キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

日本人がキリスト教にハマらない理由

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www.christiantoday.co.jp

 

日本におけるキリスト教の歴史は、早ければ飛鳥時代景教ネストリウス派教義)として中国からもたらされたと推察できる痕跡があり(上記記事参照)、もっと確かなものであれば、戦国時代にスペインからカトリックが伝えられています。つまり、歴史としては結構長くて、少なくとも500年以上我が国はキリスト教との関わりを持っていることになります。

ところが、現状のキリスト教徒の人数は、国民全体のわずか0.04%程度に過ぎない、と言われているのです。なぜでしょうか。

その理由について、当サイト流に推測し、次のようにまとめてみました。

 

理由1:死生観の違いを吸収できなかった

しばやんさんの次の記事をお読み下さい。

shibayan1954.blog.fc2.com

引用させていただきましょう。

「日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私達が教えること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救われないことを、非常に悲しむのである。亡くなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に、彼らの悲しんでいる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、或いは施與、或いは祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだろうかとたづねる。私は助ける方法はないと答えるばかりである。」(「聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)」岩波文庫p.119-120)

「この悲嘆は、頗る大きい。けれども私は、彼等が自分の救霊を忽がせにしないように、又彼等が祖先と共に、永劫の苦しみの処へは堕ちないようにと望んでいるから、彼等の悲嘆については別に悲しく思わない。しかし、何故神は地獄の人を救うことができないか、とか、なぜいつまでも地獄にいなければならないのか、というような質問が出るので、私は彼等の満足のいくまで答える。彼等は、自分の祖先が救われないことを知ると、泣くことを已めない。私がこんなに愛している友人達が、手の施しのようのないことについて泣いているのを見て、私も悲しくなってくる。」(同P.120)

聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)」からこの箇所を引いて、しばやんさんは次のように述べておられます。

当時の日本人が、キリスト教を受け入れがたいと思った重要なポイントがこの辺にあったのではないだろうか。自分の祖先がキリスト教を信じていなかったという理由でみんな地獄へ落ちると言われては、自分の祖先を大切に思う日本人の大半が入信できなかったことは私には当然のことのように思える。

現在の教義であれば、異教徒のまま亡くなってしまったからと言って、100%地獄へ堕ちるとは言わないのでしょうが、当時はそう教えたのでしょう。おそらく、しばやんさんのおっしゃるとおり、自分の祖先を大切に思う日本人の大半は、この説明を聞いて入信を断念したのであろうと想像できます。

しかし、考えてみればこれは腑に落ちないことです。かれらが心の底からキリスト教を信じていたのであれば、過去の人が地獄に堕ちたのは悲しいけれども、現実的に自分たちや子孫が地獄で苦しまないためには、一刻も早く入信しなくてはならない、と判断するべきであったはずだからです。

おそらく、彼らが拒否したかったのは、「そのような現実」ではなくて、「そのような考え方」だったのではないでしょうか。かれらが悲しんだのは、地獄へ堕ちた肉親ではなくて、人の一生を、そのような硬直した考えで単純に断定することしかできない、キリスト教というお粗末な思想と、それに振り回されている宣教師たちに対してだったのではないでしょうか。

キリスト教は、日本へ入ってきた時点で、ある程度排斥されていた、と見て良いと思います。宣教師の話を聞いた日本人の大半は、その偽善を見抜いていたわけです。

 

理由2:うまく記号化できなかった

宗教というのは、人生を人に説明するために、なにをどう記号化するのか、というところにそれぞれの価値があると思います。たとえば仏教であれば、人間は生きているうちに完璧な存在になれるよう努力すること、を目標にし、「死」がその最高のモデルであると考え、そのように教えたわけです(死が生よりも尊い、とか、人間は死ぬべきだ、と教えている、という意味ではありません)。これは分かりやすい記号化でした。日本人にも受け入れやすかったのです。

一方、キリスト教は、仏教と同様に、完璧な存在となれることを目標に据えることまではよかったのですが、仏教には存在しない「神」を想定に加えてしまったので説明があやふやになってしまっているように思います。某SNSを見ていても、聖書に出現する「贖い」とか「犠牲」とか言ったような言い回しをうまく消化できていない様子がわかります。遠く離れた地方で発生した宗教の、地域に独特な要素から違和感を拭い去ることができていないのです。

つまり、キリスト教は、日本人に納得できるような形での「記号化」を行うことができなかった、ということです。わかりやすく言えば、「神は絶対に存在する」と言ってはいけなかったのだ、ということです。仏様はあなた方の心の中に存在する。神社の神様は前向きに生きる人には存在するが、後ろ向きの人とは共に存在しない、というように理解するのが日本人の宗教観なのです。記号化に失敗した宗教は、日本人にとってはオカルトでしかありません。

 

理由3:好ましいサンプルが無い

キリスト教に入信すれば、このように倣うべき人間形成がなされ得るのだ、というサンプルが存在しません。某SNSを眺めていれば説明するまでも無いのですが、毎日精神障害の病状を愚痴る牧師がいたり、キリスト教徒同士がお互いの考えにケチをつけ合っていたり。キリスト教って良いものなんだな、と思わせる要素が見当たらないのです。

 

理由4:いちいち面倒くさい

キリスト教に惹かれる理由のほとんどは「西洋文化にあこがれて」のようなものだと思います。赤毛のアンを読んで長老教会に行ったり、モーツァルトのレクイエムに感動してカトリック教会の礼拝を見に行ったり、という類です。

しかし、いざ入信となると、まずは入門講座に半年から1年ほど通って、出席率と理解度を測られ、社交性はどうか、危険は無いか、などとチェックされます。晴れて受洗となった後は、やれ青年会だの祈祷会だの賛美歌の練習だので休日は潰れるし、月例献金だの特別献金だので出費もバカになりません。西洋文化に親しめればそれだけで良かったのに、こんな面倒なことになるなんて予想外だった。はやく止めておくべきだった、ということになるわけです。

毎週礼拝に出席して献金を負担し、役員もやって聖歌隊もやって、なんて、本場欧米のキリスト教国にだってそんな人はいないと思いますよ。いたとしたらネオナチのような極右運動家でしょう。

宗教なんて言うものは、信じる側の都合に合わせて気楽に利用できるようなものでなくてはならないのです。聖餐なんかも、神社の直会のように、例えば5000円以上のお祓いを行った人にはだれにでも随時に受けられる、というように、日本人の宗教観に合わせて修正できるなら、もう少しは信者も獲得できるようになっていくんじゃないでしょうか。

定額献金は、せいぜい年に1万円程度が上限でしょう。集金のためには、神社の崇敬会と同じように、年に一度振り込み用紙を信者家庭に郵送したり、賽銭箱を目立つように設置したり、教会グッズを通りすがりの人に売って小銭を稼げるようにしてはどうでしょうか。

キリスト教は「ダメダメ教」です。それをやってはダメ、それはそうしなくてはダメ、あれはダメ、どれもダメ、ダメダメダメダメ。ダメダメ教なのです。そのほうが楽、なんでもダメと言ってほしい、と希望されるタイプの人には向いているかもしれないのですが、ほとんどの日本人には、キリスト教はバカの人用の面倒くさい宗教、と思われてしまうでしょう。 

 

まあ、こんな感じで、最低限以上のインテリジェンスがある人であれば、キリスト教には深入りしないだろうと思うのですが、日本人がキリスト教にハマらない理由はこのようなものでしょう。