キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタントの元信徒が運営するキリスト教批判ブログです

『復活』は事実なのか

webmagazin-amor.jp

 

エス様は一度死んでから復活した、ということになっているのですが、それは本当のことなのでしょうか。福音書から復活に関する記述を読んでみましょう。

マタイによる福音書 28
1さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。 2すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。 3その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。

マルコによる福音書 16
4ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。 5墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。

ルカによる福音書 24
1週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。 2ところが、石が墓からころがしてあるので、 3中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。 4そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。

ヨハネによる福音書 20
11しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、 12白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。

いかがでしょうか、実際に復活した現場を目撃した、という証言があるわけでは無いようです。どの福音書もすべて、墓を見に行ったら死体が無くなっていて、一人、あるいは二人の人物がそこにいた、という事実を述べているだけです。

次に、復活したイエス様が弟子たちに現れて説教を行った、という記述を見てみましょう。

マタイによる福音書 28
9すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。 10そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。

マルコによる福音書 16
12この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。 13このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。

ルカによる福音書 24
13この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、 14このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 15語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 16しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。

ヨハネによる福音書 20
14そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。

マタイでは明確ではありませんが、他の三福音書では明確に、途中で出会った人物はイエス様とは別人のようだった、と述べられています。

別人のようであったのに、実はイエス様であったと理解しようとすることは、つぎのイエス様本人による説明に反することであるように思います。

マルコによる福音書 13
24その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、 25星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。 26そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。 27そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。

終わりの日についての弟子の質問に答えて述べられたイエス様の言葉ですが、福音書で、人の子とはイエス様ご自身のことですので、誰が見てもイエス様とわかる状態で現れるのだ、と説明していることになります。終わりの日には誰が見ても本人とわかる姿で現れると言っているのに、復活後は誰だか判らなかった、ということには納得できないですよね。

おそらく福音書は、イエス様が死んだ後、その体が生き返ったということではなくて、その教訓、精神性はともに死んでしまったのではなくて、却って生き生きと新しい価値を帯びて蘇ったのだ、と言いたかったのではないかと思います。だから、イエス様では無いように見える人物が、イエス様と同じ価値観を示した、と記されているわけです。