マタイの福音書には、「外の暗闇」という表現が三回現れます。見てみましょう。
マタイの福音書 8:11-12
なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
マタイの福音書 22:12-13
彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
マタイの福音書 25:29-30
おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
一般的な教会の解釈では、「外の暗闇」を地獄のこと、あるいは、最後の審判のときに開かれる、地獄のようなところのこと、ということになっているようです。
こういう直感的でない表現にぶつかると、キリスト教という世界の住人たちは、ついついファンタジー的な解釈をしたがるようなのですが、もしそうなのであれば、はっきり「地獄」と言われたのではないかと思います。同じマタイの福音書には
マタイの福音書5:22
しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
という表現があります。ですから、「外の暗闇」と「地獄」は別のものであると考えるべきです。
地獄については過去の記事
christian-unabridged-dict.hatenablog.com
をご参照ください。
それに、外の暗闇が(キリスト教の考えている)地獄の意味であるというのであれば、イエス様は、自分の思い通りに動けない人に対して、死んで地獄に堕ちろ、と言っていることになってしまいますよね。
日本語でも、ある事柄に精通していることを「明るい」、よく知らないことを「暗い」という場合がありますが、この場合の「暗い」もそういう意味でのことだと思います。
「外の暗いところ」とは、「イエス様の教えの価値を知ろうとはしない者たちのグループ」ということになるでしょう。マタイ十章にある次のことばがしめすような、「町」とか「家」がそのようなところでしょう。
マタイの福音書 10:13-14
もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。
教えても理解しようとしない人に、いつまでも執拗に食い下がっても、思っているような効果は期待できない。だから、そういう人たちは残念だが暗いままで放置するしかないね、と言っているわけです。
マタイの福音書八章の引用についてもう少し考えて見ましょう。
マタイの福音書 8:11-12
なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
中国語で「東西」というと、「物」という意味になります。僕は、中国語に精通しているわけではありません(明るくはない)ので、「東西(トンシ)」と聞きますと、デパートのショーケースに並んでいる「商品」のイメージが頭に浮かびます。
マタイのこの箇所で言われている、東西から来る多くの人とは、異教徒のことと考えれば自然でしょう。また、外の闇に追い出されるこの国の子らとは、聖書を読んでイエス様の教えを知ったつもりでも、死後の魂の行方など、本質とはかけ離れた無意味なことばかりに興味を置く人たち、つまりキリスト教徒のことを言っているのだと考えると、素直に納得することができるのではないかと思います。