と希望されたのです。

だから、異邦人に宣教する前に、まずユダヤ人にそのことを理解させなければいけないね、という意味だというわけです。ユダヤ人が理解すれば、ユダヤ人によって全世界に理解が及ぶ。「イスラエルの失われた羊以外のものには、つかわされていない」とはそういう意味だったのです。

少なくとも、ユダヤ教に対立するような新宗教がたちあがるようなことにだけはなってはならない。イエス様はそう考えられたはずです。

果たして、人類は賢明な選択を行うことのできない生き物でしかなかったのです。考え得るかぎり、最悪のシナリオを実践する道を選び、そして今日を迎えた。これが現実だというわけです。

イエス様自身が三位一体を否定している

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www.crisismagazine.com

福音書で、イエス様ご自身が三位一体を否定する発言をしておられます。早速読んでみましょう

マタイによる福音書24:35-36

天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。

エス様は福音書で、ご自身のことを「人の子」と表現しておられます。これは、「人となった神の子」という意味ではないのか、と思われる場合がありますが、全く違います。あまりにも見当違いな妄想だと言えるでしょう。「人の子」が何を意味する言葉であるのかは、エゼキエル書から知ることができます。読んでみましょう。

エゼキエル書 1:28-2:1

そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。主の栄光の形のさまは、このようであった。わたしはこれを見て、わたしの顔をふせたとき、語る者の声を聞いた。彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。

「彼」とは「語る者の声」であり、「語る者」とは「主の栄光の形のさま」、つまり、神ご自身のこと、と理解することができます。

エゼキエルは神から「人の子」と呼ばれているのですが、エゼキエル自身が神であると考えられているわけではないですよね。「人の子」とは、神によって選別された指導者に与えられる特別なタイトルだと考えられているのです。

ですから、イエス様が「人の子」とか「子」と言うときは、「神である」という意味で言っているのでは無くて、真実を述べ伝える教師である、という意味でそう言っているのです。

そう考えて、上に引用した福音書の箇所を確認してみましょう。

「その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない」

とありますよね。知っているのは父だけであって、「子」である私も知らないのだ、としっかり発言しています。ただの親子関係であれば、実際のところ、父がどう考えているのか、私にはさっぱりわからないよ、などというのは普通のことなのかもしれないのですが、三位一体とは、「ニカイヤ信条」によれば、

主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、(神からの神)、光からの光、まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして、天地万物は総べて彼によりて創造されたり。

とあって、イエス様は「御父と本質を同一」にするものであって、「天地万物は総べて彼によりて創造された」のだと理解しようとしているのです。

おわかりでしょうか。父である神の計画を知らないものが、本質が同一であるとは言えませんし、知り尽くしていなければ、天地万物総てを創造することは不可能であるはずです。つまり、福音書のこの箇所でイエス様は、私は神ではない、と説明していることになるわけです。当然ながら、三位一体という考え方もまた成立しない、ということになります。

 

常識社会においては、三位一体をどのように理解しようとしているのでしょうか。

www.try-it.jp

から引用してみましょう。

三位一体説は 皇帝にとって都合のよい考え方でした。
神が人間の姿を借りるのなら、その人間は自分であると主張することができるのです。
皇帝を神とは認めなかったキリスト教徒も、神が皇帝の姿を借りているのなら話は別です。
皇帝は三位一体説を利用して、自らの発言は神の発言であると主張しました。

おわかりでしょうか。宗教なんて利権と利権の間にかろうじてうごめいている害虫のようなものです。人の利便に資さないのであれば何の用もない、邪魔な置物に過ぎないということです。民衆の間に流行していて、政治の道具として有利に働く可能性があるから、キリスト教ローマ帝国の国教となったわけです。より有利に利用するために、皇帝が介入して三位一体などの教理が作られていった、キリスト教とはそのようなものなのです。

本当に神がいるのであれば、少なくとも、人がそれを礼拝する必要は全く無い、ということを理解するべきだと思います。

カトリック司祭が三億円横領

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bunshun.jp

 

上に貼った、2020年6月26日付の文春オンラインに掲載された記事を御覧ください。カトリック司祭が教会に集まった献金から三億円あまりを不正に流用した、という記事です。

この件に関し、一人の神父が信徒の女性に対して

「わがの思い通りになると思うなよ」

と、やくざまがいの恫喝を浴びせかけたというのですから、実に惨憺たる状況が展開されている、ということのようです。

内容については、ここで再度説明する必要は無いと思いますので、上記記事をお読みください。

キリスト教と伝染病

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natgeo.nikkeibp.co.jp

キリスト教にとって「病」とはどのようなものなのでしょうか。神の罰か、神が人に与える「天国への入り口(死)」というプレゼントのどちらかなのでしょうか。

ヨブ記を読んでみましょう。

ヨブ記 2:7-8

主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。 

この記述を見る限り、世の中に有る「病」は、ことごとく神の知るところであり、また、神が希望しないのであればそれは発生しないのだ、と言うことができるでしょう。キリスト教的に正しく理解しようとするのであれば、病は神の業である、ということになるわけです。

それでは、病を治療して少しでも延命しようとすることは、神の方針に従うことになるのでしょうか、あるいは逆らうことになるのでしょうか、どちらなのでしょうか。キリスト教徒はおそらく、死んでも天国に迎えられるのでしょうから、この世で数年、数十年長生きしてもさほどの意味は無いでしょう。天国へ行ければ、なぜもっと早く天国へ来なかったのだろう、少しでも長生きしたいと望んだことがバカバカしい、と苦々しく回顧するのかも知れません。

どうせ死んでも天国へ行くのであれば、なぜ病を治療せねばならないのでしょうか。そうしなければ自殺に該当し、十戒に背いた罪で天国を逃してしまうからですか。

それは自殺になるでしょうか。自動車を運転したり、電車や船舶や飛行機で移動することは構わないのでしょうか。

そもそも、イエス様が神でありながら人に身をやつしてこの世に来られて、全人類の罪を一身に負って十字架で亡くなった、と理解しているのであれば、未だに病や犯罪が世に溢れ、争いが無くならないのはなぜなのでしょうか。

簡単な質問です。教会の言い分が詐欺的では無い、という確信がある人は、論理的に答えることができるはずだと思いますよ(笑)。