キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

ぶどう酒と革袋のたとえ

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www.psephizo.com

福音書の「ぶどう酒と革袋のたとえ」と呼ばれている箇所を読んでみましょう。

マタイによる福音書 9:14-17

そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。 

まだ醗酵が止んでいない醸したての新酒からは、炭酸ガスが発生しますので、古くなってくたびれた革袋に詰めて栓をしてしまうと、革袋がその膨張に耐えられなくなって破れてしまいます。そのように、イエス様によってもたらされる新しい考え方を受け入れる時代、世の中、考え方は新たに生まれ変わらなくてはならない、という教えである、という解釈がほぼすべてではないかと思うのですが、そうではなくて、ここで最も言いたいことは、古くなったぶどう酒とくたびれた古い革袋です。

とりあえず苦しい顔をして断食さえしていれば、人から評価を受けるのだ、と理解している人、またそのようにしか人を評価することができない人、不要な議論をふっかけてマウントをとることに血道を上げる人。そのような考え方を、雑菌に侵されて酸っぱくなり、捨てるしかなくなった古いぶどう酒に、そのような考え方しかできない人間を、古びて役に立たなくなってしまった革袋にたとえているのです。

救いようのないバカ人間は実在します。どうしようもないからそんなものは捨てておけ、と言っているわけです。

劇団四季出身の牧師は年収800万(笑)

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note.com

 

また悪いクセで面白いブログを見つけてしまいました。

女性牧師の話題のようですが、牧師が女性ということは、非原理主義というか、どちらかというとユルくて自由な風潮の教会なのでしょう。前任の牧師は「悪くない」牧師だったのだけれど、今の牧師は劇団四季出身の女性で歌は上手なのだけど、うつ病の罹患歴があり、余裕のない態度で好きにはなれない、ということです。偶然スーパーマーケットで出会ってもお互い知らん顔をするような間柄なのだそうです。

ある主日礼拝で、「奉献の祈り」の奉仕を担当することになったのだそうで、少し引用してみましょう。

司会者・オルガン奏者・奉献の祈り担当者は礼拝前に牧師からお祈りを捧げてもらうのがルールです。

礼拝は午前10時半からスタートなので、10時15分くらいにお祈りをします。

私は10時10分くらいに教会に着き、おはようございますと挨拶すると牧師室から牧師、司会者、オルガン奏者が出てきました。

司会者のLさんが「あ、お祈りもう終わったから」と一言。 

そりゃあそうでしょう。「10時15分くらい」に始まる祈祷会に、「10時10分くらい」に教会に着いてるようじゃだめですよね。当たり前だと思いますよ。

で、色々腹が立つことがあったので、奉献の祈りの奉仕で、

緊急事態宣言が解除され礼拝にきたけど、兄弟姉妹は私を邪魔者のような目で見て教会はいばらの森のようでした。

このいばらの森が開かれることを願います。

 と発言したのだそうです。

正直に話すと8割は嫌味と腹いせですw 

とも書いておられます。 

その後、牧師が行う、その月の誕生月信徒のためのお祈りで、自分への名指しのお祈りの内容がぞんざいだったと不平をおっしゃって、それから、他の会員の奉献のお祈りの内容にはケチを付けたのだそうですが、僕にはなぜこの記事を書いて世間に晒そうと思ったのかがちょっと理解できませんでした。まあ、おもろいな、とは思ったのですけど(笑)。

 

教会は人間関係を求める場ではない、神様と交わる場。

とかいておられるのですが、牧師や他の会員とはもちろんですが、神様とも交わってはいませんよね。

 

しばらく今の教会とは距離置いて、落ち着いたら他の教会を見つけようかと思います。

ぶっちゃけ、カトリックには興味あるし。

と書いておられますが、どこへ行ってもおなじことの繰り返しだと思いますよ。キリスト教の教会というのは、そのような、「嫌な思い」をしてストレスを溜めることを目的にしている人が集まっているところなんですよ。あなたはまともな人だから、そういう変な人達と交流しようとすると摩擦が生じるのだし、いもしない神に語りかける、なんて愚行はできないわけです。どうか安心してください。

それから、牧師謝儀ですが、家賃、光熱費、携帯代を別に払っているなら、贅沢に考えても月10万、年120万円で十分だと思います。

経済観念が狂っている組織とは関わり合いにならないほうがいいと思いますよ。嫌な思いをしてからでは遅いと思います。

それでは、どうぞお大事に(笑)。

 

十人の乙女のたとえ

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mementmori-art.com

マタイ福音書に、「十人の乙女」と言われるたとえ話があります。読んで見ましょう。

マタイによる福音書 25:1-13

そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。 

「何事にも準備を怠るな」ということの教訓なんだろうな、ということはなんとなくわかるのですが、乙女が花婿を迎える、とはどういうことなのか、たとえそのものの意味がよくわからないですよね。子供の頃、この箇所が話に出るたびに、花嫁が十人いるのに、花婿が一人だけしかいないように読めるのは一体どういうことなのだろうか、と悩んだことを思い出します。

どうやら、そうではなくて、当時のユダヤの結婚式は、まず花婿が花嫁の実家に花嫁を迎えに行く、ということから始まったのだそうで、しかも、結婚式は日が落ちてから始めるのが普通だったのだそうです。

十人の乙女とは、花嫁を迎えに来た花婿を最初に接待する、という役割を負った、花嫁の実家の使用人だったのです。

 

賛美歌174番は、このたとえ話を元にした賛美歌です。

 【讃美歌】174番「起きよ、夜は明けぬ」

 

バッハはこの賛美歌からカンタータを作曲しました。

Bach - Cantata Wachet auf, ruft uns die Stimme BWV 140 - Van Veldhoven | Netherlands Bach Society

 

このカンタータの第4曲 からオルガン曲も作られています。

Bach - Wachet auf, ruft uns die Stimme BWV 645 - Zerer | Netherlands Bach Society

 

ただぼんやりと待っているだけでは、理想の世界(神の国)は実現されない。その到来を待ち望むのではなくて、自分たちの努力で建設しなくてはならない、そのことを、このたとえ話は教えていると思います。では、何をすればよいのか、それは簡単な話です。同じ福音書の他の箇所にいくらでも答えがあります。すなわち、財産を捨てる、という、ただそれだけのことです。

賢明な五人の乙女とは、すべての財産と持ち物を捨て去ったもの、愚かな五人の乙女は捨てることができなかったもの、であったわけです。

民族宗教との習合

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"Salita" della Madonna dei Sette Veli in Cattedrale, Ferragosto 2019

 

エス様の母であるマリヤ様の立体像や画像を聖堂に展示して祈りを捧げるなど、崇拝を行うのは、正教会カトリック教会、聖公会ルター派などの教会です。彼らは「崇拝」ではなくて「崇敬」だと主張するようですが、キリスト教的に解釈するのであれば、人の行う祈念を間接的に理解する能力があるものは神以外にはあり得ないのですから、マリヤ様に対してお願いごとをするなど、祈念を捧げるといういことは、すなわち崇拝を行っている、と理解して間違いではないと思います。

 次の動画を御覧ください。

2019年8月15日、聖母被昇天の祝日の礼拝の様子だそうです。

 

そもそも、聖母を礼拝すること自体、すでに純粋な、福音書的な実践であるとは言い難いと言えるのではないでしょうか。「アテナ神信仰」や「ガイア信仰」を捨てきれなかった初期キリスト教徒の不満に対する苦肉の策として、聖母信仰が、それにとって変わるもの、あるいは同等の価値があるものだと言って導入されたものであったわけです。

信仰なんてそんなものです。まずは自分たちの便利でなければ意味を成しません。納得できて、満足感を得られるものでなければならないのです。

モレク神などの偶像崇拝を批判するイラストで、機械仕掛けで動いたり煙を吐いたりする神像を礼拝する様子を描いたものがありますが、上記動画のマリヤ様はまさにそれですよね。

プロテスタントだって似たようなものだと思いますよ。聖書は神が人を操って、自動筆記で著した、なんてのは天理教の「お筆先」とおなじ考えかたでしょう。

ミサと聖体礼儀

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www.gerdludwig.com

カトリック教会の聖餐式はミサ、正教会聖餐式は聖体礼儀と言います。これは皆さんよくご存知かと思います。プロテスタント信徒であっても、一度はそれらの礼拝式に参加した、あるいは見学した、という方がおられるかもしれませんね。

下記の二つのYoutube動画を御覧ください。上はカトリックのミサ、下はロシア正教会の聖体礼儀を記録したものですが、いずれも司教、主教が司式する、特に大掛かりで荘厳な儀式の模様です。

 

Solemn Pontifical Mass

 

youtu.be

Divine Liturgy in St. Niholas Russian Orthodox

 

いかがでしょうか。僕には、カトリックのミサは、正教会の聖体礼儀に比べて、なにか、空々しいというか、他人事というか、心がこもっていなくて、こんなことをするのは不本意だが、仕事だから仕方なくマニュアル通りに行っているだけだ、というように見えてしまいます。

一方、正教会の聖体礼儀を見ますと、この人達は、実に神を見ているんだな、と思わせられます。精神性が深いのでしょう。また、今行っていることに対する具体的な意味、必要性を自覚できているように感じます。

常にローマ帝国とともにあった正教会は、現在でも、存在の大きな理由として、属する国家の指導者と国民の平安を神に祈念するため、があるでしょう。正教会の聖歌には、次のような祈祷文があることを確認できます。

(省略)

輔:我が国の天皇および国を司る者の為に主に祈らん。
詠:主憐れめよ。
輔:この都邑(まち)と凡その都邑と地方、及び信を以て此の中に居る者の為に主に祈らん。
詠:主憐れめよ。
輔:気候順和、五穀豊穣、天下泰平の為に主に祈らん。
詠:主憐れめよ。
輔:航海する者、旅行する者、病を患(うれ)うる者、艱難に遭う者、虜となりし者、及び彼等の救いの為に主に祈らん。
詠:主憐れめよ。

(省略)

ただひたすらに教会そのものが発展することだけを目的にして巨大化した西方の教会とは一味違うのだ、というところを感じとることができる、と言えるでしょう。

国家や帝王の安寧を願うことはキリスト教として本質的といえるのかどうか、という問題はあるのかもしれませんが、魔女裁判を行って、自らの信徒輩を侮辱したり殺したりするような教会よりは、少しマシと言えるのかもしれません。

神の兄弟

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isjesusalive.com

聖書には、イエス様に兄弟がいたことを伺わせる記述があります。Wikiから引用してみましょう。

ja.wikipedia.org

マタイ福音書』及び『マルコ福音書』から、イエスにはヤコブ、ヨセフ、シモン(シメオン)、ユダ及び妹2人がいたことが分かる。彼等の位置づけについては、キリスト教会間では意見が分かれる。プロテスタント教会では文字通りに、ヨセフマリアとの間の子供と見做しているが、マリアの処女性を認める正教会及びカトリック教会はこれを認めず、独自の解釈を出している。 

このことについて、プロテスタント教会は、マリヤとヨセフの間にうまれたイエス様の異父兄弟である、と理解しているのですが、

正教会は、Wikiによれば、

正教会はヨセフが先妻との間にもうけた子供たちであると見做している。新約聖書外典である『ヤコブ原福音書』にその要素が見出される(但し、正教会は自らの解釈を伝承に由来するものであるとし、外典を根拠としている訳ではない)。 

 と考えていて、カトリックは、

カトリック教会では、古代ユダヤ社会では“兄弟”と言う言葉は同時に“従兄弟”も意味すると解釈し、更にエウセビオスが『教会史』に引用する、ヤコブ殉教後にヨセフの兄弟クロパ英語版の息子であるシメオンがその後を継いだとするヘゲシップスの記事に注目し、イエスの叔父クロパの息子と見做している。

と考えている、とあるのですが、ヨセフの先妻の生んだ子である、とするのであれば、マルコによる福音書 6:3 に登場する四人の兄弟と二人(以上)の姉妹は、全て年上の兄、姉ばかりであったことになるはずです。見てみましょう。

マルコによる福音書 6:3

この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか

このとき、イエス様が三十歳ぐらいだとすると、兄や姉達はそれ以上でしょうから、立派なオトナもいいところです。そうだとすると、なぜ兄たちは揃って実家で生活を続けていたのか、姉達も嫁がずに実家にいたのでしょうか。また、東方の博士が帰ったあと、天使がヨセフにエジプトに逃げるように指示しましたが、上の兄、姉達については言及していません。

マタイによる福音書 2:13

彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」 

これも不思議、というか、ちょっと話が通らないでしょう。

また、従兄弟姉妹という意味だった、という考え方については、コロサイ人への手紙で、

コロサイ人への手紙 4:10

わたしと一緒に捕われの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っている。

Colossians KJV 4:10

Aristarchus my fellowprisoner saluteth you, and Marcus, sister's son to Barnabas,

とあるように、従兄弟であればそう明らかに表現されているわけですから、これも疑わしい話です。

また、マリアとヨゼフの間にできたイエス様の兄弟だとしても、

ja.wikipedia.org

によれば、

4世紀の歴史家エピファニウスによれば、イエス昇天後にエルサレムで活動した弟子たちの教団であるエルサレム教会の初代教会長を、紀元38年から、石打ちの刑で殺された紀元62年まで、24年間つとめたとされる。

とあって、イエス様の兄弟の一人であるヤコブという人物が、初期教団の重鎮であった、ということになっているのですから、イエス様の誕生日や処刑された日、復活した日、昇天した日、それぞれの具体的な日付年月日が一切伝えられていない、という現実は全く腑に落ちないことだと思います。

実際、聖書に記されていることの殆どは、理性的に考えて歴史上の事実ではないでしょう。しかし、キリスト教という宗教は現実に存在しますし、西洋史のほとんどと、世界史においても重要な局面において、キリスト教は小さくない影響を及ぼしてきました。

僕としましては、一体どこからが現実のキリスト教なのか、実在した人物はキリスト教史上何年の誰からなのか、ということに興味があります。そういうことが明らかになれば、今までうまくいかなかった色々なことが、うまく行きだすのではないか、というような気がするのですけど、それは楽観というヤツでしょうか(笑)。

聖書が同性愛を禁じる理由

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baptistnews.com

聖書には、同性愛を禁じているように読める箇所がいくつかあります。見てみましょう。

ローマ人への手紙 1:26-27

それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。

コリント人への手紙 6:9-10

それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。 

 旧約にもあります

レビ記 18:22

あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。

おわかりいただけるでしょうか。これらの引用はどれも、同性を愛することではなくて、同性愛行為を行うことを禁じています。コリント前書が特にわかりやすくて、してはいけないことは、男娼となること、男色をすること、とあります。

この理由は、記述した人、聖書の著者ですが、その人が異性愛者だったからでしょう。人間は誰であっても、男でも女でも、少しは同性に対する性的興味があります。純粋に異性だけ、同性だけが性的対象である、という人はいないと思います。人間は皆バイセクシャルなのです。その中で、性的、かつ人間的に愛することができる対象はどちらなのか、ということが、異性愛者であるか、同性愛者であるかの区別になるのですが、異性愛者の数が同性愛者の数を上回っていることはご承知の通りで、同性愛者は圧倒的マイノリティであるわけです。

ですから、多数派である異性愛者の男性も、男性に性的魅力を感じる、ということを理解することができるのですが、精神的に愛する、ということまでは考えが及びません。異性愛者も同性に性的魅力を感じる場合があるけれども、それを実行に移すことはあまりないでしょう。それは「良くない火遊びだから」と理解しているからです。

つまり、異性愛者にとって同性愛者とは、摘めば枯れてしまう悪い芽を、わざわざ育てて悪ぶっている人、というようにしか理解できないのです。自然に従えば異性を求めるのだが、故意に倫理に反して同性との情欲に溺れることを欲しているのだ、と理解するのですから、それはダメ。犯罪だよ、となってしまうことは無理もないことです。中途半端に、同性に性的魅力を感じる場合もある、ということを知っているが故に、かえってそのような考えになってしまうわけです。聖書が著された時代は、同性愛に関する、それ以上の理解を促す、あるいは理解を行うための社会的インフラが存在しなかったでしょう。理解が深まってきたといえるのは、ほんの、この十年ほどのことなのではないでしょうか。

実際には、LGBTとは、病気でも、趣味でも、嗜好でもなく、その人が生まれ持った自然の状態である、ということです。そのような現実に、きちんと向き合うことができず、建前でしか理解することができないのであれば、キリスト教はもう不必要、という時代に成長してきている、ということなのではないでしょうか。同性愛は聖書で禁止されているから犯罪だ、というのなら、もう聖書ごと捨てましょう、ということです。聖書の記述に振り回されて、魔女裁判で6万人が処刑され、地動説が否定され、ハンセン氏病患者が清くないと蔑まれてきたのではなかたのでしょうか。もうこれ以上同じ過ちを繰り返すべきではありません。

ただ、一つ、ゲイの皆さんに申し上げておきたいことがあります。異性愛であれ、同性愛であれ、誰彼かまわず不特定多数の相手とセックスを楽しむことは良くないことだと思います。全員がそうだということでもないのでしょうが、SNSなどでつたわってくる内容によれば、そういう傾向が強いようにも感じます。