キリスト教の問題点について考える

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福音書の普遍性

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福音書にはさまざまなたとえ話があります。たとえば「タラントンのたとえ」

マタイによる福音 25:14-29

また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。

(中略)

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

「タラント」とは、通貨の単位で、数年から数十年の収入にあたる金額、ということですから、数千万円から数億円ほどにもなるでしょう。

しかし一方で、イエス様は金持ちの青年に、すべての財産を捨ててしまいなさい、と言っていて、一見するとそれらは矛盾しているかのようにも思えます。

マタイによる福音 19:21

エスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。

一方はたとえ話であって、もう一方はたとえでは無い、ということですので、矛盾とまでは言えないのかもしれませんが、一貫性に欠ける感じは否めません。

当時、なにか「タラント」という単位にまつわる出来事があり、それが時事ニュースのようになっていて、このような説明を行うことによって、聞く人の理解をより促した、というような事情があったのかもしれません。価値観の一貫性よりも、意味を理解させることを優先しているわけです。

中には、違法行為を容認するかのようなたとえ話もあります

ルカによる福音 16:1-13

「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」

現代社会では考えられないことですが、このたとえ話では、主人は、不正な家令の利口なやり方を褒めた、とあります。宗教テキストとしてこのたとえ方は如何なものかと思わざるを得ませんが、これも書かれた当時の価値観では特別不思議なことでは無かったのでしょう。

聖書とは、いつ、だれが、どこで読んでも、同じ価値観を共有できる、というようなものでは無い、ということですね。言いたいことの大体の意味が理解できるのであれば、多少間違った事柄が含まれていたとしてもいちいち目くじらを立てない、これが常識だったということではないでしょうか。

僕としては、マタイ福音書の最も面白い矛盾点は次の箇所です。

マタイ福音書 22:42-45

「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。すなわち
『主はわが主に仰せになった、
あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、
わたしの右に座していなさい』。
このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。

この箇所で、イエス様は、キリストは必ずしもダビデの子孫である必要はない、と教えていますが、同じ福音書の冒頭には、

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリスト系図
アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。
ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。
バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。

とあって、イエス様がダビデの直系であることを主張しています。

この矛盾は、おそらくイエス様の実際の家系には、ダビデの直系であることを示す証拠が無かった、というよりはダビデの直系ではないことの証拠があったので、ご自身としては、

ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」

と言うしかなかったのでしょう。しかし、これは少なからず苦しい言い訳に聞こえます。たとえ目下の者であれ、子孫であっても、神に選ばれた指導者「キリスト」に対して「わが主」と表現することは正しいことではないでしょうか。イエス様の発言は、聞き苦しい屁理屈、のように思えます。

詩篇第110の冒頭を引用しておきましょう。

ダビデの歌

主はわが主に言われる、
「わたしがあなたのもろもろの敵を
あなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。
主はあなたの力あるつえをシオンから出される。
あなたはもろもろの敵のなかで治めよ。

しかし、福音書の記者としては、キリストはダビデの子孫から出る、と言われているので、イエス様が自分でどう言ったとしても、それには関係なく、ダビデの子孫であったことにしなくてはならない、ということで、マタイの福音書の冒頭には捏造されたダビデの直系であることを示す家系が記されているわけです。