キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

灰の水曜日

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灰の水曜日 - Wikipedia とは、カトリック教会とプロテスタント教会における、四旬節(レント)の第一日に当たる日です。

Wikiには、

この日の典礼では、前年の枝の主日(聖週間の初日となる主日、すなわち復活祭の1週間前)に使用された棗椰子(なつめやし)または棕櫚(しゅろ)の枝などを、最近では3日前の日曜日に不要になった木製の十字架などを集めて、燃やした灰の「祝別式」と「塗布式」が行われる。

祝別式とは、この灰を前に神に祈り、聖別することを指す。

塗布式とは灰の水曜日のミサ(礼拝)で、司式者が信者各自の額に灰の十字を記し(塗り付け)、例えば聖公会では司式者が祈祷書にある「あなたはもともと土から生まれたので、まもなく土に返る。だから罪を悔い改めて、イエスの教えに立ち返りなさい。」と言いながら祈ることを指す。

この儀式後、各信者は額に灰の十字を付けたまま教会から出て、外を歩き、通常(しばらくは)額に記された十字を自ら拭い去ることはない。

とあります。カルバンの影響下にある、長老教会、改革教会、組合教会などの教会でこの儀式が行われることはないのですが、レントが灰の水曜日から始まる、という理解は同じです。

上の引用にある、聖公会の祈祷文、

「あなたはもともと土から生まれたので、まもなく土に返る。だから罪を悔い改めて、イエスの教えに立ち返りなさい。」

の、元となった聖書の箇所をみてみましょう。

創世記 3:17-19

更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

これを読むかぎり聖書の神は、人の一生はこの世に生まれて死ぬまでの間限りであることを説明している、と理解することができると思います。

あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る。

と言われたときに、体が死んでちりに帰ったとしても、霊魂は死なないで安楽あるいは苦しみの下に永遠に生きる、という示唆を感じ取るでしょうか、常識的にはそのように感じとることはできないと思います。

神様が「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」と言われたのであれば、体が死んでちりに帰ったとき、それはその人の終焉である、という意味であると納得するべきでしょう。

聖公会の祈祷文、

「あなたはもともと土から生まれたので、まもなく土に返る。だから罪を悔い改めて、イエスの教えに立ち返りなさい。」

を読めば、人の一生なんて一瞬にすぎない。儚いものだからこそ、善いものにしようと努めるべきだ、と教えているように思えます。聖書が神の言葉であると言うのであれば、すでに創世記の冒頭部分で、人は死ねばそれですべての終わりである、と神自身が説明している、ということになると思います。

天国と楽園の違い

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blog.obitel-minsk.com

過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でも少し述べたのですが、もう一度考えて見ましょう。

中間の状態 - Wikipedia には、次のような説明があります。

正教会の見解として

最終的な判決は最後の審判(古い文献には「公審判」との表現がみられる)に行われるが、その前に、義人の霊も罪人の霊も予備判決(古い文献には「私審判」との表現がみられる)を受ける。義人は死後天使によって楽園の入口に案内され、最後の審判までそこで待つ。ただしこの予備判決は最終判決ではない。最後の審判までに霊の運命が変わる可能性もある。 

 改革派教会の見解としては、

死とは肉体と魂の分離である。死後の中間の状態において、クリスチャンはパラダイスで再臨を待ち、不信者は苦しみながら再臨を待つが、イエス・キリストが再臨され体が復活したときに、栄化されたクリスチャンは天国に行く裁きを受け、恥辱によみがえらせられた不信者は永遠の地獄に行く裁きを受ける。 

正教会カトリック教会でいう「キリスト教徒」は、少なくともそれぞれの教会で洗礼を受けたもの、あるいは改宗したものを言いますが、改革派などプロテスタント教会のいう「クリスチャン」は洗礼を受けているかいないかではなく、信仰心を有するかしないかであり、その点区別する必要があるかもしれないのですが、いずれの場合も、死後すぐに案内された世界は、良いところであれ、悪いところであったにせよ、そこはその人の最終的な落ち着き先ではなくて、最終的には「最後の審判(再臨)」のあとに決まるのだ、というのです。

ということは、死後であっても、だんだんとその人の価値が変化(成長)するかもしれない、ということなのでしょうか、それとも、価値に変化は無いが、予備審と本審の判決に違いがあるかもしれない、ということなのでしょうか。予備審で地獄、本審で天国の場合はいいかもしれませんが、逆であれば悲惨ですよね。被告は上訴することもできません。

しかし、神は全知全能のはずではなかったのでしょうか。なぜ予備審と本審とに分割して評価する必要があるのでしょうか。また正教会の見解には「霊の運命が変わる可能性もある。」とありますから、もはや神の叡慮ではなくて「運命」というような異教の香り高い風物になってしまっています。

改革派教会の見解には「栄化されたクリスチャン」という表現がありますが、栄化するものはおそらく神でしょうから、神が栄化した人物を、神自身が評価する、というような奇妙奇天烈な事柄を大真面目に定義していることになります。

宗教なんてそんなもの、と言えばそれまでですが、キリスト教の死後の定義がこのように滅茶苦茶な理由はなぜかと推察するのであれば、おそらく、ローマ帝国の国教として成立させるに当たって、当時隆盛だった宗教にはゾロアスター教、ミトラス教、ヘレニズムなどがあったでしょうが、それらが主張する死後観を彼らが納得する形でそれぞれ均等に織り込む必要があったからでしょう。そうしなければ、それらの神官たちをキリスト教の聖職者に、それぞれの信者たちをキリスト教徒へと平和的に移行させて、新宗教の教盛を安定させることができなかったかもしれないからです。

キリスト教の死後観が本当にこのようなものならば、キリスト教の神は、定められた手続きに振り回されて、人の命を嬲りものにしてしまう愚物だ、と評価せざるを得ないですよね。

タラントの喩え

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sweatyourassets.biz

 

マタイによる福音書の25章には「タラントの喩え」と呼ばれる一節があります。タラントは、現在の価値に換えればおよそ六千万円になるのだそうですが、同じマタイによる福音書の18章には一万タラント、という金額があって、こちらは六千億円ということになります。相当大掛かりな土木工事でもしなければそのような金額にはなかなかならないように思いますが、このような表現は「膨大な量」をさらに誇張するために記された、象徴的表現、ととらえればよいのではないかと思います。

タラントの喩えを見てみましょう。

マタイによる福音書 25:14-30

また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

タラントで喩えられる膨大なものとは、イエス様が裕福な青年に示された「余計なものをすべて捨て去った後、真の幸福である神の国を知ることができるのだ」という教えのことです。マタイの福音書 19:16-22を見てみましょう

すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。エスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。エスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。

タラントの喩えの中で、原資を殖やすことができたものとは、この教えを正しく理解し、また実践し、伝え、他の人と価値観を共有することができるようになった人のことです。つまり、神の国はその到来を待っているようなものなのではなく、自分自身のちからでもって、努力して作り上げて行くものであることを知っている人であるわけです。

一方、殖やすことができなかったものとは、託されたものの価値を理解できないもののことです。福音書を読んで得た結論が、神の国とは死後に与えられる報奨だろう、と達観し、してはいけないことをしなければそれでいいだろう、と言って、結局何もしない人々のことです。

もうおわかりでしょう。一タラントの預託を得て一タラント返すものとは、「キリスト教徒」のことなのです。『善きもの』を善き、善き、と唱えて奉りながら陳腐で無意味な飾り物に堕落せしめてしまう、そのことをイエス様はすでに予知していたのかもしれません。

ペットと魔女狩り

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casty.jp

 

芸能人が自分の飼っていたペットを、ペットロスに苦しんでいる知人に譲ったことをSNSに書き込んだことで批判されているのだとか。少し引用してみましょう。

news.yahoo.co.jp

GACKTさんは、日ごろ、お世話になっているポーカーの師匠のために、一肌脱いで美談にしようと思って、YouTube動画を制作したのでしょう。ところが、世の中からは、「犬をモノとして扱っている」ように見えて炎上しました。

今の時代、ペットは家族の一員で、子犬は我が子として育てている方が多いため、今回の行動は理解が得られなかったのかもしれません。一般的には、犬や猫を一度、家族の一員にすれば、終身飼育が望ましいです。

この考え方には同調できないところがあります。別の芸能人がコロナ禍下で、自作の映画の集客を呼びかけた問題では、法律の範囲内で行っているのだから問題は無い、と言い切って擁護するのに、このペットの問題のどこがだめなのでしょうか。

elaws.e-gov.go.jp

を見てみましょう。

第一条 この法律は、動物の虐待及び遺棄の防止、動物の適正な取扱いその他動物の健康及び安全の保持等の動物の愛護に関する事項を定めて国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操のかん養に資するとともに、動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害並びに生活環境の保全上の支障を防止し、もつて人と動物の共生する社会の実現を図ることを目的とする。

とあって、この法律は人間のために定められたものであることがわかると思います。

「ペットはモノじゃない」といいますが、ペットは、結局のところモノでしかないのです。モノだからこそ、金を払って購入することができるのだし、芸や躾を仕込んで、コマンドに反応するように自分の型に嵌めて楽しんだりすることができるのだと思います。

そして今回の例のように、他の人がイレギュラーな(自分が勝手に決めたルールに反した)対応を示したりすると集中的に叩き始めるわけです。犬に同情しているわけではありません。自分たちの主張内容が否定されてしまうことを恐れてそうするのです。要するに、いわれのないただのイジメです。

どうせ普段から牛ステーキやトンカツや唐揚げを食べて、時には「ジビエ」などと言って鹿やらウサギの肉を楽しんだりしているわけでしょう?

フランス料理には子牛の肉を使うものがよくありますが、子牛といえども食用にするためには薬品で安楽死させるわけにはいきませんので、失血させることによって屠殺するのです。

www.hopeforanimals.org

屠殺された子牛を食しても「正統」だが、ペットロスで苦しんでいる知人に自分のペットを譲る行為は「異端」となる。キリスト教の屁理屈とそっくりですね。

シェルブールの雨傘

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www.francemusique.fr

今回はキリスト教には関係ない内容の記事で申し訳ないのですがお許しください。

 

数年前からアマゾンプライムの会員になっているのですが、その数あるサービスの中でもプライム・ビデオ見放題が気に入っていまして、ファイアーTVスティックを購入して楽しんでいます。

昨日観たのは「シェルブールの雨傘」でした。タイトルや映画音楽としてなんとなく知ってはいたものの、本編を見たのは初めてのことでした。これは衝撃的に素晴らしい映画でした。

ja.wikipedia.org

カトリーヌ・ドヌーブを世に出した作品、という説明がありますね。

全編を通して俳優本人によるセリフは無く、全て別の歌手による歌だけで話が進みます。いわゆる「口パク」というやつですね。ミュージカルというよりは、音楽劇とか歌劇とか言ったほうがいいのかもしれません。

恋人が兵役で留守になり、その帰りを待っている間に他の男性と結婚してしまうという、戦争が生み出す不条理をテーマにした作品です。

まず音楽がとてもいいです。そしてカラー。シーンが表す心情を象徴するような巧みな色使い。それとフレーミング。すごく印象的でした。

ぜひ一度御覧ください。

 

奇跡をどう捉えるべきか

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pemptousia.com

 

今までに、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

などの記事で、福音書に記されている奇跡譚は、書かれていることをそのままの意味で読み取っても、何が言いたいのかを知ることができないだろう、ということを説明しましたが、今回は、イエス様ご自身が、実際そのように説明されている箇所がありますのでご紹介いたします。次の箇所です。

マタイによる福音書 12:39-45

「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」

預言者ヨナのしるしとは、異教徒であるニネベの民衆が、異教徒であるそのままの状態でヨナの預言に耳を傾けて、その真実に気づいて心を改めた、ということです。

お気づきでしょうか、これは心の働きの問題であって、奇跡でも何でも無い、というところが実際です。しかし、イエス様は、この故事が示す真実だけが奇跡と呼べる唯一のことがらなのだと教えているのです。すなわち、あなたの見たがっている「奇跡」というようなものは、この世には存在しないのだよ、と説明しているわけです。

そうなのであれば、福音書に記されている、イエス様が示されたという数々の奇跡はどのように考えればいいのだろうか、ということになります。

おそらく、今日の福音書が成立するより前、「Q資料」(Q資料...バートン・L・マックによる)のようなものがあって、それを口伝で民衆に伝達する語り部のような人物がたくさん存在したのではないでしょうか。

そして彼らは、イエス様がいかに苦労して良い事柄を人々に伝えようとしたのかということを、熱して語り伝えようとするあまり、『荒波の上を歩いて、水をぶどう酒にかえた』のだ、と表現してしまったのであって、後に福音書としてまとめられる頃には、あたかもその通りの出来事があったかのように、はなしそのものが変遷してしまっていた、というこのなのではなかったか、と推測します。

しかし、語り部たちは、聴衆を騙すつもりでは無かったのでしょう。イエス様が、

邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。

と口にされたことをも伝えておかなければならない、と判断したのですから。

福音書は、読み手の叡智次第で、良書にも三文記事にも変化するわけです。

「死が二人を分かつまで」の意味

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「死が二人を分かつまで」といえば、キリスト教式の結婚式における新郎新婦の誓いの言葉、と連想しますよね。日本基督改革派教会の式文から引用してみましょう。

あなたは、神の教えに従い、きよい家庭をつくり、妻としての分を果たし、常に あなたの夫を愛し、敬い、慰め、助けて、死が二人を分かつまで、健やかなとき も、病むときも、順境にも、逆境にも、常に真実で愛情に満ち、あなたの夫に対 して堅く節操を守ることを誓約しますか。

確かに 「死が二人を分かつまで」とありますね。しかし、これ、どういう意味だろうかと考えたことはありますか? 

生涯この結婚相手を唯一の伴侶としましょうね、という愛の確認のようなものだろう、と感じておられる方がほとんどなのではないでしょうか。

実は、この誓いの式文にはもっと生々しい意味があるのです。ロマ書の7章からこの式文の出典箇所を読んでみましょう。

ローマ人への手紙 7:2-3

夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。

この式文は、男女の結婚に際して当人たちの前で、ロマ書にあるこの戒めを再確認しなさいよ、と促しているわけです。神の家たる礼拝堂に赴いて会衆を前にし、男女が結婚を誓い合った以上、ロマ書にある通り、夫の生存中は妻は夫の所有物であることを自覚し、他の男へ走ってはならない。

実は、「死が二人を分かつまで」にはそのような意味が含まれていたのです。