キリスト教の問題点について考える

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ぶどう酒と革袋のたとえ

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福音書の「ぶどう酒と革袋のたとえ」と呼ばれている箇所を読んでみましょう。

マタイによる福音書 9:14-17

そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。 

まだ醗酵が止んでいない醸したての新酒からは、炭酸ガスが発生しますので、古くなってくたびれた革袋に詰めて栓をしてしまうと、革袋がその膨張に耐えられなくなって破れてしまいます。そのように、イエス様によってもたらされる新しい考え方を受け入れる時代、世の中、考え方は新たに生まれ変わらなくてはならない、という教えである、という解釈がほぼすべてではないかと思うのですが、そうではなくて、ここで最も言いたいことは、古くなったぶどう酒とくたびれた古い革袋です。

とりあえず苦しい顔をして断食さえしていれば、人から評価を受けるのだ、と理解している人、またそのようにしか人を評価することができない人、不要な議論をふっかけてマウントをとることに血道を上げる人。そのような考え方を、雑菌に侵されて酸っぱくなり、捨てるしかなくなった古いぶどう酒に、そのような考え方しかできない人間を、古びて役に立たなくなってしまった革袋にたとえているのです。

救いようのないバカ人間は実在します。どうしようもないからそんなものは捨てておけ、と言っているわけです。