キリスト教の問題点について考える

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キリスト教が偶像を崇拝していること

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www.catholicworldreport.com

キリスト教は(ユダヤ教もですが)偶像を崇拝することを禁じています。

出エジプト記 20:4-6

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

しかし、聖書は、神の容姿を説明しています。

創世記 1:27

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

上に引用したサイトの記事にもある通り、ヨハネ福音書には、

ヨハネ福音書 1:18

いまだかつて、神を見たものはいない

とあるものの、実際には、鏡で自分自身をみれば、また、他の人を見れば、それを、「神に似た姿」である、と理解することができるわけです。

完全な意味で「偶像」を礼拝しないというのであれば、つぎのような基準に従うべきだと言えるでしょう。

  • 神がいるかいないかと推測してはならない。
  • 神に関する一切の情報に接してはならない。
  • 神を想像してはならない。
  • 何者に対しても祈念してはならない。
  • 死後の仮定を想像してはならない。

こんなところでしょうか。おおまかに言って、このような事柄を守っているのであれば、偶像崇拝をしていない、と言うことができるわけです。

しかしながら、ユダヤキリスト教の正典である旧約聖書には、神の容姿についての説明があったり、キリスト教の正典である新約聖書には、神自身が人の目に見える形で、この世に出現したと説明されていて、キリスト教徒は、その「人」でもあるものを「神」として礼拝しているわけです。

おわかりでしょうか、キリスト教という宗教は、笑ってしまうぐらいコテコテの「偶像崇拝」なのです。カトリックも正教もプロテスタントも同じことです。礼拝堂の中に聖人像があるかないかというのは、ほんの些細な違いに過ぎません。神の姿を想像することができる時点で、それは立派な偶像たり得るのですから。

キリスト教偶像崇拝を禁じている理由は、「他の偶像」を拝んで利益を横流しするな、ということに過ぎない、ということです。