キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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神殿の幕

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福音書には、イエス様が十字架で亡くなったときに、エルサレム神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた、と記述されています。見てみましょう

マルコ福音書 15:37-38

エスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。
そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。

神殿の幕とは、上の写真にあるように、神殿の至聖所(写真奥)と聖所(写真手前)を仕切るための幕のことです。何のために仕切るかというと、至聖所には神が臨在しているのですが、人間は直接神を見ると死んでしまいますので、神を見ないように幕で仕切ってあるということです。次の記述に拠るところです。

 出エジプト記26:31-33

また青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で垂幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。
そして金でおおった四つのアカシヤ材の柱の金の鉤にこれを掛け、その柱は四つの銀の座の上にすえなければならない。
その垂幕の輪を鉤に掛け、その垂幕の内にあかしの箱を納めなさい。その垂幕はあなたがたのために聖所と至聖所とを隔て分けるであろう。

至聖所へは、年に一度だけ、ユダヤ暦の第七の月の10日、贖罪日に、その年の大祭司だけが入ることができました。その際、大祭司が神を見てしまわないように、香の煙を満たした、とされています。また、うっかり失敗をして、神に打たれて死んでしまったときに聖所にいる祭司たちがそれを知ることができるように、大祭司の祭服の裾には鈴がついていて、もし至聖所内で大祭司が死んだときには、外から死体を引き出すことができるように、腰に紐を巻いてその端を聖所へ出すようにしていたのだそうです。

フランシスコ会訳 出エジプト記 28:31-35

おまえはエフォドの下に着る衣を青糸だけでつくる。そのまん中に頭を出 すための穴をもうけ、それが裂けないように穴のまわりをみみ織り細工とし、皮よろいの穴のようにする。衣のすそのまわりには、青糸、深紅の糸、まっかな糸でよったざくろをつくり、金の鈴もそのまわりにつけて、ざくろと交互になるようにする。すなわち衣のすそのまわりは、金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、というようにする。アロンは務めをするとき、これを着なければならない。これは、かれが聖所にはいってヤーウェのみまえに行くとき、また出るとき、その音が聞こえ、かれが死なないためである。

メソポタミア神話に、敷居をまたぐときには何か音を出しながらでなければ、悪い精霊が飛びかかってその人を殺してしまう、という迷信があって、そのことを言っているのだ、という説明(下記のフランシスコ会訳聖書の脚注)もあって、その内容から、旧約聖書が現状に編集されたのはバビロン捕囚の終焉(BC537)以降であることがわかります

上記引用箇所に対応する脚注

「鈴」の音がアロンを死から守るという考えは、 悪霊が聖所の戸口にひそみ(創4とその注4参照)、音のない状態でそのしきいをまたぐ者にはとびかかるという 古代一般に信じられていた考えに由来するものらしい。 

フランシスコ会訳 創世記 4:6-7

そこでヤーウェはカインに言われた、「おまえはなぜおこるのか。どうして顔を伏せるのか。 おまえが正しければ、顔を上げればよいではないか。おまえが正しくなければ、罪が戸口で待ちかまえているようなものではないか。それはおまえを慕うが、おまえはそれをおさえなければならない」 

 この箇所に対する注

本節の大体の意味ははっきりしている。すなわちカインの心の中にはいりこもうとしている邪念(アベルを殺そうという悪い考え)を制するようにと神がカインに警告しているのである(ヨハネ一書3:12参照)。直訳では、「おまえがよくすれば、『上げること』ではないか。しかしおまえがよくしなければ、罪は戸口に伏しているものではないか。それ(伏しているもの)はおまえを慕うが、おまえはそれをおさえなければならない」。「上げることではないか」を「おまえ(とその供え物)はよみされるではないか」の意味に解する者も多いが、本訳のほうが適当と思われる。「伏しているもの」は文法上から見れば分詞(創世記に用いられている他の箇所は29:2 49:14 25)で、男性(「ロベツ」)であるが、この語に関連している名詞「罪」は女性である。おそらく著者の考えが罪の象徴として一般によく知られていたある男性名詞に移ったのであろう。したがってそのあとに続く「それ」は女性ではなく男性となっている。著者が3:24で神の使いを描くにあたってバビロニアの「カリブ」の姿を借りて表現したように(3注12参照)、ここにはじめてしるされた「罪」というものの本性、すなわち人の心にはいりこもうとするものであることを描くために、ここではアッカド人の考える悪鬼「ラビツ」(ロベツと子音は同じ)の姿を借りたものと思われる。この「ラビツ」は家の中にはいりこもうとして戸口のところですきをうかがっている野獣のように伏したものと、当時一般に信じられていた。ペトロ一書5:8で悪魔が「しし」と呼ばれている。

 

さて、それでは福音書の神殿の幕が裂けた、という記述にはどのような意味が含まれていると考えるべきでしょうか。ネット上から探して引用してみましょう。

イエスの死 - 牧師の書斎

「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」ことです。これは何を意味する出来事でしょうか。これはイエスの死によってもたらされた「天的現実の地的な現われ」と言えます。つまり、イエスの死によって、天にあるまことの聖所への道が開かれたことを意味します。この幕は至聖所と聖所を隔てている幕のことです。この幕が上から引き裂かれたということは、神がそれを引き裂いたことを意味します。人間が引き裂く場合には、下から上にということになるでしょう。しかしここで神の主権によって隔ての幕が引き裂かれ、人は自由に至聖所に行く道が開かれたことを意味します。つまり、イエスの流された血潮によって、私たちはいつでも神との親しい交わりが可能となったという天的事実のあかしです。

探せば他にも見つかりますが、どれもだいたい同じようなことを言っています。しかし、福音書には、十字架上での死と、よみがえりが別々に記述されているのですから、「天にあるまことの聖所への道が開かれた」と言うのであれば、そのタイミングはよみがえりのときであるはずです。物事の本質を探ろとしているのではなくて、現状の理解に記述の意味を貼り付けようとしかしないから、このような辻褄の合わない説明になるのでしょうね。それに「上から下まで」は裂かれた順序ではなくて、結果としての状態を表現しているだけだと思いますよ。

裂けた幕の意味は、神が臨在しているはずの至聖所が丸見えになったが、何もいなかったし誰一人死ななかった、という事実の告発です。神なんて本当はいないんですよ、ということを教えているわけです。

つまり、宗教によって民衆をコントロールする時代は終わった、ということなのでしょう。福音とは、宗教からの解放を示唆する言葉だと思います。復活は新しい人間性、宗教に振り回されない人間の本質的な価値観の蘇生を意味したわけです。

 宗教を否定し、人間性の復活を述べ伝えたのに、新しい宗教という病原にしかならなかった。実に陳腐で滑稽な結果です。案の定、正教だ、カトリックだ、プロテスタントだといって争っているようです。