キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

エッサイの株

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キリスト教のこよみは、待降節アドベント)から始まります。こよみ上の新年最初の祝日といえば、カトリックではテオトコスの祝日(1月1日)がありますが、プロテスタントでは降誕節の終わりである1月6日の公現祭までは何もありません。

ですので、1月1日は「新年礼拝」などと称して、日本人の新年行事欲を満たしているようです(笑)。

今年も我が家には、年末から親戚が集まって来まして、元旦には揃って教会へ新年礼拝に出かけました。僕は行かなかったのですが、礼拝から帰って来た従姉の長女(キリスト教系の女子大生)に、どんなお説教でしたか、と質問しましたところ、「イッサイの株のお話」と言いました。「それは『エッサイの株』やな」と突っ込んだのですが、バタバタしていましたので、その話はそれきりになってしまいました。

降誕祭後のお説教としてはふさわしい主題だったと思います。エッサイとは、ダビデ王の父である旧約聖書(サムエル記)の登場人物ですが、「エッサイの株」とは、「エッサイの木」、「エッサイの根」、などとも言われ、エッサイの末子がダビデ王であり、ダビデから出た子孫がイスラエルの主要な血脈をなしたのだ、ということを表す言葉です。イザヤ書を引用してみましょう。

イザヤ書 11:1-4

エッサイの株から一つの芽が出、
その根から一つの若枝が生えて実を結び、
その上に主の霊がとどまる。
これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、
主を知る知識と主を恐れる霊である。
彼は主を恐れることを楽しみとし、
その目の見るところによって、さばきをなさず、
その耳の聞くところによって、定めをなさず、
正義をもって貧しい者をさばき、
公平をもって国のうちの
柔和な者のために定めをなし、
その口のむちをもって国を撃ち、
そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。 

キリスト教ではさらに、イエス様の系図も、その延長上にあることを強調しています。マタイ伝福音書の冒頭には、イエス様がエッサイとダビデの末であると記されています。

マタイ伝 1:1-6

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリスト系図
アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。 

 イザヤ書 11:10

その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。

この、「もろもろの民の旗」とは、イエス様のことだ、という解釈ですね。要するに、旧約聖書は、各所でイエス様の出現を予言しているよ、ということを言いたいわけで、この箇所もそう読めば読めないこともないだろう、ということです。

初詣は悪魔崇拝、などと、信徒の精神を破壊するような駄説教を撒き散らすバカ牧師に比べれば、キリスト教徒のキリスト教系女子大の学生に「イッサイの株」と記憶せしめる説教を行う牧師は、相当立派な牧師だと言えると思います(笑)。