キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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十人の乙女のたとえ

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マタイ福音書に、「十人の乙女」と言われるたとえ話があります。読んで見ましょう。

マタイによる福音書 25:1-13

そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。 

「何事にも準備を怠るな」ということの教訓なんだろうな、ということはなんとなくわかるのですが、乙女が花婿を迎える、とはどういうことなのか、たとえそのものの意味がよくわからないですよね。子供の頃、この箇所が話に出るたびに、花嫁が十人いるのに、花婿が一人だけしかいないように読めるのは一体どういうことなのだろうか、と悩んだことを思い出します。

どうやら、そうではなくて、当時のユダヤの結婚式は、まず花婿が花嫁の実家に花嫁を迎えに行く、ということから始まったのだそうで、しかも、結婚式は日が落ちてから始めるのが普通だったのだそうです。

十人の乙女とは、花嫁を迎えに来た花婿を最初に接待する、という役割を負った、花嫁の実家の使用人だったのです。

 

賛美歌174番は、このたとえ話を元にした賛美歌です。

 【讃美歌】174番「起きよ、夜は明けぬ」

 

バッハはこの賛美歌からカンタータを作曲しました。

Bach - Cantata Wachet auf, ruft uns die Stimme BWV 140 - Van Veldhoven | Netherlands Bach Society

 

このカンタータの第4曲 からオルガン曲も作られています。

Bach - Wachet auf, ruft uns die Stimme BWV 645 - Zerer | Netherlands Bach Society

 

ただぼんやりと待っているだけでは、理想の世界(神の国)は実現されない。その到来を待ち望むのではなくて、自分たちの努力で建設しなくてはならない、そのことを、このたとえ話は教えていると思います。では、何をすればよいのか、それは簡単な話です。同じ福音書の他の箇所にいくらでも答えがあります。すなわち、財産を捨てる、という、ただそれだけのことです。

賢明な五人の乙女とは、すべての財産と持ち物を捨て去ったもの、愚かな五人の乙女は捨てることができなかったもの、であったわけです。