キリスト教の問題点について考える

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聖書が同性愛を禁じる理由

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baptistnews.com

聖書には、同性愛を禁じているように読める箇所がいくつかあります。見てみましょう。

ローマ人への手紙 1:26-27

それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。

コリント人への手紙 6:9-10

それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。 

 旧約にもあります

レビ記 18:22

あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。

おわかりいただけるでしょうか。これらの引用はどれも、同性を愛することではなくて、同性愛行為を行うことを禁じています。コリント前書が特にわかりやすくて、してはいけないことは、男娼となること、男色をすること、とあります。

この理由は、記述した人、聖書の著者ですが、その人が異性愛者だったからでしょう。人間は誰であっても、男でも女でも、少しは同性に対する性的興味があります。純粋に異性だけ、同性だけが性的対象である、という人はいないと思います。人間は皆バイセクシャルなのです。その中で、性的、かつ人間的に愛することができる対象はどちらなのか、ということが、異性愛者であるか、同性愛者であるかの区別になるのですが、異性愛者の数が同性愛者の数を上回っていることはご承知の通りで、同性愛者は圧倒的マイノリティであるわけです。

ですから、多数派である異性愛者の男性も、男性に性的魅力を感じる、ということを理解することができるのですが、精神的に愛する、ということまでは考えが及びません。異性愛者も同性に性的魅力を感じる場合があるけれども、それを実行に移すことはあまりないでしょう。それは「良くない火遊びだから」と理解しているからです。

つまり、異性愛者にとって同性愛者とは、摘めば枯れてしまう悪い芽を、わざわざ育てて悪ぶっている人、というようにしか理解できないのです。自然に従えば異性を求めるのだが、故意に倫理に反して同性との情欲に溺れることを欲しているのだ、と理解するのですから、それはダメ。犯罪だよ、となってしまうことは無理もないことです。中途半端に、同性に性的魅力を感じる場合もある、ということを知っているが故に、かえってそのような考えになってしまうわけです。聖書が著された時代は、同性愛に関する、それ以上の理解を促す、あるいは理解を行うための社会的インフラが存在しなかったでしょう。理解が深まってきたといえるのは、ほんの、この十年ほどのことなのではないでしょうか。

実際には、LGBTとは、病気でも、趣味でも、嗜好でもなく、その人が生まれ持った自然の状態である、ということです。そのような現実に、きちんと向き合うことができず、建前でしか理解することができないのであれば、キリスト教はもう不必要、という時代に成長してきている、ということなのではないでしょうか。同性愛は聖書で禁止されているから犯罪だ、というのなら、もう聖書ごと捨てましょう、ということです。聖書の記述に振り回されて、魔女裁判で6万人が処刑され、地動説が否定され、ハンセン氏病患者が清くないと蔑まれてきたのではなかたのでしょうか。もうこれ以上同じ過ちを繰り返すべきではありません。

ただ、一つ、ゲイの皆さんに申し上げておきたいことがあります。異性愛であれ、同性愛であれ、誰彼かまわず不特定多数の相手とセックスを楽しむことは良くないことだと思います。全員がそうだということでもないのでしょうが、SNSなどでつたわってくる内容によれば、そういう傾向が強いようにも感じます。