キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタントの元信徒が運営するキリスト教批判ブログです

キリスト教会危険度ランク付け

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urbanwildlife2011.org

 

キリスト教会にはたくさんの教派が存在します。今回は、その教派ごとの危険度のランク付けを行って見ようと思います。

 LP(リトル・ペブル)、ものみの塔などは異端だからキリスト教ではない、という人がいますが、新、旧約聖書を拠り所としている宗教はすべてキリスト教です。異端というのは、ある一方からみた主観的な評価であって、それによってキリスト教がそうで無くなる、というわけではありません。異端というのであれば、キリスト教は全て人類の異端だというべきだと思います。

では危険度の高いものから順にご紹介しましょう。

危険度A:摂理KGKヨハン早稲田キリスト教会など学校に入り込む系統

東大、京大など、高偏差値の大学に入り込んで学生を囲い込むカルト団体。彼らが偏差値の高い学校に入り込む理由は、学生が将来高収入を得る社会人になる蓋然性が高いからです。決して彼らの頭脳に惹かれてではありません。宗教的な意味合いも全くありません。金が欲しいだけです。いわば、什一献金の青田買いをしようとしているわけです。

しかし、こんなあからさまな詐欺に引っかかるバカがいるということは、偏差値と言うものは、大して参考にならないようですね。

参考
危険度B:バプテスト聖霊派メガチャーチ、カリスマ牧師)

どちらも死後硬直レベルの頭の悪さです。考えるまでもなくわかると思うのですが、洗礼が人間に必要なものだというのなら、生まれたての赤ん坊にも必要なはずです。なんだかんだ理屈をつけて幼児洗礼を否定したりするのは、もっぱら他教派を批判するためだけの理由のように思います。アワ踊りを踊りながらアワを吹いてアワアワ言えてナンボの狂人だらけの教会も大問題です。屁理屈屋(バプテスト)と迷信家(聖霊派)。どちらも明晰な人間のすることとは思えません。

参考
  危険度C:福音派の教会

大きく括れば、危険度AとBは危険度Cに含まれるでしょう。これら、什一献金を行う教会は、宗教団体というよりも集金機関です。死後の恐怖をネタに金を強請りとっているに過ぎないのです。どちらかと言うと、言われるままに払うほうがバカなんじゃないかと思います。

 

福音派 - Wikipedia によれば、

のいずれかに所属していれば福音派、と見分けられるとのこと。

参考
危険度D:単立の教会

系列が全く無い単立の教会、あっても国内にしかない教会、海外にあっても全部で10程度の教会はダメです。牧師がどんなバカなことを言おうが、全員言われるがままです。そもそも、牧師なんて神学校を出ててもいい加減なものです。それを、なんの勉強もしてない詐欺師が、今日から牧師ですよ、といえば牧師で、言うこと聞かなきゃ地獄行きですよ、と脅されて性的陵辱されるわけでしょ。

「超教派」と謳っている教会も同じ。

 


<2021/4/27 追記> ここから-->

「~連合」とか「~連盟」に加入している教会であったとしても、その教会が単立の教会でないとは言い切れません。少なくとも、宗教法人格を有していることを確認しましょう。何の法人格もない個人事業であるとか、あっても財団法人、株式会社や有限会社であるなら、献金はすべて「売上」として会計処理されていることになります。もう、その理由だけでダメだと判断できると思います。

法人格は、その地方の法務局で確認することができます。

<2021/4/27 追記> ここまで

参考
危険度E:全能神教会エホバの証人モルモン教統一教会

これらの教会は、教義が正統派の教義から離れているからというだけの理由で異端に分類されているのでは無いようです。エチオピア教会やコプト教会は単性論で教義的には非正統ですが、軽蔑されるほどでは無いように思います。

これらの教会が軽蔑されているのは、社会性が欠如しているからでしょう。違法行為、裁判沙汰、情報操作など、碌でもないことばかりを連想します。

中国で発生した「全能神教会」は、宣教活動において、殺人を行ったのだそうです。

全能神 - Wikipedia より

2014年5月28日、山東省招遠市のマクドナルドの店内で、全能神のメンバー、張立冬ら6人による女性撲殺事件が起こった(2014年山東招遠カルト殺人事件)。張は勧誘のために店内で電話番号を聞いて回っていたが、女性が断ったためとCCTVのインタビューに答えている。 

参考
危険度F:カトリック教会

歴史の長い伝統教会の中では最も危険です。

これらはおそらく氷山の一角でしかないでしょう。また。リトル・ペブル、ピオ10世会、オプス・デイなどといったカルトを排出する土壌である、という問題などがあります。

参考
危険度G:伝統的なプロテスタント教会長老派改革派組合教会メソジスト救世軍ルーテルなど)

「メインライン」と呼ばれる伝統的プロテスタントの主流派。日本基督教団に所属する教会もありますが、独立した教団も存在します。

もはや存在意義を失いつつあり、説教は他教派の悪口ばかり。正直なところ、教育という観点からは害毒でしかなくなってしまっているように感じます。また、エホバの証人などは長老派出身者が新興している場合が多いようです。

 

参考

 

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

危険度H:無教派(日本基督教団

カトリックでもプロテスタントでもない、という意味ではなくて、日本基督教団に所属する教会で、旧教派を持たない教会という意味です。まるで政治団体のようなものである場合が多いです。ある教会の説教では、大阪釜ヶ崎のあいりん地区の状況の報告を事務報告のようにだらだら喋り続けていました。浮浪者の援助をしたいなら地方公務員試験の勉強をするべきでしょう。

日本基督教団を分類すると「社会派」と「教会派」に二分することができるのだそうですが、どちらも確固たるポリシーに基づいている印象はありません。一応そういうことにしておくか、程度の、自分用のレッテルというところでしょう。

異なるカラーのレッテルを誇示しているものは敵だ、というわけでしょう。敵と罵り合いをして勝利することほど好戦家を満足させるものは他にありません。キリスト教に入信するということは、人にダメージを与えて溜飲を下げることだけが目的のようです。純粋な意味での「平和」を好む人は、キリスト教とは関係を築かないことをお勧めします。

 日本基督教団に所属する教会には、旧教派がはっきりしている教会もあります。

参考
危険度I:正教会

これも決して足を踏み入れるべきではありません。世界的とはいえ、日本では少数派であって、しかも建物が古い場合が多い。つまり、信徒一人あたりの、補修などの負担額がとても多くなるわけです。什一どころではないといいます。席上献金は前に置かれた覆いの無い盆に、一人ひとり現金を生のまま置く、という方式で、一万円置く信徒も珍しくないとか。また、特筆すべきこととして、前府主教(日本の代表者)が、晩年癌を患ったが、頑なに治療を拒んで自室に施錠して引きこもり、最後まで出ずに死を迎えた、ということです。これはある意味自死であり、キリスト教団体の長の行動としてはどうなのでしょうか、善き手本といえるでしょうか。団体全体の倫理観が透けて見えます。

 参考
危険度J:聖公会

比較的穏健と言えそうですが、残念ながら、司祭による性犯罪事件がありました。担当主教の対応にも問題があったようです。

 

参考 
危険度K:ユニテリアン

まだしもマトモだと言えるでしょうが、残念ながら日本にはありません。わかりやすく例えれば、緩やかな孔子尊崇のような感じです。慶應義塾は、当初この宗教団体のミッションスクールになる予定でしたが、頓挫した、という経緯があったようです。

 

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

 


日本にはキリスト教は無い方が良いから、結局根付かなかったのだということなのでしょうね。神道だって穏健に見えますが、むりやり外国に根付かせようとして頑張ったらカルトになるかもしれません。うまく行かなければどうにかして金を引っ張らないと生きていけないでしょう。利用しようとして妙な教義を捏造して数少ない信者を脅迫するネタにするかもわかりません。つまりそういうことなんですよ。

外れている黙示録の予言

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ネロ - Wikipedia

 

黙示録には「大淫婦バビロン」という表現が何回か出てきます。見てみましょう

 

黙示録 14:8

また、ほかの第二の御使が、続いてきて言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者」。

 黙示録 16:19

大いなる都は三つに裂かれ、諸国民の町々は倒れた。神は大いなるバビロンを思い起し、これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。

黙示録 17:5

その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。 

黙示録 18:2

彼は力強い声で叫んで言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。

黙示録 18:10 

彼女の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた』。

黙示録 18:21

すると、ひとりの力強い御使が、大きなひきうすのような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った、「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、全く姿を消してしまう。

 

上記のように「バビロン」という表現が6回出てきます。 

大淫婦バビロン - Wikipedia

によれば、

堕落しきった女として暗喩されているものの正体はローマ帝国であり、彼女が乗る7つの首の獣はローマ帝国の7つの丘(もしくは7人の皇帝)を示しているとされる。ここで言うローマ帝国古代ローマであり、キリスト教への迫害が強かったとされる時期のローマを指している。

 とあり、「バビロン」はローマ帝国を示す暗喩だと説明されています。ローマ帝国キリスト教徒を虐めるので嫌いだった、というわけですが、過去記事

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でご紹介したように、キリスト国教化前でもキリスト教徒は過激で野蛮なテロ行為を繰り返していたので、ローマ帝国から正当な制裁を受けていただけのことです。宗教主流派になったのをいいことに、「迫害を受けた」と正当化しているだけのことなのです。

黙示録には何と書いてあるでしょうか。『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた』。と悪態の限りを尽くして扱き下ろしていますよね。「あなたの敵を愛しなさい」という指導に反していることが「聖書」に記されている。これは事実だと認識しなければなりません。

それよりも重要なことは、悪態の限りを尽くして貶し尽くしたローマ帝国の、もしその国教にならなければキリスト教なんて今頃影も形も存在しないだろうということです。

「預言」なんて、一時的な感情による書きなぐりの駄文に過ぎない。これが正直なところでしょう。「大淫婦」と言って軽蔑した相手に救ってもらって、キリスト教は生きているのです。恥ずかしいとは思わないのでしょうか。しかも凶悪なテロ行為に対する正当な制裁に反発しているだけなのです。

 

キリスト教が常に孕んでいる凶悪な要素については、例えば次のサイトで説明されています。

www.huffingtonpost.jp

第1回十字軍のとき、1098年の厳しい冬の時期にシリア北西部の都市マアッラで行われた攻防戦で飢えた兵士が人肉食を行った。1099年の夏には、エルサレム奪還のためにユダヤ人やイスラム教信者を虐殺した。また、キリスト教カタリ派ローマ・カトリック教会から異端のらく印を押され大量虐殺された例など枚挙にいとまがない。また、古代ユダヤ人が、神であるヤハウェの指示のもと、エリコの街中のすべての老若男女(と獣)を殺した行為も、彼らが選ばれた民であることを確信させるために行われた(旧約聖書申命記6:21)。

 

出エジプトの真実

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www.lds.org

 

イスラエル人がエジプトを脱出したとき、どれ位の集団だったと記録されているでしょうか。

 

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

によれば、

部族の大きさは,強健な男子の数でマナセの3万2,200人から,ユダの7万4,600人まで様々でしたが,イスラエルの軍隊に入って仕える資格のある男子の合計は60万3,550人となり,このほかにレビ人と女と子供たちがいました―恐らく300万人あるいはそれ以上の宿営であったことでしょう。会見の天幕はレビ人たちと共に宿営の中央に位置します。

 

とあります。総勢300万人の大集団だったと想定される、ということですね。軍隊に入って仕える資格のある男子が60万3,550人だったことから考えれば妥当な数字でしょう。日本でいえば、大体茨城県の人口と同じぐらいの人数です。

上記の地図を御覧ください。出エジプトの行程を示す地図ですが、①のラメセスから⑱のイェリコまで、地中海沿岸を真っすぐ行けばおよそ400キロの行程ですが、聖書の記述に従って実際の行程を想定すると、点線の矢印に示されるような複雑な行程となり、その距離はおよそ1200キロになります。

 

仮に、300万人の人が、二列になって1メートル間隔で縦に並んだら、つまりギチギチに並んだら、その距離は1500キロになります。

例の「葦の海」での出来事は、「暁から夜明け前」までの数時間で、モーセが杖を上に上げている間のことだったと記されていますが、隊列の距離は1500キロメートルもあるのですから、最後のイスラエル人が葦の海を渡り終わる頃には、先頭の人がカナンに入って新しい生活を始めていたはずです。すなわち、モーセは40年間葦の海で杖を上げ続けていたことになってしまうわけです。

 

いかがでしょうか。まず、エジプトにイスラエル人が300万人もいたのであれば、もはやエジプトではなくてイスラエルという国だということになり、当然それなりの資料があるはずですが、実際にはありません。数が水増しだとしても、イスラエルの子どもたちがそれぞれ別の部族を形成して、はっきり識別できる状態で継承されていたというのも非現実的です。

 

つまり聖書とは、事実が記録されているものではなくて、精神性を抽象的に伝えているもの、出エジプトで言えば、バビロン捕囚という事実をエジプトという抽象化によって、その思いを伝えようとしているものだ、と言えるわけです。

 

キリスト教もこれと同じことであって、キリスト教という宗教が、ゾロアスター教やミトラス教との混成であって、そのことはローマ帝国の国教として創作された当初は誰でも知っている事実だったが、やがて自然に忘却、あるいは恣意的に抹消されて、あたかも真実であるかのように伝えられてしまった、ということ、これが実際のところです。

クリスチャンは悪霊払い?

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www.travisagnew.org

 

マルコ福音書の終わりに、次のような記述があります。

 

マルコ福音書 16:17-18

信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。

 

キリスト教徒になればだれでもスーパーマンになれるぞ、と唆しているのでしょうか。冒頭で紹介したサイトによれば、蛇担当牧師なるものがいて、実際やらかしてみたところ、噛まれて死んだというのですから笑い事ではありません。

 

でも福音書に書いてあるじゃない。ってことになりますよね。福音書に書いてあるからその通りだ、という考え方もどうかとは思いますが、思い出して頂きたいことは、イエスは、私が喩えで説明する理由は、と言って、あなた方には解りやすいように喩えでお話をしますよ、と言っていることです。さあ、これから喩え話で説明しますよ、と言っている箇所だけが喩え話ではありません。こういう箇所こそが喩えなのです。どういう意味でしょうか、直接の意味に直してみましょう。

(信じる者には、このようなしるしが伴う。)
今まで私(イエス)の話を聞いてきて、理解したのであれば、

(すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、)
あなた方自身の内に潜んでいる偏見や迷妄を打ち捨てて、

(新しい言葉を語り、)
新しい、真実の価値観を自他に求めることができるようになるだろう。

(へびをつかむであろう。)
自己に潜む邪悪性に振り回されず、逆にコントロールすることができるようになるだろう。

(また、毒を飲んでも、決して害を受けない。)
友人の偏見や迷妄にも巻き込まれない強い心を持てるようになって、

(病人に手をおけば、いやされる」)
その病の克服のため、友人と苦しみを共にする努力を惜しむな。

私を信じれば超能力が生じて悪霊祓師にも魔法使いにもなれますよ、というような幼稚なことを言っているわけではないのです。しかし、冒頭でご紹介したサイトにあるように、福音書に書いてあるのだから、へびをつかんでも平気のはずだと言って、実際にやって死んでしまう。これがキリスト教会による聖書理解です。

 

お前らは頭が悪いからじかに説明するよりも喩えで言ってやろう。こう言われているにも関わらず、福音書のこの箇所を読んで、あいつには悪霊が憑いているから俺が祓ってやろう、と考えちゃうタイプの人は、まず、毒を飲んでも死なないことを確認してみてはいかがでしょうかね。

 

献金

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breakopenword.blogspot.jp

 

キリスト教徒は一生のうち、一体いくらぐらい教会に献金するのでしょうか。試しに計算してみましょう。

 

ここでは簡単のため、就職してから死ぬまでの間、60年間に支払った額を計算します。

 

  • 月額献金 1万円x12x60=720万円
  • クリスマス特別献金 2万円x60=120万円
  • イースター特別献金 2万円x60=120万円
  • 感謝祭特別献金 1万円x60=60万円
  • 席上献金 1000円x4x12x60=288万円
  • 会堂費 10000x60=60万円
  • 交通費 2000x4x12x60=576万円
  • 合計 1944万円

一生に支払う金額は1944万円でした。什一献金などという教会であればもっと多いでしょうが、この金額はおそらく平均よりも少なめの見積もりだと思います。子供や妻を考えに入れるともっと増えるでしょう。

 

什一献金というのは、上記の「月額献金」について、税込み収入額の10分の1支払いなさい、ということであって、その他の献金はその上さらに、ということになります。

 

その他にも、聖餐式には聖餐感謝献金、神学生養成援助献金、夏季、冬季特別献金、建物が古ければその維持費、それに光熱費は別に徴収される場合もあり、礼拝後の食事材料費、子供に配るお菓子の代金、カトリックや正教の場合、法事があれば(正教は毎月、カトリックは年一度)法事謝礼など、ということになるでしょう。

 

本人が本人のために「宝を天に積む」つもりで支払っているわけですから、外から文句を言うつもりはありませんが、まあ捨て金ですね。何か買い物したほうがよほど社会に貢献するでしょうし、他人のために役立てたいというのなら、赤十字へ送金すれば役立ててくれるでしょう。本当に神が存在するのなら、教会に無駄金払って遊んでいるより、よほど評価するでしょうね。

ヒュパティア

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www.rogerebert.com

 

アレクサンドリアという映画が公開されたのは2009年ですから、このブログをご訪問下さる方の中にはご覧になった方もおられると思います。

アレクサンドリア (映画) - Wikipedia

西暦4世紀、キリスト教が定着し異教の排斥が行なわれ始めた時代の、女性天文学ヒュパティアの学問に殉じた半生をアレクサンドリアを舞台に描く。天動説に疑問を感じ、何らかの地動説を肯定できる理由を模索し続けた彼女は、弟子のオレステスや奴隷のダオスに愛慕を受けるが、それを拒み研究に没頭してゆく。その一方でキリスト教徒は、自らの宗教の絶対性を民衆に訴え、古来の神々を愚弄する。ヒュパティアの父テオンらはこれに憤り、剣を抜いて応戦するも退けられ、クリスチャンである皇帝は異教徒の一方的な罪を宣告する。アレクサンドリアの大図書館は異教の魔窟として破壊され、異教徒には改宗か出国しか道は残されなかった。その中で改宗を拒み、青年たちに学問を教え続けるヒュパティアは、都の人々から魔女とみなされる。

 

だんだんと勢力を増し、ミラノ勅令によってキリスト教が公認され、ローマの国教となっていく激動の時代に於けるキリスト教の実態をテーマに作成された映画です。

 

映画ではキリスト教徒が悪役であって「暴徒」のように描かれています。「アレルヤ!」と叫びながら異教徒である天文学者を惨殺し、町々を破壊し、傍若無人に悪行の限りをつくす様は、現代のイスラム国の蛮行を彷彿とさせます。

 

さて、この頃教会は存在したのでしょうか。映画の主人公ヒュパティアキリスト教徒に惨殺されたのは415年でしたが、ローマ帝国が国教をキリスト教に定めたのは392年ですから、教会は存在したのです。多くの人は、原初キリスト教ローマカトリック教会だと考えているようですが、違います。最も原初には、今で言えば正教会だけが存在しました。五大総主教区(ペンタルキア)というものがあって、ローマはその一つに過ぎなかったのです。この映画に出てくるアレキサンドリアも総主教区の一つであって、ローマとアレクサンドリアの総主教にはパーパというタイトルが尊称として与えられていましたが、総主教区に実質上の優劣はなく、すべての総主教区は同等であった、ということです。現在もこの伝統は受け継がれており、数は5つだけではなくてもっと増えていますが、いずれの総主教も優位性を主張しない、という伝統はそのままです。ですので、使徒の長であるペトロの後継者を主張するカトリック教会(正教会からみればローマの総主教区)は異端的反逆者であって、同じコミュニオンには受け入れがたい存在である、というわけです。すなわち、客観的にみて、カトリック教会は正教の伝統から逸脱した離反者だという観察が正となります。1054年のローマ総主教とコンスタンティノポリの総主教の相互破門事件を持って東西大分裂(大シスマ)となったという説明がほとんどですが、これは総主教同士の個人的な破門でしたので、決定的な出来事ではありませんでした。実際には、395年にローマ帝国が東西に分裂したこと、476年に西ローマ帝国が滅んだこと、また、後に起こる十字軍問題などが相まって、徐々に分裂していった、ということなのでしょう。詳しくは 東西教会の分裂 - Wikipedia を御覧ください。

 

さて、キリスト教にとって都合の悪い存在であった女天文学者ヒュパティアを殺すように、また、キリスト教の教義が捏造である、という都合の悪い証拠資料が山のように存在するアレクサンドリア図書館を破壊するように命令を出したのは、正教会の指導者であるアレクサンドリア総主教のキュリスという人物でした。この人物は現状、正教会カトリック聖公会、ルター教会において「聖人」として崇められています。

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アレクサンドリアのキュリロス - Wikipedia

 

Wikiによればヒュパティアはカキの貝殻で生きたまま肉を骨から削ぎ落とされて殺害された、とありますね。そんな殺し方がありますか?そんな残酷なことができますか?一体どこから削ぎ落として行ったのでしょうか。乳房?性器?眼球でしょうか。恐ろしい話ですね。まさに狂信者。キリスト教のDNAにはそれが組み込まれているのでしょうか。

 

このブログで主張していることは西方教会の話だから正教会は無罪だと言ってくる正教徒がいますが、私に言わせればキリスト教なんてどれもこれも同じ。目くそ鼻くそ、似たようなものです。正教であろうがエホバの証人であろうが同じような詐欺師の集まりでしょう。違うというのであれば天国の写真でも撮ってきて見せてください。

神殿の幕

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www.haaretz.com

 

福音書には、イエス様が十字架で亡くなったときに、エルサレム神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた、と記述されています。見てみましょう

マルコ福音書 15:37-38

エスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。
そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。

神殿の幕とは、上の写真にあるように、神殿の至聖所(写真奥)と聖所(写真手前)を仕切るための幕のことです。何のために仕切るかというと、至聖所には神が臨在している(ということになっている)のですが、人間は直接神を見ると死んでしまいますので、神を見ないように、という理由で幕で仕切って至聖所の内部が見えないように配慮されているわけです。次の記述に拠るところです。

 出エジプト記26:31-33

また青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で垂幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。
そして金でおおった四つのアカシヤ材の柱の金の鉤にこれを掛け、その柱は四つの銀の座の上にすえなければならない。
その垂幕の輪を鉤に掛け、その垂幕の内にあかしの箱を納めなさい。その垂幕はあなたがたのために聖所と至聖所とを隔て分けるであろう。

至聖所へは、年に一度だけ、ユダヤ暦の第七の月の10日、贖罪日に、その年の大祭司だけが入ることができました。その際、大祭司が神を見てしまわないように、香の煙を満たした、とされています。また、うっかり失敗をして、神に打たれて死んでしまったときに聖所にいる祭司たちがそれを知ることができるように、大祭司の祭服の裾には鈴がついていて、もし至聖所内で大祭司が死んだときには、外から死体を引き出すことができるように、腰に紐を巻いてその端を聖所へ出すようにしていたのだそうです。

フランシスコ会訳 出エジプト記 28:31-35

おまえはエフォドの下に着る衣を青糸だけでつくる。そのまん中に頭を出 すための穴をもうけ、それが裂けないように穴のまわりをみみ織り細工とし、皮よろいの穴のようにする。衣のすそのまわりには、青糸、深紅の糸、まっかな糸でよったざくろをつくり、金の鈴もそのまわりにつけて、ざくろと交互になるようにする。すなわち衣のすそのまわりは、金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、というようにする。アロンは務めをするとき、これを着なければならない。これは、かれが聖所にはいってヤーウェのみまえに行くとき、また出るとき、その音が聞こえ、かれが死なないためである。

メソポタミア神話に、敷居をまたぐときには何か音を出しながらでなければ、悪い精霊が飛びかかってその人を殺してしまう、という迷信があって、そのことを言っているのだ、という説明(下記のフランシスコ会訳聖書の脚注)もあって、その内容から、旧約聖書が現状に編集されたのはバビロン捕囚の終焉(BC537)以降であることがわかります

上記引用箇所に対応する脚注

「鈴」の音がアロンを死から守るという考えは、 悪霊が聖所の戸口にひそみ(創4とその注4参照)、音のない状態でそのしきいをまたぐ者にはとびかかるという 古代一般に信じられていた考えに由来するものらしい。 

フランシスコ会訳 創世記 4:6-7

そこでヤーウェはカインに言われた、「おまえはなぜおこるのか。どうして顔を伏せるのか。 おまえが正しければ、顔を上げればよいではないか。おまえが正しくなければ、罪が戸口で待ちかまえているようなものではないか。それはおまえを慕うが、おまえはそれをおさえなければならない」 

 この箇所に対する注

本節の大体の意味ははっきりしている。すなわちカインの心の中にはいりこもうとしている邪念(アベルを殺そうという悪い考え)を制するようにと神がカインに警告しているのである(ヨハネ一書3:12参照)。直訳では、「おまえがよくすれば、『上げること』ではないか。しかしおまえがよくしなければ、罪は戸口に伏しているものではないか。それ(伏しているもの)はおまえを慕うが、おまえはそれをおさえなければならない」。「上げることではないか」を「おまえ(とその供え物)はよみされるではないか」の意味に解する者も多いが、本訳のほうが適当と思われる。「伏しているもの」は文法上から見れば分詞(創世記に用いられている他の箇所は29:2 49:14 25)で、男性(「ロベツ」)であるが、この語に関連している名詞「罪」は女性である。おそらく著者の考えが罪の象徴として一般によく知られていたある男性名詞に移ったのであろう。したがってそのあとに続く「それ」は女性ではなく男性となっている。著者が3:24で神の使いを描くにあたってバビロニアの「カリブ」の姿を借りて表現したように(3注12参照)、ここにはじめてしるされた「罪」というものの本性、すなわち人の心にはいりこもうとするものであることを描くために、ここではアッカド人の考える悪鬼「ラビツ」(ロベツと子音は同じ)の姿を借りたものと思われる。この「ラビツ」は家の中にはいりこもうとして戸口のところですきをうかがっている野獣のように伏したものと、当時一般に信じられていた。ペトロ一書5:8で悪魔が「しし」と呼ばれている。

 

さて、それでは福音書の神殿の幕が裂けた、という記述にはどのような意味が含まれていると考えるべきでしょうか。ネット上から探して引用してみましょう。

イエスの死 - 牧師の書斎

「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」ことです。これは何を意味する出来事でしょうか。これはイエスの死によってもたらされた「天的現実の地的な現われ」と言えます。つまり、イエスの死によって、天にあるまことの聖所への道が開かれたことを意味します。この幕は至聖所と聖所を隔てている幕のことです。この幕が上から引き裂かれたということは、神がそれを引き裂いたことを意味します。人間が引き裂く場合には、下から上にということになるでしょう。しかしここで神の主権によって隔ての幕が引き裂かれ、人は自由に至聖所に行く道が開かれたことを意味します。つまり、イエスの流された血潮によって、私たちはいつでも神との親しい交わりが可能となったという天的事実のあかしです。

探せば他にも見つかりますが、どれもだいたい同じようなことを言っています。しかし、福音書には、十字架上での死と、よみがえりが別々に記述されているのですから、「天にあるまことの聖所への道が開かれた」と言うのであれば、そのタイミングはよみがえりのときであるはずです。物事の本質を探ろとしているのではなくて、現状の理解に記述の意味を貼り付けようとしかしないから、このような辻褄の合わない説明になるのでしょうね。それに「上から下まで」は裂かれた順序ではなくて、結果としての状態を表現しているだけだと思いますよ。

裂けた幕の意味は、神が臨在しているはずの至聖所が丸見えになったが、何もいなかったし誰一人死ななかった、という事実の告発です。神なんて本当はいないんですよ、ということを教えているわけです。

つまり、宗教によって民衆をコントロールする時代は終わった、ということなのでしょう。福音とは、宗教からの解放を示唆する言葉だと思います。復活は新しい人間性、宗教に振り回されない人間の本質的な価値観の蘇生を意味したわけです。

 宗教を否定し、人間性の復活を述べ伝えたのに、新しい宗教という病原にしかならなかった。実に陳腐で滑稽な結果です。案の定、正教だ、カトリックだ、プロテスタントだといって争っているようです。