キリスト教の問題点について考える

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ユダヤ教は排他的か

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ユダヤ教 - Wikipedia から引用します。

ユダヤ教では、改宗前の宗教に関係なく、「地上の全ての民が」聖なるものに近づくことができる、救いを得ることができる、と考える。「改宗者を愛せ」という考え方は、次のようなことばにもみることができる。

「寄留者(ゲール)を愛しなさい:あなた達がエジプトにおいて寄留者であったからである (ミツワー、典拠は申命記10:19)」

すなわち、血縁よりも教徒としての行動が重要視されることも多い。非ユダヤ人も神の下僕となり、神との契約を守るならユダヤ教徒になることができるとされる。ユダヤ人が神の祭司であるのに対し、非ユダヤ人は労役に服するという差別性がある。

ユダヤ教を信仰する者をユダヤ人と呼ぶ一方、形式的に考えれば初期のキリスト教徒はすべてユダヤ人だったのであり、「ユダヤキリスト教徒」という矛盾を含んだ呼称も成立する。世界中の全ての民族は「ユダヤ教」に改宗することによってユダヤ人となりうるのであり、ユダヤ人は他宗教に改宗することによって、もはや狭い意味での「ユダヤ人」ではなくなってしまう。これは民族の定義を血縁によるのか、宗教によるのか、「ユダヤ教」が「民族宗教」なのか、あるいは「ユダヤ人」が「宗教民族」ともいえるのか、といった問題につながる。

このように、内面的な信仰に頼らず行動・生活や民族を重視し、また唯一の神は遍在(ヘブライ語ラテン文字転記:maqom)すると考える傾向(特にハシディズムに良く現れる概念)があるため、ユダヤ教の内部にはキリスト教的、またイスラム教的な意味での排他性は存在しない[要出典]。

だれでも、たとえ日本人であってもユダヤ教徒になることができる、ということですね。「非ユダヤ人は労役に服するという差別性がある」とあるものの、「世界中の全ての民族は「ユダヤ教」に改宗することによってユダヤ人となりうる」ともありますから、その差別も払拭されてしまうことになるでしょう。

つまり、本質的な意味において、キリスト教は発生する必要が無かった、ということになります。イエス様が現れたことが本当だとしても、その運動はユダヤ教の範囲内で行えばそれで十分だったわけです。そのほうが、理屈としてずっとわかりやすいものになっていたはずです。シナイで交わされた契約がこれからも変わらず有効であって、聖書の記述内容は永遠に価値を変えないままだと説明することができます。

キリスト教を設立しなくても、ユダヤ教は、そのままで世界宗教になり得たのです。

では、ローマ国教選定時に、なぜユダヤ教ではなくて新しい宗教を作成する、という結果になってしまったのでしょうか。理由は2つあったと思います。

1つは、首都を限定されてしまうということです。ユダヤ教である以上、首都をエルサレム以外の都市に置く、ということはできないでしょう。これは非常に都合が悪いことでした。

2つめは、613もある戒律です。たとえば

「196. 肉と乳が一緒に調理されたものを食べてはならない」

なんてのを守らなければならないのであれば、ブッフ・アラクレムを食べられなくなってしまいます。そして、一番困るのは「割礼」です。割礼なんて、国民に拒否られてしまうことは火を見るよりも明らかです。

キリスト教という宗教は、オトナの事情で、ローマ帝国が仕方なしに渋々作成した屁理屈宗教だった。

実情はこんなとこでしょう