申命記を読んでみましょう。
申命記 22:10-11
牛と、ろばとを組み合わせて耕してはならない。羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない。
キャッチアイ画像を頂いたサイトから引用してみましょう。キリスト教徒のこの箇所に関する考え方は次のようなものです。 googleの翻訳機能による翻訳文です。
旧約聖書では、申命記 22 章 10 節に、牛とロバを一緒に使って耕してはならないと書かれています。興味深いのは、牛はきれいな動物ですが、ロバはそうではありません(Lv 11)。ロバを飼っていない、または使用しないとは言っておらず、(耕したり、仕事をするために)ロバをくびきでつないでいないだけです。 )、それらは2つの種が異なるだけでなく、神の目には一方は清く、もう一方は汚れているからです。
パウロは、くびきをくびきで結びつけたときの聖人(信者)と不信者(迷っている人)の間の5つの明確な対照を示しています。
1. 正義 - 不正義
2. 光と闇
3. キリスト - ベリアル (サタン)
4. 信仰(信者) - 信仰の欠如(不信者)
5. 生ける神の神殿 - 偶像
神が私たちに警告するこの「不平等な結合」は、ボーイフレンド、ガールフレンド、夫や妻などの恋愛関係だけでなく、事業や会社を立ち上げるためのパートナー関係などの経済的関係、さらには友情や日常の関係にまで及びます。人々は同じ側に向かって一緒に「歩き」始めます。
つぎに、前回記事でもご紹介した、『ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集』という著作から同箇所に関する記述をご紹介しましょう。
人と違うようになるための教育
これは古代からある説話で、子どもを一律に教育しても、決してうまくいかないことを教えている。ヘブライ聖書では、子どもの一律教育、護送船団方式の教育を禁じている。個性が封じられてしまうからだ。教室教育の弊害をユダヤ人は嫌というほど知っている。
ユダヤの教育は、一人一人の個性を伸ばすマン・ツー・マン教育だ。聖書の記述にはこうある。「牛とロバとを同時に一つのくびきにかけ、鋤を引かせてはならない。
ウールと亜麻糸を混ぜて布を織ってはならない」(申命記22章・10〜11節)
牛とロバに同じく引き(一律教育)をはめても、うまく畑を耕せないどころか、二匹ともう疲れてしまう。大きさもも力も異なる二匹の動物を同じように扱ってはならない。日本の教育はまさにこの例えに合致しているのではないだろうか。
著者の石角完爾さんは、ユダヤ教に改宗された日本人ですが、「超正統・ウルトラオーソドックス」である派閥に属するラバイ(ラビ・ユダヤ教の教師)について学んだ、と説明されていますので、この解釈は革新的、前衛的というわけではなくて、ユダヤ教の伝統的で保守的な解釈だと言えると思います。
いかがでしょうか。聖書の同じ箇所に対する説明のはずですが、全く違いますよね。キリスト教という宗教はユダヤ教から聖書を拝借はしたものの、大切な、言い伝え(タルムード)を捨ててしまったので、聖書を正しく理解することができなくなってしまっているのです。上のキリスト教徒の説明文は一体何を言っているのかさっぱりわからないですし、この説明では、聖書ってずいぶん軽薄なものなんだなと感じてしまいます。一方、石角さんの説明は、なるほどそうかと、聖書の深長さを伺うことができるように思います。
キリスト教徒にとって聖書は、してはいけないことをした人を、あるいは、しなくてはならないことをしなかった人を罰するためのマニュアルとしてしか機能しなくなってしまっているのではないでしょうか。聖書の文言は、呪いのサンプル集としてしか活用されていないのではなかと感じます。
ユダヤ教徒が聖書から何を学ぶのかをご理解いただけたでしょうか。キリスト教徒とは全く違うということがおわかりいただけたと思います。彼らは聖書から生活を学んでいるのです。キリスト教のような、教会堂の中でしか通用しない絵空事ではありません。呪いや罰則でもありません。もっと実生活に密接している、プラクティカルな事柄なのです。そして当然ながら、聖書はユダヤ教徒が読み取る、その読み方が正しい読み方です。呪いだの清潔不潔だのという読み方は間違った読み方でしかありません。キリスト教徒はどう頑張っても聖書を正しく読み解くことはできないでしょう。僕は、おそらく福音書など新約聖書であっても、ユダヤ教徒に読んでもらったほうが、正しい意味を読み取ることができるのではないかというふうに思います。
ユダヤ教徒にとって聖書は、人の生活を助ける生きた糧、でありますが、キリスト教徒にとっては、死後を占う文書、人を呪う文書、拙劣な精神を形成するための死んだ文書でしかないのです。もったいないですね。