上記記事から引用してみましょう。
教義および道徳の保持と促進を担う教理省は今回、神が「罪を祝福」することは「不可能」だと説明。
一宗教団体でしかないカトリック教会が、何をどのように理解して、自分たちの信者にどう指導するかは、全くの自由でしょうし、外部からどうこう言う筋合いのものでは無いともおもうのですが、どう考えても間違っているとしか思えないところがありますのでこの際指摘させていただきます。次の箇所、
神が「罪を祝福」することは「不可能」だ
これはおかしいですよね。
カトリック教会が「罪を祝福」することは「不面目」だ
というべきでしょう。
おそらく、というよりは絶対に、教理省はこの問題について、神に直接聞いてはいないはずです。聞く神が実在するのであれば、人に依らずに直接教える神も実在するはずですよね。実在しないことを承知しているからこそ、「不可能」だ、などと、思惑ばかりか能力までも限定して平気な顔でいられるわけです。
次の記事も御覧ください。
引用しましょう。
エルトンは同日、#hypocrisy(偽善)のハッシュタグをつけ、こうつぶやいた。「どうしたらバチカンは、“罪”だからと同性婚を拒絶できるのか?? 僕がデヴィッドとの結婚で幸せを見出したことを祝う映画、“Rocketman”に巨額の投資をし、喜んで利益を得ているくせに」
バチカンはエルトンのバイオグラフィ映画『ロケットマン』や『メン・イン・ブラック:インターナショナル』などの映画に計400万ユーロ(約5億円)以上投資したと報じられたことがあり、エルトンはその記事のヘッドラインも投稿している。
いかがでしょうか、利用 はするが許容はできない。自らの無知を覆い隠すために神の能力を限定したがる。宗教というものは全く破廉恥の極みと感じます。
同性愛が罪だというのであれば、カトリック教会の神父が同性愛者で溢れているのはどういうわけなのでしょうか。教理省は、カトリックは犯罪組織だと自白していることになりますがそうなのでしょうか。