キリスト教は(ユダヤ教もですが)偶像を崇拝することを禁じています。
出エジプト記 20:4-6
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
しかし、聖書は、神の容姿を説明しています。
創世記 1:27
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
いまだかつて、神を見たものはいない
とあるものの、実際には、鏡で自分自身をみれば、また、他の人を見れば、それを、「神に似た姿」である、と理解することができるわけです。
完全な意味で「偶像」を礼拝しないというのであれば、つぎのような基準に従うべきだと言えるでしょう。
- 神がいるかいないかと推測してはならない。
- 神に関する一切の情報に接してはならない。
- 神を想像してはならない。
- 何者に対しても祈念してはならない。
- 死後の仮定を想像してはならない。
こんなところでしょうか。おおまかに言って、このような事柄を守っているのであれば、偶像崇拝をしていない、と言うことができるわけです。
しかしながら、ユダヤ・キリスト教の正典である旧約聖書には、神の容姿についての説明があったり、キリスト教の正典である新約聖書には、神自身が人の目に見える形で、この世に出現したと説明されていて、キリスト教徒は、その「人」でもあるものを「神」として礼拝しているわけです。
おわかりでしょうか、キリスト教という宗教は、笑ってしまうぐらいコテコテの「偶像崇拝」なのです。カトリックも正教もプロテスタントも同じことです。礼拝堂の中に聖人像があるかないかというのは、ほんの些細な違いに過ぎません。神の姿を想像することができる時点で、それは立派な偶像たり得るのですから。