キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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聖書的ではない3つの態度

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クリスチャン・トゥデイに「多くのクリスチャンが取り除かなければならない聖書的ではない3つの態度」という記事があります。引用してみましょう。

神は常に私たちの内で働いておられ、それ故、神は私たちの内にキリストの似姿を生み出すことができる、と聖書は教えている。この神の働きによって、私たちの性質が、キリストの性質に形づくられていくのである。キリストは、父なる神の本質の完全な現れだ。そして、父なる神とは、愛、恵み、慈悲に満ちている存在だ。

キリストの性質に形づくられるという過程には、神に敵対する態度を取り除き、キリストのような態度に置き換えることが含まれる。では、神が私たちから取り除こうとしておられる態度とは何だろうか。ここでは、私たちが取り除くべき聖書的ではない3つの態度を見ていこう。 

 その3つとは

  1. いじめ
  2. 被害者を演じる
  3. キリスト教用語で人を操作する

であるということです。

しかし、そもそもキリスト教はいじめから始まっています。イエス様の性質について、マリヤ様の立場について、ただ一つの理解だけでなくてはならず、これに反する意見を主張するものは異端として排斥したわけです。キリスト教の本質はここにあります。だから、キリストを信じるものは常に他人の信条のデテイルを排斥しようとするのです。いじめはキリスト教キリスト教であるところの基本的な条件だと言うべきでしょう。

また、キリスト教徒は、人祖アダムとエヴァが犯してしまった失敗の責任を図らずも負わせられて苦しんでいる、と考えています。彼らがもっとしっかり神の言いつけを守っていたなら、いまごろは何の問題もなく安穏な生活を謳歌できていたはずだというわけです。つまり、キリスト教徒はアダムとエヴァの被害者なのです。常識的な言い方をすれば、被害者を演じている、ということになるでしょう。被害者を演じることが良くないというのであれば、キリスト教を信じることをやめてしまわなくてはならないことになるでしょう。

 キリスト教用語といえば、「ハレルヤ」「主を賛美します」などよりも、「サタン」とか「悪霊」と口走る人によく会います。「主にあって」という人も多いと思いますが、一体どういう意味なのでしょうか。「主の名によってあなたに命じます」と言われたことがありますが、ふざけている様子ではありませんでした。つまり、キリスト教用語を口走りながら、反社会的な思想や行動を披露して見せるからこそ、「キリスト教徒」である、ということになるでしょう。キリスト教用語を使用せず、他人を嫌な気持ちにもさせないのであれば、その人は常識的な一般社会人でしかありません。

この3つの特徴を兼ね備えている人こそ立派なキリスト教徒なのだ、ということになるでしょう。取り除いてしまっては、非キリスト教徒、つまり「常識的な人」に昇格することになってしまうと思いますよ。