キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタントの元信徒が運営するキリスト教批判ブログです

SDA(セブンスデー・アドベンチスト)教会について

adventist.jp

お問い合わせメールを通して、個人情報が含まれていましたので、全文をご紹介することはできないのですが、SDA(セブンスデー・アドベンチスト)教会についてどう思うか、特に、異端である、という世の中の評価についてどう思うか、という質問をいただきました。記入してくださっていたメールアドレスに返答をお送りしたのですが、記入間違いがあったようで返ってきてしまいましたので、ブログ記事にして返答とさせていただきます。

まず、僕は一度もSDA教会に行ったことはありません。過去記事「キリスト教会危険度ランク付け」でもSDA教会については触れていません。また、信者や教役者など、関係者の知り合いも一人もおりませんので、以下に書き記すことは全て、SDA教会のホームページとWikiによる情報だけからによるものであることをご承知おきください。

ja.wikipedia.org

異端かどうか

まずは異端かどうか、という点についてですが、Wikiの「教義」を見る限り、異端とは言えないと思います。一般的なキリスト教会と同じ主張がなされています。神を三位一体であると理解し、聖霊は父と子から発出すると述べています。また、聖餐のパンとぶどう酒はイエスのからだと血の象徴であるとも言っています。僕としては、「キリストの体と血の象徴」と言ってほしかったところですが、そこはまあ、良いのかもしれません。

地獄の存在を否定するなど死後感が独特であって、これをもって異端と判断される場合があるのかもしれませんが、死後のことなんて誰一人実地に観察したひとはいないのですから、どの教会であれ、すべて憶測を述べているのであって同じことだと思います。カトリック煉獄だの辺獄だの、プロテスタントから見れば、もっとおかしげなことを大真面目で言っているわけですが、それが理由で異端とは判断されていません。同じことです。

終末観も独特ですが、カトリックにも、聖母が出現してだれそれに何を予言しただの、教皇がそれを聞いて失神しただの、結構なトンデモ話があります。プロテスタントでも「軽挙」だなんておかしな話を真面目に考えている教派があるわけです。SDAだけが変なことをいってるわけではありません。キリスト教はそもそも全部変な終末論を展開しているのです。SDAの終末観は、そのなかのバリエーションの一つに過ぎないということです。

土曜日を安息日とする問題ですが、そもそも、週の初めが日曜日であるならば、7日目の安息日は土曜日が正しいのであって、ユダヤ教と正教会は今でも土曜日が安息日です。正教会で日曜日は主日であって礼拝を行う日ですが、土曜日の安息日とは明確に区別されています。西方の教会であるカトリックプロテスタントでは、主日安息日の区別は曖昧で、主日である日曜日を安息日として扱っている教会もあります。SDA教会は、正教会ユダヤ教と同じ土曜日を安息日としていて、主日礼拝に該当する礼拝も土曜日に行っている、ということのようです。これも、他の教会と比較するのであれば、特殊には見えますが、だからといって異端だと断定する理由にまではならないでしょう。

よいところ

セブンスデー・アドベンチストのローマ・カトリック観に関する声明」というページから引用します。

セブンスデー・アドベンチストは、すべての男女が神の前に平等であると考える。私たちは人種、国籍、宗教的信条に関係なく、すべての人の偏狭な信念に反対する。さらに、私たちはローマ・カトリック教会を含む他の教派の中にも誠実なクリスチャンがいることを率直に認め、人類の苦しみを経験するために、また世にキリストを掲げるために努力しているすべての機関・団体と協調して働く。 セブンスデー・アドベンチストは他の教派に積極的に接近する。私たちが第一とする務めは、他の教派の中にある欠陥を指摘することではなく、キリストの再臨が切迫している状況の中で、イエス・キリストの福音をのべ伝えることである。

他教派のアラ探しをすることがキリスト教徒の使命だと思っているクリスチャンばかり目にしていましたので、このような清廉な思想文章に接することができますと、心が洗われる思いがします。

『 セブンスデー・アドベンチストは他の教派に積極的に接近する。私たちが第一とする務めは、他の教派の中にある欠陥を指摘することではなく、キリストの再臨が切迫している状況の中で、イエス・キリストの福音をのべ伝えることである。』

まさにこれです。美徳を感じます。さらに、

過去になされたキリスト教の原則に対する侵犯を、特定の一教派の責任に限定することは、歴史を正しく表すことでもなければ、聖書の預言の関心事でもない。私たちは、セブンスデー・アドベンチストを含めて、プロテスタントの側にも、偏見と頑迷の精神を表した時期があったことを認める。もしセブンスデー・アドベンチストが聖書の教えを伝えることにおいて愛を表していないとすれば、正しくキリスト教を伝えていないことになる。 アドベンチストは、他の人々との対応において、公平でありたいと願っている。従って、私たちは歴史上の記録に留意し、終末の諸事件に関する私たちの立場を堅持する一方で、最近のカトリックにおけるいくつかの積極的な変化を認めると同時に、多くのローマ・カトリック教徒がキリストにあって兄弟・姉妹であるという確信を強調するものである。

とあります。カトリックというだけで毛嫌いし、教皇は悪魔、ミサを悪魔の儀式、と蔑む人がいますが、キリスト教徒としてどうこう以前に人間としておかしいですよね。

SDA教会は、この記述にある通り、その点実に立派だと思います。

よくないところ

残念ながらよくない点もあります。什一を課す点がそうです。什一を必ず守らなければならないという指導によりそう思い込み、不幸に陥ったひとはあまた存在します。その点、意識は更新されるべきでしょう。

教義から引用しておきます。

  • 管理者としての務め
    われわれは、時間や機会、才能や資産、地の恩恵や資源を神から委ねられた神の管理者である。われわれはそれらを正しく用いるように、神に対して責任を負っている。われわれは、一切の所有権が神にあることを認めて、神と隣人に対して忠実に仕えるとともに、福音の宣教と神の教会の維持発展のために什一や諸献金をささげる。管理者の務めは神から与えられた特権であって、それは愛を育成し、利己心と貪欲を克服する。管理者は、自分が忠実に働いた結果として人々にもたらされる祝福を喜ぶ(創世記1:26–28、2:15、歴代誌上29:14、ハガイ1:3–11、マラキ3:8–12、マタイ23:23、ローマ15:26、27、Ⅰコリント9:9–14、Ⅱコリント8:1–15、9:7)。

結論

以上です。SDA教会は脱カルトにも力を入れていて、元オウム真理教の信者のケアなども行っていると聞きます。

実際に行ったり触れたりの経験がありませんので、確定的なことは言えないのですが、ネットで知ることができる限りでいえば、什一献金を課す点が気にはなるものの、理性的で穏健、善悪でいえば、善い教会だと言えるのではないでしょうか。

ただし、個人差といいますか、人の性格による好き嫌いはあると思います。こういうことはどこの何であっても言えることです。