ヨハネの福音書に「トマスの疑い」と呼ばれる話題があります。読んでみましょう。
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
教会学校でこの箇所を習ったことを覚えているのですが、それ以来ずっと不思議に感じていることがあります。イエス様が十字架につけられて亡くなったのが金曜日、マグダラのマリヤが墓に行ったのが一週の初めの日ですから日曜日だとすると二日経っています。更に八日のちの話ですから、合計十日経っているわけですが、イエス様の脇腹の傷は塞がらず空いたままだったと、福音書にはそう記されています。
おかしな話ではないでしょうか。少なくとも僕はそう感じました。十日経っても出血したままだったのか、それともイエス様の体は死んでいたので生体としての現象はなくなってしまっていたのでしょうか、そうならば腐敗が進んでいて、凄まじい臭気を放っていたはずですが、そのような記述は見当たりませんよね。ともかく、イエス様の脇腹の傷口は突き刺されたときのままパックリと開いていて、指を突っ込めるほどだったと福音書には記されているわけです。
そもそも、イエス様が神でありながら人の形の下にこの世に来られた理由は、もはや、見えない状態のままで間接的に教えを降していても、真の理解を及ぼすことができない、ということがわかったので、見える形で直接人々に教えよう、ということであったはずです。山上の説教には次のような一節がみられます。
マタイの福音書 5:8
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
見なければ信じられない人のために見える形で来た人が、人に見せるために復活して、わざわざ人の前に出てきて傷跡を披露しているのにも関わらず、その同じ人が、見ないで信用しろ、と発言するとは何事でしょうか。ふざけるのもいいかげんにしろ、と言いたいところです。
また、
によれば、
解剖学的な実験では、手のひらに釘を打ったとは考えにくく、手首に打ったとする説が現れた。これにより、今まで手のひらに多かった聖痕が、手首に多く現れることが報告されている。脳の思い込みが人体に影響するという解釈も存在している(「非科学的超常現象を解明せよ!」聖痕)。
あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。
とあります。「手首」 とは言っていないのです。念の為、KJVの同じ箇所を確認してみましょう。
Reach hither thy finger, and behold my hands
「手(hands)」には手首が含まれている、と言えなくもないでしょうが、説得力はありません。手首なら「手首(wrists)」と言うべきだったでしょう。上に貼ったステンドグラスのイエス様の傷は手首ではなく、手のひらにあることがわかります。
話がそれてしまいましたが、つまり、十二使徒以外、および後代のキリスト教徒はすべて「トマス」だということです。イエス様は本当に実在したのか、本当に死んで復活したのか、という疑問に答えるためには、イエス様本人が「いいからとにかく信じろ」と言ったことにしなくてはならなかった、ということに過ぎなかったのでしょう。めちゃくちゃな理屈、というべきレベルの話です。
そんなことを言うのであれば、別に神が見える形でわざわざこの世に降臨する必要は無かったのではないのか、ということになるでしょう。