キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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ユダヤ・キリスト教は本当に一神教か

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ユダヤキリスト教は、イスラームもですが、「一神教」である、と言われています。本当にそうでしょうか、

Wiki

ja.wikipedia.org

の、「アブラハムの宗教の悪魔」という項目を読んでみましょう。

アブラハムの宗教における悪魔は元来、神とその使いを除く超越的な存在全てであった。唯一神教であるユダヤ教は、他宗教の神々を悪魔と称して否定した。その派生であるキリスト教イスラム教も同様であった。西方キリスト教世界における悪魔は、地中海世界で信仰されていた古代文明の神々が否定され悪魔とされたものが多く、バアル神やモレク神などは代表的なものである(これらの神格はユダヤ教の時点で「魔神」シェディムであるとされていた)。ただし、唯一神以外の神々が全て悪魔とされたわけではなく、キリスト教に取り込まれた例もある。その代表例は、かっては新バビロニア地域の神々、あるいは神の諸側面を表象する存在であったミカエルガブリエルである。ユダヤ民族のバビロン捕囚時代以降にペルシアの宗教(とくにゾロアスター教のアムシャ・スプンタ)に影響を受けて、ユダヤ教に天使として取り入れられた。ミカエルやガブリエルは旧約聖書にも登場し、キリスト教では大天使として継承された。ヨーロッパ土着の神々が矮小化され妖精伝承となったこともあるらしい。

人間に試練を与えるための神の道具であったサタン(試みる・誘惑する者)は旧約聖書において悪魔ではなく、人間の敵ではあっても神の僕であった。サタンは「大敵」と呼ばれ、異教の神とは区別された。

ユダヤキリスト教でいわゆる「悪魔」や「天使」は、元来、異教徒が礼拝していた神であった、と説明されています。

しかし、それらが実在し、人間に対して何か霊的な作用を及ぼす、と言うのであれば、実際には「神のようなもの」であると評価せざるを得ないのではないかと思います。

信者としては、神は絶対的な善であり、善のみを施す。悪とは無関係である、と考えたいのでしょう。しかし、悪が神とは無縁であり、神は悪と際どい戦いを行っている、たとえば、神の預かり知らぬ状況において、人間が悪魔から悪性を植え付けられた、と理解するのであれば、それは「善悪二元論」以外の何者でもありません。

では、悪をもたらす「悪魔」は何処から生じたのでしょうか。簡単なことです。「エルシャッダイ」なる全能の神は、その全能のゆえに、自らと互角の力を有する他の神を創造することができたのです。エルシャッダイはサタンを生み出して悪の属性を移譲してしまったのだ、ということになるでしょう。

日本神話でも、開闢のときに存在した「造化三神」がイザナギイザナミを生み出し、イザナギイザナミから三貴子が生じ、その一子であるアマテラスが現在の最高神である、ということになっています。神が神を生ぜしめるという考えは、さほど不自然なことではありません。

元から神々や悪魔が並列に存在していたとしても、一つの神から神々や悪魔が生まれでたとしても、いずれにせよ聖書には、神「エルシャッダイ」以外に、「天使」とか「悪魔」とか呼ばれている、「神」のような霊的存在がある、と明記されています。それらは、特別な、神のような霊能力を持っていて、人間と関わります。これでは「一神教」とは言えない。その実態は、彼ら自身が嫌っている多神教と同じだということになってしまいますね。つまり、彼らが自分自身を「一神教」であると称することは、実は多神教への同族蔑視だったのだ、ということです。

キリスト教善悪二元論である、ということがよくわかる例を見てみましょう。練馬の「光が丘キリスト教会」のサイトから、引用します。

www.shining-hill.org

キリストは、サタンの屋敷を襲ってサタンを打ち倒し、サタンの持ち物を自分のものにするのです。

つまり、この荒々しいたとえ話は、サタンに対するキリストの勝利を描いているのです。

神と悪魔が戦争を行って、そのどちらが勝利するか、このような比喩が語られるということは、善悪二元論的考えが元になっているからにほかなりません。

私たちは今、確かに、神の側にいるんですね。

その喜びをもって、この戦いを戦い抜きましょう。

神の側に立ちつづけましょう。

「 神の側」と「神でない側」、これもどう考えても二元論的ですよね。

日本の神には「和御魂(にぎみたま)」 と「荒御魂(あらみたま)」という二面があって、和御魂は豊穣や福楽を、荒御魂は天災や凶事を司るとされ、吉凶は同源であることを示しています。同じ神社の境内の、和御魂が本殿として、荒御魂は摂社や末社として祀られているような場合も多く有り、日本の神社信仰のほうが、返って一神教的な理解を行っているのではないかとさえ感じます。

一神教」だと言いたいのであれば、善も悪も、同じ一つの神から発出すると理解しなくてはならないはずです。愛も憎悪も源は同じだと納得するべきだったということです。

しかし実際には、ユダヤキリスト教とは、善悪二元であり、多神教でもあって、一神教と自称するのは他の宗教を批判するための建前に過ぎない、ということになるでしょうね。