キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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「ヨナのしるし」とは何か

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ja.wikipedia.org

 

旧約聖書のひとつに「ヨナ書」があります。預言者ヨナと神の間にあったニネベに関するやり取りについて書かれたもので、神は、正しいものであれば、イスラエルの民のみではなく、異教徒であってもその義に対する報いを与えられるのだ、ということが記されています。上記のWikiから引用しましょう。

主題
ヨナ書の主題は3つある。宣教者として神の指示に従わなかったことと、ニネヴェの人々が悔い改めたことに対して不平不満を言ったことに対するヨナの悔い改め (=神に仕える者としての生き方を正す) と、神は異邦人でさえも救おうとしておられる (=間違った選民思想を正し、異邦人に対する偏見を捨てる。神に仕える者としての考え方を正す) である。

エス様もヨナ書を引き合いに出しながら民衆に語っておられます。読んでみましょう。

マタイの福音書 12:38-41

そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。 

Wikiの「ヨナ書」には「イエスの説教における引用」として

新約聖書ではイエスがヨナの名前に言及する場面がみられる。たとえばマタイによる福音書(12: 39、16: 4)やルカによる福音書(11: 29)で、イエスはしるしを求める人にむかって「ヨナのしるし」のほかには何のしるしも与えられないと言っている。キリスト教では伝統的に、ヨナが魚の腹にいた3日3晩とイエスが死んでから復活するまでの3日間を対応するものとしてとらえてきた。そのような解釈から福音書の当該部分はヨナの体験を自らの死と復活の予型としてイエスが語っているというふうに理解されてきている。 

という説明があるのですが、もしも、ヨナが大魚に飲み込まれて吐き出されることと、ご自分が十字架につけられて死に、よみがえることを重ね合わせてこう発言したのだとするのであれば、その発言内容には間違いがあることがわかります。

確かにヨナ書には、ヨナが魚に飲まれて三日三晩その魚の腹の中にいた、と記されています。読んでみましょう。

ヨナ書 1:17

主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。 

しかし、イエス様は墓のなかに三日三晩いたのではありません、金曜日に葬られて日曜日に復活したと記されているのですから、「○日○晩」式に言うのであれば二日二晩であって、ご自分で「三日三晩」と言っていることとは矛盾することになります。つまり、ヨナが魚の腹の中にいたことと、イエス様が死んで墓の中、ないしは黄泉に降ったと言われる事柄の間に関係付はされていないし、重要なことでも無いということです。「三日三晩」と言われた理由は、しばらく経ってからでないと理解が進みませんよ、ということを言っているに過ぎないのです。では、何が実際の「しるし」だと言っているのかというと、ニネベが神によって滅ぼされなかったこと、つまり「異教徒も義人になり得ると示されていること」であると言っているのです。

エス様はこの箇所で、ヨナの預言者としての働きに呼応して、心を改めて義を表したのは異教徒であるニネベの人々であり、ソロモンの知恵に応じて義を表したのは異教徒であったシバの女王であった。異教徒は自分たちの教団に入信しなくても、理解と実践によって異教徒のままで真実を知る可能性を有しているのだ、と教えているのです。

異教徒は異教徒のままであっても義人となり得る。イエス様はそのことを説明しているのですが、その説明はキリスト教という宗教にとっては都合の悪い説明です。特に、産業として活動するためには非常に都合が悪い。なにしろ、イエス様本人が、宗教なんて必要ないよ、と言っているのですから、キリスト教は自己矛盾を孕んだ不安定な存在だということになってしまうからです。

しかし、教会による先入観を捨てて福音書を読むことができるのであれば、福音書には異教徒が異教徒のままで義となることができる、という示唆がいくつかあります。ツロとシドンで出会ったカナンの女のエピソード、カペナウムで出会った百卒長のエピソードなどで、異教徒が異教徒であるまま、義であると認められる可能性が示されているのです。

教会の説明を鵜呑みにしたまま、ひねくれ曲がった不自然な聖書の解釈を信用していたのであれば、あなたの聖書理解はいつまでたっても「三日三晩」のままでしょう。非常識な詭弁を信じ続けなくてはならない、というストレスが、聖書を口論の道具にしてしまっているのです。