キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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聖書と差別的表現

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キリスト教新聞社ホームページ

に、『【聖書翻訳の最前線】 差別的表現、包括言語など 「お前」「はしため」「もてなす」』という記事があります。

www.kirishin.com

引用しましょう。

聖書協会共同訳では、不快と思われる言葉遣いを減らす努力をしています。

①「お前」(エレミヤ書3章12節)

 新共同訳は、「お前」という言葉を、自然な日本語を目指したために多く用いました。

主は言われる。わたしはお前に怒りの顔を向けない。
[新共同訳]

 しかし、聖書協会共同訳では、神やイエスが発する言葉には「お前」を使わないことにしました。

主の仰せ。私は怒りの顔をあなたがたに向けない。
[聖書協会共同訳]

 ただし、対象が人ではない場合、例えば、物や町は、例外となります。そこで、実を結ばないいちじくの木に対しては、次のようになります。

今から後いつまでも、お前には実がならないように(マタイ21章19節)

②「はしため」(サムエル記上1章18節)

 過去の邦訳聖書では「はしため」が使われてきました。

ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。
[新共同訳]

 しかし、聖書協会共同訳では、「はしため」は差別的であるとして、「仕(つか)え女(め)」としました。

ハンナは言った。「あなたの仕え女が恵みにあずかれますように。」
[聖書協会共同訳]

③「もてなす」(マタイ8章15節)

エスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
[新共同訳]

 この箇所の、「もてなした」と訳されるディアコネオーは「仕える」、食事の文脈では「給仕する」と訳される言葉です。しかし、癒やされたしゅうとめがイエスにしたことは、給仕だけとは限らないことから、聖書協会共同訳では、「仕えた」としました。

エスが手に触れられると、熱は引き、しゅうとめは起き上がってイエスに仕えた。
[聖書協会共同訳]

しかし、「お前」は、字面から言えば本来尊敬語です。「貴様」も尊敬語ですね。日本語の人称代名詞二人称には侮蔑的な意味合いを表すものは存在しないのではないかと思います。

南河内に年配の知り合いがいますが、面と見合わせて話をするときは、僕に向かって

「ワレが言うとった、あの‥」(君が言っていた、あの‥)

だとか

「オノレで始末せんかいや」(ご自分で処理してください)

だのと言いますが、ご本人としては見下げてそう言っているいわけではなくて、あくまで丁寧に伝えようとしてそうおっしゃっているわけです。

二人称よりも、日本語には一人称に侮蔑的なものがあります。「拙」「拙者」「小生」「僕」「妾」などは自分自身を貶めて謙譲を表す一人称です。「愚妻」とか「愚息」 という言い方をする場合がありますが、「愚かな妻」「愚かな息子」という意味ではなくて、「私(愚)の妻」「私(愚)の息子」という意味です。

外で知らない少年に呼びかけるときに「ボク」などと言うのはとても失礼なことになってしまいます。気をつけてください(笑)。

「はしため」が差別的だから「仕え女」にした、ということですが、「仕え女」などという言葉は聞いたことがありません。「仕え女」という言葉からは、性的なサービスをする女性のようなイメージが思い浮かぶのですが、どうでしょうか、また、「はしため」の男性「僕(しもべ)」はどうなのでしょうか。

マタイによる福音 8:9

私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、僕に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

 ここは「仕え男」としなくてもよいのでしょうか。

「もてなす」が差別的だから「仕えた」とした、とありますが、「もてなす」が無償の行いであるのに対し「仕えた」には対価を当てにした行い、というイメージがあります。

どのような言葉であっても、使い方一つで差別的になる危険性はあるわけです。「部落」という言葉は、集落、自治単位というような意味を示しますが、「被差別部落」と用いられ、原意が喪失されるにつけ、差別的な単語と認識されるようになります。また、封建時代の京都には「職屋敷」と呼ばれる福祉行政機関である「当道座」が存在し、盲人を保護していました。職業や職位によって、検校、別当、勾当、座頭、などと言った位階が盲人に与えられ、平民であっても高い位の公職者となる機会が、盲人にはあったわけです。職業には、はり、あん摩師、琵琶、管弦、詩歌などの専門家などがあったといいます。現在でも、京都の人は盲(モウ)の人を「おめくらさま」と尊んで呼びます。当家の先々代も全盲でした。

盲を「メクラ」と蔑んで呼ぶ人がいるから、盲(モウ)もメクラも差別語だといううことになってしまうのですが、本来、メクラ(目暗)は差別語でもなんでもなかったわけです。

 

そもそも、「はしため」という言葉が聖書に出現する理由は、神を「主」と呼ぶからです。神が「主」であるなら、それを礼拝する信者が「下僕、下女」であるということになるのは自然なことです。「下女」よりは、ちょっと雅味を感じる「はしため」にしよう、となるのももっともなことです。しかし「仕え女」としてしまうと、主従関係外のヘルパーさん、という感じになってしまいます。差別的でなければそれでOK、というものではないのではないですか、ということでしょうね。

 

聖書に差別表現が溢れているように感じるのは、聖書の主張の根幹が差別そのものだからです。聖書とは、イスラエル人、またはキリスト教徒が、非イスラエル人、または非キリスト教徒より優れていることを主張するところの書物なのであって、そもそもが差別を助長する文書だということです。