キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

聖書の読み方

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www.gwern.net

ほとんどのキリスト教徒は、聖書には事実がそのまま記述されている、と考えたがるように見えます。次の箇所も事実と読み取るわけです。見てみましょう。

創世記 19:24-28

主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。アブラハムは朝早く起き、さきに主の前に立った所に行って、ソドムとゴモラの方、および低地の全面をながめると、その地の煙が、かまどの煙のように立ちのぼっていた。

しかし、ただ、事実の記録と読むよりは、読むものの心の働きについての指摘と読むほうが、思想の深みに思いを致すことができるのではないかと思います。

即ち、人間はかんたんに劣悪な状態に同化することができてしまうのだ、という現実、そしてその結果得るものは、焼け野原の如き、全く何の価値もないものに過ぎない、ということ、それから、人間は、絶対にそれを行ってはいけない、とわかっている事柄であっても、あえてそれを行って滅んでしまうことがあるのだ、ということです。

出エジプトの故事はどうでしょうか。我々は欲望に囚われてその結果、想像もできないような混迷に足を取られてしまう危険と隣合わせに生きているのだが、それに気づいたのであれば、必死になってそこから脱出しなくてはならない。それが人としての責任だ、と読み取ることができるでしょう。

少し見て見ましょう。

民数記 21:23-26

そしてシホンは民をことごとく集め、荒野に出て、イスラエルを攻めようとし、ヤハズにきてイスラエルと戦った。イスラエルは、やいばで彼を撃ちやぶり、アルノンからヤボクまで彼の地を占領し、アンモンびとの境に及んだ。ヤゼルはアンモンびとの境だからである。こうしてイスラエルはこれらの町々をことごとく取った。そしてイスラエルはアモリびとのすべての町々に住み、ヘシボンとそれに附属するすべての村々にいた。ヘシボンはアモリびとの王シホンの都であって、シホンはモアブの以前の王と戦って、彼の地をアルノンまで、ことごとくその手から奪い取ったのである。

この禍々しい記録は、迷妄(エジプト)から覚醒(約束の地カナン)へと立ち返る過程においては、様々な、想像を絶する困難があって、それを乗り越える必要があるだろうが、臆せず勇敢に立ち向かえ、と教えているわけです。

 

これらが記録文書である、と読もうとするのであれば、イスラエル人は実際にはありもしない「出エジプト」をでっちあげ、軍備も戦闘能力もなかったくせに、異民族を殲滅した、などと大風呂敷を広げて恥ずかしげもなくホラを吹いて・・・

となってしまうのですが、人間の心理について掘り下げられた文章であるとするならば、有益な示唆を読み取ることができるのではないでしょうか。

映画「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」

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www.banger.jp

 

映画「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」をご紹介します。

上記サイトから引用しましょう。

ここ数年、長きにわたって隠蔽されてきた権力者による性暴力を白日の下に晒し、その責任を追求する動きが世界のあちこちで勢いづいている。ハリウッドから#MeToo運動が大きな広がりを見せはじめたのが2017年。カトリック教会の聖職者による児童への性的虐待が大スキャンダルとして明るみに出され、ローマ法王庁がそれを事実と認めたのも2010年代の出来事だ。『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』は、そうした動きのひとつ、フランスで少年時代にカトリックの神父から受けた性的虐待について声をあげた人々の実話に基づいた作品である。

 

宗教勧誘人との対話

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samjw.weebly.com

キリスト教の宗教勧誘といえば、まず思い出されるのがエホバの証人でしょう。十年ほどまえに、阪神地方の団地に住んでいたことがあるのですが、やはり、ときどきエホバの証人の訪問がありました。ほとんどは無視するか断って帰ってもらっていたのですが、一度だけ、思い立ってお相手したことがあります。

以下、当時を思い出しながら、できるだけあった通りに会話内容を記述してみようと思います。

 

ク:は私、クッキングホイルで、エ:エホバの証人の勧誘の40才ぐらいの女性です。

 

ク:それではお話を聞きますので玄関へお入りください。

エ:え、いいんですか、それでは失礼します。

ク:話し声が近所迷惑になってはいけませんので中へ入ってドアを閉じてください。

こういいますと、

エ:友人と一緒ですので呼んできていいでしょうか。

といいますので了承したのですが、しばらくして一人で帰ってきて、

エ:見つかりませんでしたので私だけでお話させてください。

といいながら、ドアロックを回してロックを露出させて、ドアが閉まってしまわないように細工をしてドアを閉めようとしますので、

ク:話し声などの騒音に配慮するように注意されていますので、ドアはきちんと閉めてください。何か信用できないようなことがお有りでしたらお帰り頂いて結構ですよ。

と言いますと、渋々の様子でドアロックを元に戻してドアをしめました。

挨拶や自己紹介などがありましたが省略し、本題らしき話題へ突入したあたりから記します。

 

エ:神様を信じていますか。

ク:いいえ。全く信じていません。

エ:聖書を読んだことはありますか。

ク:はい。あります。

エ:聖書を読んだのになぜ神様を信じないのですか。

ク:聖書といっても本屋にならんでいる商品の一つですよ。いちいち鵜呑みにしてたらキリが無いと思いますけど。

エ:聖書には神の真実が述べられています。

ク:その根拠は何ですか。

エ:あなたの読んだ聖書は偽の聖書です。真実ではありません。私達の聖書だけが唯一正しい聖書です。

ク:その根拠は何ですか。

エ:あなたの読んだ聖書からは「神の名」が抹消され、偽証されているのです。

ク:何のことですか。

エ:「エホバ」という神の聖なるお名前を「主」と改ざんしています。

ク:なるほど。あなたは「テトラグラマトン」をご存知ですか。

エ:知りません。何のことですか。

ク:それでは、「マソラ本文」はご存知ですか。

エ:知りません。話を逸らすおつもりではないですか。

ク:いいえ。まさに今お話していることですよ。「アドナイ」はご存知ですか。

エ:知りませんが、偽の聖書から神の名前が抹消されていることに違いは無いと思います。

ク:「マソラ本文」とはヘブル語聖書の本文のことですが、そこには「神の名前」は一切記されていません。神の名前ではなく「テトラグラマトン」が記されています。「神聖四文字」という意味ですが、聖書で神の名を呼ぶことは禁じられていますので、ユダヤ教では聖書に「テトラグラマトン」が現れると、これを「アドナイ」と読み替えます。これはヘブライ語で「主」という意味です。元々は「テトラグラマトン」は発音されていたのでしょうが、ユダヤ教徒は、神の名を呼んで罰せられることを畏れてこれを発音しなくなり、やがてその正しい発音がわからなくなってしまったわけですね。キリスト教徒は「テトラグラマトン」を仮定的に「エホバ」とか「ヤハウェ」とか発音しますが、これはユダヤ教では考えられない暴挙だといえるわけです。ですが、そういうわけで、「テトラグラマトン」を翻訳する際に、前後の関係から、場合によっては「エホバ」とか「ヤハウェ」よりも「主」としたほうがわかりやすい箇所があったのでそうしたのかもしれませんね。しかし、それを「偽証」と言うにはちょっと無理があるように思いますよ。

エ:ですが、我々はそれを悪意ある偽証と考えています。我々の聖書だけが世界で唯一の真正な聖書です。

ク:あなた方のその真正な聖書には複数のエディションが無いのですか。

エ:もちろんです。エディションは唯一です。

ク:ではアメリカの人も韓国の人も日本語で聖書を読んでいるのですか。

エ:あなたは屁理屈ばかり言っていてまともな話し合いになりませんので、私はもう帰ります。

 

概ね以上のようなやり取りだったと思います。エホバの証人の皆さんは、以後、勧誘に向かわれる際には、マソラ、テトラグラマトン、アドナイ、などの意味をよく調べてからになさるようお勧めします。

神が罪を祝福することは不可能

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www.bbc.com

上記記事から引用してみましょう。

教義および道徳の保持と促進を担う教理省は今回、神が「罪を祝福」することは「不可能」だと説明。 

 一宗教団体でしかないカトリック教会が、何をどのように理解して、自分たちの信者にどう指導するかは、全くの自由でしょうし、外部からどうこう言う筋合いのものでは無いともおもうのですが、どう考えても間違っているとしか思えないところがありますのでこの際指摘させていただきます。次の箇所、

神が「罪を祝福」することは「不可能」だ

 これはおかしいですよね。

カトリック教会が「罪を祝福」することは「不面目」だ

 というべきでしょう。

おそらく、というよりは絶対に、教理省はこの問題について、神に直接聞いてはいないはずです。聞く神が実在するのであれば、人に依らずに直接教える神も実在するはずですよね。実在しないことを承知しているからこそ、「不可能」だ、などと、思惑ばかりか能力までも限定して平気な顔でいられるわけです。

次の記事も御覧ください。

www.barks.jp

引用しましょう。

エルトンは同日、#hypocrisy(偽善)のハッシュタグをつけ、こうつぶやいた。「どうしたらバチカンは、“罪”だからと同性婚を拒絶できるのか?? 僕がデヴィッドとの結婚で幸せを見出したことを祝う映画、“Rocketman”に巨額の投資をし、喜んで利益を得ているくせに」

バチカンはエルトンのバイオグラフィ映画『ロケットマン』や『メン・イン・ブラック:インターナショナル』などの映画に計400万ユーロ(約5億円)以上投資したと報じられたことがあり、エルトンはその記事のヘッドラインも投稿している。

いかがでしょうか、利用 はするが許容はできない。自らの無知を覆い隠すために神の能力を限定したがる。宗教というものは全く破廉恥の極みと感じます。

同性愛が罪だというのであれば、カトリック教会の神父が同性愛者で溢れているのはどういうわけなのでしょうか。教理省は、カトリックは犯罪組織だと自白していることになりますがそうなのでしょうか。

暗黒世界へ追放される者とは

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word-dictionary.jp

マタイの福音書には、「外の暗闇」という表現が三回現れます。見てみましょう。

マタイの福音書 8:11-12

なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

マタイの福音書 22:12-13

彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

マタイの福音書 25:29-30

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

 一般的な教会の解釈では、「外の暗闇」を地獄のこと、あるいは、最後の審判のときに開かれる、地獄のようなところのこと、ということになっているようです。

こういう直感的でない表現にぶつかると、キリスト教という世界の住人たちは、ついついファンタジー的な解釈をしたがるようなのですが、もしそうなのであれば、はっきり「地獄」と言われたのではないかと思います。同じマタイの福音書には

マタイの福音書5:22

しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

という表現があります。ですから、「外の暗闇」と「地獄」は別のものであると考えるべきです。

地獄については過去の記事

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

をご参照ください。

それに、外の暗闇が(キリスト教の考えている)地獄の意味であるというのであれば、イエス様は、自分の思い通りに動けない人に対して、死んで地獄に堕ちろ、と言っていることになってしまいますよね。

日本語でも、ある事柄に精通していることを「明るい」、よく知らないことを「暗い」という場合がありますが、この場合の「暗い」もそういう意味でのことだと思います。

「外の暗いところ」とは、「イエス様の教えの価値を知ろうとはしない者たちのグループ」ということになるでしょう。マタイ十章にある次のことばがしめすような、「町」とか「家」がそのようなところでしょう。

マタイの福音書 10:13-14

もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。 

教えても理解しようとしない人に、いつまでも執拗に食い下がっても、思っているような効果は期待できない。だから、そういう人たちは残念だが暗いままで放置するしかないね、と言っているわけです。

 

マタイの福音書八章の引用についてもう少し考えて見ましょう。

マタイの福音書 8:11-12

なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

中国語で「東西」というと、「物」という意味になります。僕は、中国語に精通しているわけではありません(明るくはない)ので、「東西(トンシ)」と聞きますと、デパートのショーケースに並んでいる「商品」のイメージが頭に浮かびます。

マタイのこの箇所で言われている、東西から来る多くの人とは、異教徒のことと考えれば自然でしょう。また、外の闇に追い出されるこの国の子らとは、聖書を読んでイエス様の教えを知ったつもりでも、死後の魂の行方など、本質とはかけ離れた無意味なことばかりに興味を置く人たち、つまりキリスト教徒のことを言っているのだと考えると、素直に納得することができるのではないかと思います。

エス様は、キリスト教徒が最も暗いもの、となることをご存知だったようです。

献金と詭弁

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聖公会の「インマヌエル新生教会」という教会のサイトに次のような記述があります。引用してみましょう。

immanuel-s.jp

2.教会はお金がかかるのですか。献金とは何ですか。

教会には会費はありません。礼拝の中で集められるお金が献金です。献金は自発的な献げ物で強制されることはありません。教会は、私たちの信仰が感謝と賛美をとおして証しされる場です。そして神と人のために、それぞれが持っている力を捧げ合う姿によって教会は立っています。それは具体的に、祈りのうちになされ、奉仕の行動と、献金をお捧げする行為によって、表わされます。献金は、教会が維持運営されるための、信仰的な大切な行為です。

教会の献金には、毎主日(日曜日)の礼拝での献金(信施とも呼びます)と、教会暦(教会のこよみ、聖日などの教会のカレンダー)に沿った献金、月約献金(月ごとに捧げる献金)、感謝献金(クリスマスやイースターを含めた、特別に感謝する場合の献金)などがあります。特に信徒の務めである月約献金は、教会の維持・運営のために継続してなされる重要なものです。また献金は、教会の運営・維持のためだけではなく、社会的な福祉活動、支援活動団体、災害救援のためにも捧げられます。

失礼ながら、これほど辻褄の合っていない、また、読むひとに真実をつたえようとしない悪文は珍しいのではないかと思います。

まず、「献金は自発的な献げ物で強制されることはありません。」と言っているのですが、「月約献金を行うことは信徒の務め」だと説明しています。「務め」とは、weblioによれば

www.weblio.jp

「当然果たさなければならない事柄のこと」とあります。つまり強制だということですが、果たして献金は自発的な捧げものなのだからおこなわなくても良いのか、務めなのだから必ず行わなくてはならないのか、どちらなのでしょうか。この説明ではわからないですよね。

また、「神と人のために、それぞれが持っている力を捧げ合う姿によって教会は立っています。」と言っていますが、「捧げ合う」ということは、相対する二者が共通の一つの対象である「神と人」に向かって捧げものを行う、という意味であることになりますが、相対する二者とは何と何でしょうか、牧師と信徒なのか、神と人なのか、わかりませんよね。

この文章からは、全く誠実さが伝わって来ません。事実を丁寧に伝えようとして書いていないからです。むしろ、事実はあいまいにして、とりあえず引きずり込んでから型に嵌めればいいだろう、というような謀略を感じ取ることしかできません。

本当に献金とは何か、を伝えたいのであれば、僕であれば次のように書くでしょう。

 

20XX年 収支実績

収入:

 礼拝献金:  XXX,XXX,XXX 円 (1信徒あたり XXX,XXX円)

 教会暦献金: XXX,XXX,XXX 円 (1信徒あたり XXX,XXX円)

 月約献金:  XXX,XXX,XXX 円 (1信徒あたり XXX,XXX円)

 感謝献金:  XXX,XXX,XXX 円 (1信徒あたり XXX,XXX円)

 

支出:

 牧師謝儀:  XXX,XXX,XXX 円

 教会光熱費: XXX,XXX,XXX 円

 備品設備費: XXX,XXX,XXX 円

 

過不足:   +-XXX,XXX,XXX 円  

 

教会サイトの献金説明の項目に、上のような収支の説明がある教会であれば、具体的に献金がどれぐらい必要で、一人あたりいくら負担すれば教会運営が健全に行われるのかが明確になり、金に関してはクリーンであるかもしれない、と評価できるでしょうが、献金が義務なのか行わなくても良いのかがあいまいな説明しかないような教会はちょっとどうかと思いますよ。

ルツとナオミ

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Women of the Bible – Ruth

 

ルツとナオミは、旧約聖書ルツ記」の登場人物です。ナオミから見てルツは嫁、ルツから見るとナオミは姑、ということになります。

「ナオミ」という名前は日本女性の名前として親和的であるということもあって、キリスト教徒が、このナオミを意識して女子に「直美」などと命名することがあるようです。実際、我が家の親族にもその名前の女子があります。

旧約聖書の登場人物ではありますが、ルツは新約聖書にも登場します。見てみましょう。

マタイによる福音書 1:5-6

サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。 

ナオミは、ルツが寡婦となったとき、再婚して新生活を始めることを勧めますが、ルツはナオミとともに夫の故郷であるユダへ帰り、夫の遠縁に当たるボアズとのレビラト婚 を果たして息子オベデを出産し、血脈をエッサイへと繋ぐ手助けを行ったわけです。

過去記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

も合わせてお読みください。

ユダヤ教の価値観によれば、異教徒であるモアブ人の女であっても、イスラエルの歴史に資するものであれば、この書のように「メシア」として扱うのだということです。

メシア(キリスト)とは、「世界を救う救世主」ではなくて、イスラエルを導く「指導者」、または「功労者」、を意味するタイトルであって、人間に与えられるものです。

ルツ記には、神は異教徒をも用いられるということ、イスラエルイスラエルだけで完全に成立するわけではない、という現実から目を反らしてはならない、というイスラエルの精神が記録されているのです。

キリスト教徒がキリスト教の精神性に応用すること、はできていないようですけれど。